Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 65th Book>黄色い家

豪快で壮大なんだけれど、すべてが繊細。

ストーリーは読者を引き込む勢いが凄まじく、登場人物、特に主人公の感情は痛いほど伝わってくるのに、文体が優雅にすら感じられる。

久々に心打たれる小説を読みました。

 

「黄色い家中央公論新社著:川上 未映子

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物語はコロナ禍、40歳前後の花が、黄美子さんの刑事訴訟の記事を見つけたところから始まります。

花は、東村山市で育ちました。

父親はいつの間にか帰ってこなくなり、母親はホステスとして働いていました。

全く裕福とは言えない生活を送りながら、高校生になった花は、アルバイトに精を出していましたが、貯めていたお金をすべて盗まれてしまいました。

お金を稼ぐこと、働けば働くほどお金が貯まっていく、自立に向かっての第一歩としてやりがいを感じていた、真面目でまっすぐな花は、絶望します。

そのような中、数年前の夏休みに一度、しばらく面倒を見てくれた黄美子さんに再会。

母のもとを飛び出し、黄美子さんの住む三軒茶屋のアパートへ移り住み、一緒にスナック「れもん」を二人で始めます。

銀座のクラブで働いており上客を時々連れてきてくれる琴美さんや、何をやっているかはわからないけれどきっと怪しい仕事をしている映水さんの力を借りながら、近くのキャバクラで働いていた蘭、たまたま客として「れもん」に来た高校生の桃子をホステスとして受け入れ、「れもん」の営業は軌道に乗ってきていました。

「れもん」で働く4人は、生活も共にし、すべては楽しく、順調でした。

めでたしめでたし、というわけにもいかず、そこから花はまた何もかも失い再び絶望と焦りに苛まれながら、10代にも関わらず闇社会の道へ足を踏み入れ、波に呑まれていきます。

 

 

あらすじを書くに書けない物語だな、と書いていて思いました。

設定の緻密さ、闇社会や水商売の世界のリアルさ(私には正直わからないけれど、すごく真に迫って描かれている)、金とは何であるのか、各登場人物の置かれている環境とその重み、彼らの感情の動きとそれによる言動...

ページをめくる手が止まりませんでした。

そういう意味で小説としてのエンタメ性も充分なのですが、エンタメ云々ではなく、いちいち読者の感情を揺さぶってくるし、社会に問いも投げかけている。

 

 

私は、恵まれた生活をしてきています。

食べ物はおろか、学費に困ったこともなく、留学までさせてもらって、そのバックグラウンドを糧にして、今も生活に困らないくらいには自分で稼いでいます。

お金に困ったことは、本当に幸いなことにありません。

私の周り、家族友人等含め、出会う人たちは基本的に、同様の人が極めて多い。

その環境にいるということ自体、恵まれており、特権であるということを、大変恥ずかしいことながら、本当にたったここ数年で私は気づいたばかりなのです。

ページをめくる手は止まらなかったけれど、めくればめくるほど、心が痛む気もしました。

花のような、貧しい人たちへの同情がないといえば噓になる。

花のような生活をしなくて済んでよかった、という安堵を感じてしまったことによる罪悪感も否めない。

傲慢にも、自分は繊細な人間だと思っていたのだけれど、そしてそれは決して100%誤りでも確かにないのだけれど、でも少なくとも「貧富」という側面で社会や人の環境を切り取ったとき、私はとても鈍感になりえるかもしれないと思って、ゾッとしました。

私が普段、社会や政治に抱いている考えや想いは、ある程度恵まれているであろう私の周囲の人間にすら偽善に聞こえるようなことが多いことは自覚しているのだけれど、ひょっとしたらそれはまだ今の現状では本当にただの綺麗ごとなのだろうな、と思って悲しくもなりました。

16の時にアメリカへ10か月ほど留学して、貧富の差も見た気でいたのです。

高校に行けば養子として育っている子たちが一定数いて、他にもドラッグをやめられなかったり妊娠したりする子たちが学校にいたり、レイプをしたりされたりしてしまった人が親族にいたり、ベースメント付きの豪邸に住むホストファミリーがいれば、アパートの賃貸が払えなくて引っ越しに引っ越しを重ねるホストファミリーもいた。

日本ではありえない世界を見て視野が広がった気が、当時はしていたんです。

でも、親にお金を出してもらって留学させてもらえるような家庭に育って、日本にもあるであろうそういう世界を見ずに済んだ、お気楽な高校生だったというだけでした。

 

 

本作に、ヴィヴさんという闇社会に生きる女性が出てきます。

金の量はもとから決まっていて、生まれつき金持ちであることにも貧乏であることにも理由はなく、金持ちは一生金持ちで、貧乏は一生貧乏で、金持ちが作ったルールの社会で、金持ちも貧乏も生きている

といったような内容を、彼女は言うのです。

何度も何度も彼女のその言葉に目を走らせては、何度も何度も心をえぐられる想いでした。

わかっていたけど見たくない現実が、過不足なく明瞭に言語化されていました。

読みたくないけど、読まないといけないと思わされる言葉でした。

どちらかといえば、私は金持ち側にいるのだと思います。

そして、ヴィヴさんが言った通り、それは環境のおかげだ、生まれてきたところがたまたま金持ち側だったということにも、ここ数年で私は気づきました。

そしてここ数年、綺麗ごとだ、偽善だ、理想主義すぎると言われるような社会の実現を私は願っています。

その「綺麗ごと」や「偽善」が何を意味するのか、自分でもわかりきっていませんが、仮にそれが本当にそうだったとしても、少なくともその「綺麗ごと」や「偽善」の度合いを少しでも減らすために、絶対に忘れてはいけない内容のひとつが、このヴィヴさんの言葉だと思っています。

 

 

あらすじのみならず、感想自体も書くに書けない小説な気もしています。

人間は、ここまで複雑な感情を持てるものなのか。

それとも私が体験し得ない経験をしている登場人物たちの感情が鮮やかに描かれているから、初めて私が体験している感情なのか。

いずれにしても、感情を言語化しきらずとも、読者に鮮明にその感情を体験させてくれます。

相変わらず、脱帽の川上未映子さんの小説です。

<The 64th Book>おつかれ、今日の私。

30を過ぎて、仕事もプライベートも色々と転機があったりして。

毎日の積み重ねは大したことはなくても、年ごと、月ごと、週ごとに何かしら自分の中で、ちょっとしたイベントはあったりするもの。

そのひとつひとつに一喜一憂したりしながら、日々を過ごしています。

今日も寝不足で、生理前で、仕事もプライベートで、なんだかうまくいかない気がして泣きたい気分。

そんな時に慰めてもらえるような短編集です。

 

「おつかれ、今日の私。(マガジンハウス)著:ジェーン・スー

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最近は、ジェーン・スーさんの新作、書籍とあれば、とりあえず大体手に取って読むようになっています。

世代が違うから、必ずしもすべてを共感できるわけではない、と過去のブックレビューにも書いています。

が、やはり、こうした彼女の随筆型の短編集にはほっとさせられることが多いです。

彼女や彼女の周りを含む多くの人が、日々浮き沈みを感じながら生きているのだな、ということを優しい言葉で言語化してくれているのが本作です。

私だけではない、みんなハッピーな日があれば、ダウン気味の日もあって、そのアップダウンだけでも疲れることだけど、なんとか自分が自分でいられるように、自らを励ましながら生きているんだ、と。

ウェブサイトで連載が始まった当初は、毎度更新のたびに追っていたのですが、途中から追えなくなってしまい、こうして本作でまとめ読みできてよかった。

そのうち、いくつか心に残った章があるので、エピソードの内容を書くことはしませんが、いくつか列挙させてください。

 

「人の気持ちを矮小化すると致命傷になるよ」

いま、私は悲しい。うれしい。楽しい。悔しい。

思わず他人に吐露したくなることはありますよね。

私自身にとっても、自分の感情を言語化してアウトプットすることが、自分の感情と向き合う一番効率的かつ効果的な方法です。

「人間そんなもんだよね」「みんなそんなことあるよ、たいしたことない」

と言われて、励まされることもたしかにある。

でも、それは私自身がそのとき切に感じている感情で、それを一般化されたり、よくあることだ、と他人から一蹴(というつもりで当人は言っていないでしょうが)されると、さらにみじめになったり、怒りが増したりすることは、あるはず。

結局、その人の立場にならないと、その人が本当に感じていることを”わかる”のは難しい。

不用意に励ましの言葉を言ってしまうこと、私もあったかもしれない。

その人が感じている感情を、自分の過去の別の経験に置き換えて、話してしまったこともあったかもしれない。

矮小化された、と自分が日ごろ、親族友人知人と話していて多いことは確かです。

いくら私が、自分が感じている感情や置かれている状況を言語化したところで、言語という媒体で相手に伝えられる情報は限られているから、仕方ないことなのかもしれない。

でも、それをまた、私も、矮小化する側として、行っている可能性もあるかもしれない、とヒヤッとしました。

相手を「慮る」ということの重要性を改めて感じさせられた章でした。

 

「白黒つけない生き方」

私はこれが本当に苦手。

「来年の目標は曖昧を愛すること。」と締めくくられている本章ですが、もう私にとっては不可能に近いくらい難しい。

現に今だって、めったに恋愛なんかしない私が、ああでもない、こうでもない、とひとりでグダグダ考えて、その状況に疲れて、始まっているか始まってもいないかわからない恋(というかただの一人相撲だけれど)に、早々に決着をつけたくてうずうずしている。

とりあえず、おなかの中にうんちをため込みたくないんだよ、排便して、さっさと流したいんだよ、という気分。

自分だけに関わることでは、決断も、その決断に基づく行動も、効率性を何より重要視する私は、白黒つけること自体が癖になっており、しかもスピードが速い。

でも、こと恋愛となると、私だけではどうにもならないこと。

経験が浅い私には、どうにもこうにも、モヤモヤしている状況を楽しむ余裕もなければ、時間を無駄にしたくない、だめならさっさと次に行きたい、他の何かに集中したい、というせっかちな性質が、妙に自分を焦らせる。

私はまだまだ未熟者だなあ、と思っているところ。

心身の一部を誰かに預けるとは、こうももどかしいものなのか。

こうも白黒が簡単につけられないものなのか。

曖昧を愛することはできないかもしれない、と思いつつ、これが今、「曖昧」からの私への試練なのかもしれません。

またさらに大人な私になるための、ひとつのステップなのでしょう。

 

「なにをしても許されてしまう人をうらやむ」

この表題だけで、涙が出そうなくらいに痛いほどわかる、共感の嵐。

一字一句うなずくしかありませんでした。

「なんでも自分でやろうとしなくていいんだよ。自分ができることでも、人にやってもらっていいんだよ。」

と、かつての友人に言われたことがありました。

「かつて」というのは、理由はいろいろありますが、もう今は友人ではないから。

私は、当時、非常に彼女に嫉妬していました。

「(仮に自分でできることであっても)できない。」「お願い、やって。」とあまりに当然のように他人に言えることに。

その要求に、またも当然のように応える周囲に、私は唖然としました。

私には、彼女が、誰もがかしづくお姫様に見えたのでした。

昔から大人の顔色を窺いながら育った私は、私が周囲に気を遣っているということを気取られずして、気を遣うことを重要視しており、”他人に甘える”という行為でさえ、気遣いのひとつとしてのパフォーマンスでやるくらいでした。

何重もの裏含みがありながら私がするその行為を、彼女は、なんの裏もなく、当然のことのように行い、周りからの恩恵を享受するのです。

ひどく嫉妬し、その嫉妬に自覚的でいた私は、当時は本当に苦しかったです。

作者も同様のことを書いていましたが、自分が自分に他人に素直に甘えることを禁じている、でもそれをしないと自分が愛される資格がないのかもしれない、という強迫観念が常に私について回ります。

一方、わがままを言ったり甘えたりをいとも簡単にできる人たちは、何があっても愛される資格があると確信を持っているのだ、またそれにも私は嫉妬してしまう。

いま、私はそういう人たちから距離をとることでしか、自分を守る方法を知りません。

でも本当は、私も素直に少しでも甘えられることができたら、それが成長なのかもしれません。

 

「私はしあわせジャンキー」

この章は、老若男女に読んでほしい。

自分がしあわせかどうか、常に注視して、世の人に生きてほしいです。

なぜなら、作者同様、私もそうだから。

自分にとってのしあわせが何か、に常に敏感に生きてほしい。

人間は、ひとりで生まれ、ひとりで死んでいくけれど、ひとりで生きることは難しい。

自分にとってのしあわせが何かに敏感であることが、他者へのしあわせにも敏感であることだと思います。

それが生きる本質だと私は思います。

 

 

ほかにも紹介したい章はあったのだけど、サクッと読める、だけど心はほっこりする一冊なので、機会があればぜひご自身で。

<The 63rd Book>世界と私のA to Z

どの世代の人間だから、が言い訳になるわけでも、とある世代生まれの人を一般化するのも、必ずしも良いわけでも正しいアプローチでもないかもしれない。

けれど、名前がつくこと、世代における傾向が見えることで、自分の抱える矛盾や葛藤が可視化されやすくなることも確かです。

私が抱えるもやもやを、本作が言語化してくれており、すっと胸のつかえが取れた思いでした。

 

「世界と私のA to Z講談社著:竹田 ダニエル

bookclub.kodansha.co.jp

 

Z世代とは、1990年代後半から、2010年くらいまでに生まれた人たちの世代のことだそうです。

ティーンエイジャーから20代中後半くらいまででしょうか。

まさしくこれからの世界を、日本を率いていく世代です。

彼らがいま、どのように世界を感じ、見て、どう生きていこうとしているのか。

音楽やファッション、恋愛など、主としてカルチャーの切り口から、人権や信仰等のトピックも交えつつ、彼らの抱えている不安、想い、考え方等を紹介してくれています。

何年から何年に生まれた人は必ずその世代で、その世代というのはこういう人!という明言はできない、と時折繰り返しつつも、各世代の社会的背景と、それに伴う解説も含めて、見事に分析してくれています。

各章のタイトルがすべて「私にとっての~~」で始まっていることも、本作に書かれている各世代の分析すべてが絶対というわけではなく、あくまで読者の感覚等への配慮からのタイトル付けなのかな、とも思われて、とても素敵です。

著者の竹田さんが、米国で生まれ育った方のようで、本作でZ世代として分析されている若者たちも、主として米国の若者のことが主のように見受けられました。

日本の社会や若者に、必ずしも完全一致する内容ではないかもしれませんが、傾向としては同様のものが見られるのではないか、とも思います。

デジタルネイティブとして、物心ついたころからインターネットやSNSが発達しており、簡単に世界と繋がることができた若者たち。

コロナなどで多感な時期をリアルでつながることが難しいながら、膨大な情報量に簡単にアクセスできてしまうため、視野はかつての若者よりも否が応でも広くなってしまう。

そして、不安定で暗い世の中で、入ってくる情報も、環境問題や人種問題、解決すべき課題が山ほどあることがわかり、将来への不安は煽られる。

そんな彼らが何を思い考え、どう人生を切り拓こうとしているのかを学ぶことは、住み良い社会を作るのにはどうしたらいいのか、を考えるにあたり有効な視点のひとつではないでしょうか。

素晴らしい気づきを与えてくれること間違いなしの本作です。

 

 

私は1990年前後だから、ミレニアル世代。日本で言えばゆとり世代

ミレニアルど真ん中で、ゆとり初期。

だけど、本作を読んで、救われる想いになった文章がたくさんありました。

特に、第一章の「私にとってのセルフケア・セルフラブ」!

私がここ数年、思い続けていること、親しい友達には語り続けていること、

各人が、各人として自立して、互いを尊重する(侵食しない)こと

それをするために、自分を愛し、自分の考えや感情に自覚的であり、自分に対して誠実でいること

自分が自分でいることを維持することが、他人を愛し、他人に誠実でいられることだ

とずっと思い続けてきているのですが、類似のことをZ世代の多くがすでに考えているらしいと本章で私は読み取り、もう嬉しくて、救われた気がして涙が出ました。

「自分がどう見られるか」のミレニアル世代から、「自分が何を尊重し、どう考えるか」をファッションや、推し活で表現していくZ世代。

私自身は明らかに、ど真ん中のミレニアル世代より、Z世代寄りの考え方に近い気がして、そしてZ世代のそのトレンドに救われる気がして(←いろいろな側面で救いを感じるミレニアル世代は多いと思う)、ほっとしました。

と同時に、あと15年くらいは遅く生まれたかった、と安易に思ってしまったりもして。

昔から、セルフケア・セルフラブを自身の性格・性質として励行してしまう私は、幼少期や思春期は、特に日本の学校生活では本当に生きづらかった。

想いを漏らすと弱い子だ、世の中弱肉強食だぞ、と言われ、「弱音のつもりではない!私が理想だと思っていることを言っているだけだ!」と主張すると、わがままだと言われた。

傷つくことがたくさんあって、涙を流したこともたくさんありました。

でも、少なくともZ世代以降は、そういった傾向が減ってきており、私のような悲しみや悔しさを思春期で感じる人たちが少ないのだろう、と本作で知ることができたのは、本当に救われる想いでした。

 

 

とはいえ、私もミレニアル世代。

資本主義の波に飲まれ、いまだに大量生産、大量消費のプロダクトに魅力を感じてしまったり、スキニーパンツが楽で多用してしまったりします。笑

たくさんの切り口で語られているZ世代の価値観の多くに共感しつつも、やはり馴染み切れない感覚もあったりして、それが時代の流動的な、完全に断裁できない流れなのでしょう。

Z世代自身も、多くの矛盾を抱えていること、繰り返し語られています。

その矛盾の存在を認識し、肯定していくことが大切だとも。

矛盾の存在を含め、Z世代にはZ世代の悩みや苦しみがあり、それを肩代わりしてあげることはできない。

私自身は、不安定な先の見えない将来におびえることになるであろうことが見えていながら、そんな不安な想いをすることになるであろう子供を積極的に作りたいとは今のところ思っていません。

けれど、生まれてきた子供たちに罪はないのだから、彼らが住み良い社会を作っていかなければならないとは、常に思っているのです。

彼らが変えようとしている社会を、私たちも一緒に作っていきたい。

弱くてもいい、弱いところがあってもいい、それを自分も社会も受け入れられるような世界を。

 

<The 62nd Book>嘆きの美女

外見における美醜については、多くの人がパラドックスを抱えて生きているのでは、と思います。

自分のコンプレックスに、やけに向き合わされてしまいました。

 

「嘆きの美女朝日新聞出版)著:柚木 麻子

publications.asahi.com

 

主人公の池田耶居子はいわゆるニートで、ネットの荒らし屋です。

特に彼女が着目しているのは「嘆きの美女」というサイト。

複数人の美女たちにより更新されており、数々の美女ならではの悩み等がシェアされています。

そのサイトを逐一チェックして、辛辣なコメントを書き込んでいく耶居子。

美女たちを一目見て本当に美しいのか確認してやろうと、相当ぶりに外出したと思ったら、大事故に巻き込まれ、事の流れで美女たちが住む家にで治療&居候することになります。

美女たちは実際に美しく、しかもサイトの管理人は、かつては親しかった小学校の同級生のユリエという始末。

卑屈で強情な耶居子は、最初こそ美女たちとの生活に辟易していましたが、彼女たちと寝食をともにし、仕事も手伝うことになり、美女たちの実態、自分自身の変化に気づいていきます。

耶居子の成長と環境の変化に伴って、親友だったユリエとの関係、ほか美女たちとの友情も見どころです。

知らなかったけど、ドラマにもなったんですね。

耶居子役であった森三中の黒沢かずこさんがあとがきを書いていました。

 

 

改めてなんだけど、柚木さんは、食べ物がたぶん本当に好きだと思う。笑

私も食べ物大好きだから、食レポか!レシピ本か!って思っちゃうくらい、食べ物の描写がたくさんあって、食欲をそそるのなんのって。笑

あと「BUTTER」を読んだ時もそうだった。

そこに出ている食べ物、すべて試したくなるし、食べたくなるんだよな。

本作に関しては、スナック菓子含む食べ物もそうだけれど、アニメや漫画も相当読まれたり研究されたんだろうな、と思っています。

アニメ漫画好きな人にも、本作はおすすめかもしれないです、私はわからないけれど共感ポイント多いのかも。

あと、やっぱり描写がきれいで上手い

ストーリーを進めつつも最初の3ページくらいで、耶居子がどんな見た目でどんな人間か、読者の頭の中に情景が浮かぶように描写されている。

各登場人物の感情描写もいうまでもなく、言語化がしっかり為されています。

 

 

耶居子が途中で気づいたように、自分らしさ、自分の心の見せ方が、いわゆる外見(ファッション含む)に反映されるのだと思います。

なにより、そのためには自分で自分の魅力に気づかないといけない。

自分がどういう人間か、自分の心に向き合わないといけません。

そういう女性は、「美人」ではなかったとしても、とても綺麗です。

 

 

私も3~4年前までは「不美人」で、綺麗ではありませんでした。

子供っぽくて垢ぬけなかった。

「不美人」だったのは、単に太っていたから。

自分で言うのもなんですが、たぶん私の顔立ちはある程度「整って」います。

だからか、太っていた時も、見た目に関して、私自身は別にそこまで気にしていませんでした。

顔立ちもそうだけど、自分のことに限らず、何より外見以外の部分に価値基準の比重を重く置いていたから。

いま、前よりも「美人」で綺麗になったと思うのは、瘦せたから、というのもありますが(とはいえ全然まだ太っているけどね)、それは結果でしかなく、自分の身体をケアしようとしているからだと思います。

健康でいよう、と思うようになったから。

今も、心身のバランスをとることにとても気を割いている。

大好きなケーキを食べることによる身体への負担、食べることによって得る満足感、食べてしまったことによる後悔、身体にかけるコストと心にかけるコストのそれぞれの割合とそれらの総数が、食べた時と食べなかった時で、どの程度変わってくるだろうか。

簡単ではないけれど、だからこそ、そんなことに常に気をまわしています。

かつての私は、傍若無人に自分を扱っていたのでした。

だから、子供っぽくて垢ぬけない、「不美人」で綺麗ではなかったんだと思います。

時々羽目を外すことはあるけれど、それでも今は、自分を慈しむようになった。

かつては全くなかった、「美人」「綺麗」といった他人からの言葉も、今は恐れ多くも耳にする機会は増えました。

 

 

だけど、結局、自信は自分から出てくるものなんです。

私自身はそこまで気にしていなかったのに、私の顔や身体を持たない、私ではない人間たちがうるさく言っていた。

「身内だから、愛情だから」という甘えからくる親族のからかいの言葉、幼さならではのストレートであからさまな陰口。

「女の子」の構成要素として見た目が重要であることは、小さいころから嫌というほど随所で感じていた。

この子は縦じゃなくて横にばっかり成長するから。

あんたは「美人」じゃないけど「チャーミング」かな。

単なる愛情でもつらいよ、お父さん。身内だとしても、あなたは私じゃないでしょ、おじさん。また「デブ」って陰で言われたな、今日。

本当は毎回傷ついているのに、それを毎度、笑ってやりすごさないといけなかった。

やりすごせなくて、たまに泣いてしまうこともあった。

泣くと、また笑われて、努力しろ、となじられた。

私の顔や身体が彼らの所属物かのように言われるのが許せなかったし、とにかく理不尽で、怒りと悲しみでいっぱいだった。

笑ってやりすごそうとする度に、私から、自信が失われていったんです。

たった小さい一言の、大量の蓄積が、いまだに私の心を巣食っている。

自分自身は気にしていないことなのに、「お前はこれを気にしなきゃいけない。美人で細くて可愛くなければいけない」と、何度も何度も言われた。

私にとって、最重要事項ではないことなのに、私が自分の見た目を気にしないのはおかしいことのように言われた気がした。

何を気にするかは、私の勝手。他人に、私が気にするべきことを指図する権利なんてなのに。

 

 

そうして侵害されて、失われた自信は、いまだに完全に取り戻せていません。

食べるものや運動から、自分の身体をケアするようになったのは、単純にもう病気になりたくないから。

たまたま痩せて、前より「美人」で綺麗になって、そういった言葉を他人から、特に男性からかけられるようになった。

その他人からの褒め言葉を、いまだに喉から手が出るほど待ち望んでいることがよくあるんです。

「美人だね」「きれいだね」「かわいいね」

ただ単に、リップサービスで言っているだけなんでしょう。

でも、もう一回言って!もっと言って!ねえ、私ってかわいい?きれい?美人?

他人の言葉によって奪われた自信を、また他人の言葉によって取り戻そうとしている。

この考え方、相当歪んでいるし、不健康なんですよね。

わかっているんだけど、こと外見や見た目に関しては、まだどうしても他人のせいにしておきたい。

 

 

この歪んだコンプレックスは、私の美醜の判断基準にもすごく影響しています。

私は異様に面食いらしい。

黄金比を気にする。

芸能人も、ほとんど綺麗とも可愛いともイケメンだとも思えません。

顔立ちの美しさにこだわります。

きっと、私が唯一、自分の見た目でそこまでおかしくないと思えるものだから。

「チャーミング」じゃだめなの。「雰囲気イケメン」じゃだめなの。

圧倒的な美人がいいの。圧倒的なハンサムがいいの。

幼いころから、画一的な「かわいい」「美しい」「ハンサム」など身近な社会から押し付けられてきた。

その基準の中で、私は一番「正しい」在り方として、その最上級版を求めているだけなのに、それは求めすぎだと批判される。

もう正直わけがわからない。

正解が存在しないものに、無理やり正解を付与して私に押し付けてきたから、その社会通念にこちらが合わせてあげて、最上級の正解を示して求めることにしたのに、それの何がいけないの?

私は本当に理不尽なことへ、いまだに耐性がありません。

自分の見た目へのコンプレックスと、人の美醜に関する自分の見識には一生悩まされることでしょう。

 

 

プラスサイズモデルのことを美しいとも思う。

マニッシュな女性も美しいと思う。

ドラァグクイーンも美しいと思う。

それは、生き様の美しさ。

私が前より綺麗になったのも、きっと少しずつは成長して、生き様を良くしようとしているから。

見た目に異様なコンプレックスを感じながらも、世の中の画一的な「美」以外にも美しさを感じられる自分を好きになれたことが、私の小さな救いかもしれません。

 

 

見た目にコンプレックスを抱く私ですから、耶居子の異様な美女嫌いの気持ち、よくわかって共感の嵐だった。

耶居子は美女たちが「美人」であることを認め、僻んでいました。

でも反対に、美女たちは耶居子の「自分らしい生き様」に気づき、羨望の目で見ていました。

人間の「美しさ」には、様々な側面があることを、本作の登場人物は教えてくれています。

 

 

私は好きな俳優ばかりで映画を観るけど、やはり本もそうみたいで、好きな小説家ばかり読んでしまいます。

まあ、みんなそうか。笑

柚木麻子さん、もう結構に読んできた気がします。

このブックレビュー始める前から、「この本よかった!」って思うのは柚木さんの作品が多かった。

まだ読めていない作品も結構ありそうだから、読んでいきたいな。

<The 61st Book>きれいになりたい気がしてきた

私はまだ若いけれど、それでも歳をかさねて悩みや気になるところは変わってきていることを実感している。

こうして赤裸々に、自身の内外の想うところを語ってくれる人がいるのは、ありがたいことです。

 

「きれいになりたい気がしてきた(光文社)  著:ジェーン・スー

www.kobunsha.com

 

最後に本ブックレビュー更新して、はや1年弱www

2022年は本を読めるようなって以降、人生史上最も本を読まなかった年でした。

多少読んではいたけれど、両手に収まる冊数程度でしょう。

心身の健康と時間の余裕があってこそ、読書はできるものなのだと実感しました。

度重なる病院通い、常夏の楽しくもtoxicな日常、転職による帰国と引っ越し、全く異なる業界・職種の仕事、それらに伴う別れと出会い、旅行も少しはさみながら、2022年は公私ともに転機の年でした。

気の赴くままに、心を満たす読書がようやくできるようになった気がします。

 

 

久々のレビューはやっぱりジェーン・スーさん。笑

本作が昨年始めのほうに刊行されたのは知っていたけど、バンコク紀伊国屋で取り寄せる元気は当時の私にはなかった。

久々の読書、本作を最初に手に取ってやっぱり正解だったと思います。

見た目と心、仕事とプライベート、自分と他人。

それらのバランスを取るための、彼女のあらゆる気づきを共有してくれています。

彼女は少し先輩世代だから、今は共感できなくても今後の勉強になるものもあれば、すでに大きくうなずける内容もある。

ただ、やっぱりまだ私自身が子供だと思うのは、「日本社会が(主としてジェンダーの観点から)良い方向に向かっている。多様性に関して前進している」との度々の言及に首を縦に振れないこと。

その言及自体は、正しいと思います。

でも、まだまだ生きづらい、遅すぎる。

いかなる点も海外が日本より優れているとは全く思わないけれど、少なくとも、人としての在り方についてを含むジェンダー的思想に関しては、前進が遅々としすぎている。

海外のニュースやメディアに容易に触れられるこの時代、世界でのノーマルが、時としてアブノーマルとしてとらえられる日本人社会に組み込まれている私は、他国の社会を見て指をくわえてしてしまうことも多々です。

(海外に住もうと、少なくとも私は、日本人社会からは逃れられません。親と縁が切れないのと似たような感覚です。他国で「外国人」として暮らすために、自らの出自のバックグラウンドによるサポートは、私には必須でした。)

喉から手が出るほど欲しい、他国では当然となりつつある環境が、日本社会ではまだ得られていないことに、やきもきしてしまうのは、私がまだ若いからだろうか。

 

 

年越しは、モンゴルでしました。

4年間の常夏の国での生活を9月に終えて、「日本、寒い!乾燥やばい!!」と言っておきながら、さらなる寒さと乾燥の国へ、鍛錬しに行ってきました。

旅行へ行ければ国内外どこでもよかったのが本音です。

新会社の休暇システム、私の日本の正月嫌い、計画を立て始めた時期と予算、色々な条件に見合ったのが、オフシーズンのモンゴルだっただけなのです。

海外ツアー経験は数あれど、一人参加は初めてで、少しそわつきながら渡航しました。

最後に海外旅行ツアーに参加したのは、もう4年前。

それまでは、どのツアーでも、ツアー客の中で常に一番若い世代でした。

モンゴルで蓋を開けてみてびっくり。

比較的、少人数催行とはいえ、ツアー客の半数が20代前半でした。学生さんもいます。

そういえば、新しい会社で所属するチームも、私の年齢はもう、平均年齢から少し下くらいだった。

年下先輩もたくさんいます。

ランダムに何かしらのグループに所属するとき、もう私は一番若くはないという事実を目の当たりにしました。

中堅と言われるようになる20代後半から30代前半という世代でいながら、そのうちの4年間を駐在という立場で海外で過ごしている間だったから、最も若い世代でいられたのだ、とハッとさせられた。

自分が加齢しているという事実が完全に抜け落ちてしまっており、モンゴルで勝手にひとり赤面の思いでした。

あまりの寒さで、顔が物理的にも赤くなったのは言うまでもありませんが。

そんな極度の寒さと乾燥で、最近気になり始めている額の皺に、これでもかというほどクリームを塗りたくる私。

かつては化粧水すらつけなかったのに。

食事の席では、パンっと張ったみずみずしいお肌の持ち主たちから、学生ならではの悩み、始まったばかりやこれから始まる社会人としての期待や愚痴などが聞こえてくる。

かつては私も感じていたこと。

でも、それらはもう「かつて」になってしまったのだ、と恥ずかしさから寂しさへ、感情もシフトします。

20代、若さが生々しいな。。。とごちていたら、なんと、本作にも全く同じことが書いてあるではないか。

同段落に、「女の三十代は生きているだけでそこそこ美しい」との言葉もあり、旅の最終夜に励まされてしまいました。

そんな複雑な想いを抱えつつも、Z世代の話を聞けることもなかなか新鮮。

カップラーメンを凍らせて食品サンプルにしたり、遊牧民の犬と遊んだり、世代の違う私も一緒にはしゃがせてくれて、感謝です。

冬のモンゴルの美しい風景と美味しい食事に匹敵する経験です。

短期間ながら、普段出会わないような人たちとわずかながらも親交を深め、連絡先まで交換させてもらいました。

これから細々と続く縁になるだろうか。

どうせオフシーズンだし寒いだけだろう、「正月の日本らしさ」から離れられればいいんだよ、と全く期待もせずテンションも上がらずに乗ったウランバートル行きの飛行機。

成田へ向かう飛行機では、目に焼き付けてきた美しい情景もさることながら、いろんなお土産を抱えて帰ってくることができた気がしています。

(ちなみにモンゴル土産、私にはそそられるものが無さすぎてびっくり。モンゴルウォッカだけ買って帰ってきた。)

予想以上に良い旅になり、2023年、幸先が良いです!

 

 

今年は、また読書をする年にしたいです。

(仕事柄、書籍を読むのも仕事のようなものなのですが、たとえ興味深い内容でも、それが仕事に関わることだと、笑えるほど触手が伸びず、ページも進まず困っている。笑)

本作の中にもあったけれど、私の集中力もすでに下降線を描いています。

急降下な感じもしています...

さらに老眼や白内障が出てくる前に、たくさん心を満たす本を読みたい...

 

<The 60th Book>変半身

本作著者の描く世界観は毎度、圧巻です。

物語として読みやすく面白いのに、裏に描かれているメッセージが深淵。

 

「変半身筑摩書房著:村田 沙耶香

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www.chikumashobo.co.jp

 

「変半身(かわりみ)「満潮」の二作品から成る短編集。

「変半身」は少し、以前も呼んだ「地球星人」をも彷彿とさせる作品で、

小説版は村田氏が執筆し、舞台版は松井周氏が演出したプロジェクトらしい。

とある島で生まれ育ち、中学生だった陸、花蓮と高城くんは、

「モドリ」という恐ろしい島の儀式に参加します。

その秘祭を機に、島を脱出しようとした彼ら。

大人になり、東京で各々生活していた彼らは、あるきっかけで、

里帰りをすることになります。

歴史とは。社会とは。人間とは。

いとも簡単に洗脳されて、記憶さえも塗り替えられてしまうものなのか。

ネタバレになってしまうので、書けませんが、この作品が、また舞台で

演劇される、というのが何とも皮肉な気もしました。

舞台版も是非とも観てみたかった。

 

「満潮」は、とある夫婦が主人公です。

夫の直行はある時、潮を噴いてみたい、と言い出します。

そのために、色々と準備をし、夜な夜な風呂場で潮を噴けるよう、

葛藤する直行。

最初は夫の言動に混乱していた佳代も、自らの女性としての身体や

これまでの性体験を回想し、自分もまた、自ら潮を噴く努力をすることを

夫に告白し、夫婦の絆が強まっるような、そんなお話です。

 

いずれのストーリーも、村田氏の描く小説は、相変わらず

センセーショナル。

 

 

「変半身」は少し政治的要素もあるのでしょうか。

全体主義的な思想が垣間見られた気がします。

私も私という人間を演じているのだろうか、演じ続けるのが人生なのだろうか、

それを歴史や伝統、社会から求められているのに無自覚なだけなのか、と

一瞬、ぞっとしてしまいました。

見えない何かに操られている、とまでは言いませんが、

自覚している、認知している、と自ら思うことの傲慢さ、みたいなものを

すごく思い知らされた感じがします。

 

 

「満潮」は、自らの身体の属性について、至極真っ当な主張が

ストレートに描かれていました。

私の身体は私だけのものなのに、どうしても他人からの不躾な言葉を

鵜呑みにして心を傷つけたたり、他人の快楽のための道具にしてしまったり

することがある。

私の身体は、私だけのものだから、それを他人が言葉や行動で

私の許可なく侵食していいものではないのです。

他人にそんな権利はないし、私も他人の身体にそんな権利は持たない。

 

 

本作で、自他の境界線の重要性というものを再確認しました。

個人的に、「余計なお世話」はすごく嫌いです。

自分がすることもできないし、されても異様なストレスになる。

社会は、”普通”とか”常識的に”という、曖昧だけど、なんだか有効的に

聞こえるまやかしの言葉で、その自他の境界線を平気で侵してくる。

”普通”とか”常識”とか、思わず口について出てしまうこともあるけれど

必ずそのあとに、躊躇する言葉もセットでしか私は使えません。

そこまで普遍的なものは、存在するのかしら。

あらゆるデータの総合体とその平均値が、”普通”だとしても、

そこからずれてしまう人や物が存在しないわけではないでしょう。

それを全部まとめて一緒くたにして、

「普通はこうだよね」「我々は同志だよね」「一緒だよね」と

確認すること、安心感を得られることも時にはあるかもしれないけれど、

すごく傲慢で不躾にしか聞こえないこともあります。

ウチとソトを区別して、更にそのウチの同質性をしつこく追求する感じも、

鬱陶しいどころか、脅迫的で少し恐ろしく感じてしまいます。

自他の境界線、きっと私も侵してしまうこともあるのかもしれない。

そうしないように気をつけて、常に自分がその罪を犯す可能性があること、

それを意識して生活しようと思っています。

 

 

そんな人間の恐ろしさと、そこからの解放を、本短編集の二作で

描かれていた気がします。

読み物としても、読みやすくて面白いながら、

人間の汚い部分を見せつけてきて、警鐘を鳴らしてくれる、

そんな作品となっています。

<The 59th Book>ぜんぶ運命だったんかい おじさん社会と女子の一生

著者は、女性サラリーマン。アラサーで同世代。

ツイッターでは追っていた笛美さん著書、ようやく読了しました。

 

「ぜんぶ運命だったんかい おじさん社会と女子の一生亜紀書房著:笛美

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www.akishobo.com

 

笛美さんは、おそらく30代半ばくらいの、大手広告代理店勤務の女性。

受験戦争を勝ち抜き、地方から出て、優秀な大学に入学、

卒業後は大手広告代理店にて、”クリエイティブ”という花形部署にて

幾度か賞も取り、まさしく、いわゆるバリキャリ女性です。

女性である笛美さんが、男性社会においてすらの”勝ち組”として

広告業界という、いかにも華やかな業界にいるからこそ日々体験する、

男性社会、もとい、おじさん社会の数々の兆候。

ここまでのキャリアを築くのに、笛美さんはその数々の矛盾に違和感を

感じながらも、その疑念を打ち消しつつ、土日祝日、深夜残業問わず、

身を粉にして働き、と同時に愛され女子、モテ女子を目指し婚活に励みます。

それでも自らのハイスペックさがそ恋愛も婚活をも邪魔をする

がむしゃらに努力をしてきたのにも関わらず、それが仇となって、

女性として価値のない存在、すなわち社会から認められない存在

なってしまった。

生きていてごめんなさい。

とまで思うようになった、と。

そんなとき、会社経由でF国へのインターンの話が決まり、

追って「#検察庁法改正に抗議します」ハッシュタグのムーブメントを

引き起こし、フェミニストでありながらサラリーマンである、という

”笛美”の誕生のきっかけとなります。

コロナについてや、それがきっかけでの政治、行政に対して、

彼女の活動のことも語られている2021年8月初版ののエッセイ作品です。

 

 

広告業界のことはわからない。

私がサラリーマンとして働いている業界は、広告業界のように

"コミュ力が高めで最低限の清潔感はあり、中にはとびきりのイケメンやお洒落さん"

は決して多くない泥臭い業界です。

正直、笛美さんの勤めているような、大手広告企業とは仕事上も

直接的に取引きや縁はないであろうと思っているくらい、遠い世界。

(実際は知らないけど、たぶん本当にないと思う。笑)

それでも、同じ女性で大手企業勤務というだけで、

日々の生活で、女性だからこそ感じる、違和感や苦悩

でも、それは自分の能力不足。努力で克服すべき。頑張る!

うまく対応している、結果を残しているという自負。

というループに幾度となくハマってしまう状況、共感ばかりです。

未だにずっと、この無限ループに悩まされている。

 

 

私も、会社を牛耳る、男性という所属の人々から、認められたかった。

自分が見た目も性格も、「可愛らしい」「美しい」要員ではないことは

自明でした。

しかし、いずれ、そういったルックス含む”女性らしい”要素は、

それ自体も、そこにおける評価も、経年劣化することも、知っていた。

その代わり、(今となってはお恥ずかしい限りですが)実能力部分で、

ポテンシャルの高さに自負がありました。

体育会系気質が根強く蔓延る企業なのに、全くアンチ体育会系な自分が

どこまで試せるか、能力で評価されるか、試したくもありました。

媚びられない、おべっかひとつの言い方もわからず、

すごく尖っていた若手社員だったけれど、単刀直入で裏表のない態度が、

意外と付き合いやすいヤツとして受け入れられていったのかと思います。

そう思っていました。

でも、思い返してみると、実際は媚びていたのかもしれない。

学生の頃は、フットワークが重くて苦笑されていたこともあったのに、

残業続きで疲れていても、飲みに誘われたら基本的に断らない。

飲み会の場では、”デキる後輩(あわよくば女)”として、さりげない

気遣いは欠かさない。

振られた下ネタは笑って乗る、それどころか自ら振る。

”(男性陣にとって)一緒に働きやすい人”として評価されるように、

ホモソ社会に自ら迎合して、振舞っていたのかもしれない。

お蔭様で、男性の先輩方からは大変可愛がって頂いたと思っています。

相手を傷つけないようにしたい、それでも自分の意志や意見を、

なるべく明確に伝えたい、というモチベーションでの言葉選びから、

相手を気持ちよくさせる言葉選びをいつの間にか体得し、ある時、

当時、お世話になっていた先輩から、「飲み会上手」とまで言われました。

その評価は、言われてから5年以上経った今でも、未だに自分の中で

複雑な感情として、消化できずにくすぶっています。

「飲み会上手」になれるほど、私はこの男性社会に馴染むことができた!

出不精のデブス女からしたら、立派なAchievementよ!

と思う反面、

この見た目でこの性格だと、「飲み会上手」でないと、仕事面で

評価されないかもしれない(女性の)自分って何...

男女問わず”一緒に働きやすい人”は「飲み会上手」でないといけないのか?

とモヤつく。

そうこうしているうちに、マレーシアへの研修を言い渡され、追って

バンコクへ異動し、海外生活も3年以上経過しました。

会社の多様性アピールとして、女なら誰でもいいから、海外赴任を

言い渡したのだ、と瞬時に思ったことは、以前も書いたかもしれません。

海外勤務は望んでいたことでしたので、win-winでしたが、適任者とされた

理由は、能力ではなくより、性別からかもしれない、という邪推が未だに

拭いきれません。

そんな邪推をしなくて良い会社、社会となることを願ってやみません。

 

 

話はそれるのですが、お恥ずかしながら、今更、初めて人気ドラマ

「Friends」を今、一気観しています。

www.imdb.com

1994年から2004年のロングランでしたが、ドラマ最終話も、

もう20年近く前の放映。

今の人種やジェンダーなどの感覚にそぐわない部分ももちろんあります。

そもそもメインキャストが全員、白人なのも違和感しかないし、

LGBTQへの嘲笑であったり、ルッキズムを助長する描き方も多い。

それでも1990-2000年代の時点で、同性愛や同性婚トランスジェンダー

カジュアルなセックスや男女の交際を公言できること、

シングルペアレントとなることを自ら選択すること、そういった在り方が

存在することを、当然として描いていること自体が、もう既に衝撃で、

泣きたいくらいに羨ましい事実でした。

以前も何度か書いているかもしれませんが、いま、

仮に予期せぬ妊娠をしたら、駐在員かつシングルマザーとなる選択を

する余地は残されているのか、

とよく考えます。

そもそも日本でも、シングルマザーの待遇は良い話を聞きません。

社会的サポートが圧倒的に足りない、という話はよく目耳にします。

妊娠出産には現時点で意欲的ではありませんが、仮に予期せぬ妊娠をしたら、

私には多くの選択肢が残されているだろうか。

私は、自らの意思で、出産するかしないかを決め、周囲は、社会は、

私のその意思を尊重してくれるだろうか。

それに対して2022年を生きる私が出す答えと、「フレンズ」で描かれた

30年前の米国(ニューヨーク)の状況が既にかけ離れすぎていて、

私は涙が出そうになるほど、悲観したくなってしまうのです。

 

 

そこで悲観するだけでなく、実際に動き出したのが笛美さん。

国会中継を観ることから始め、デモに勇気を出して参加したり、

ツイッターで今の政治や社会へ疑問を投げかけたり、声を上げて、

周囲を巻き込んで、多くの人にとってのより良い社会を、日々考え、

それに向けて行動しています。

巻末にも、「声を上げてみたくなったら」の行動事例をたくさん

挙げてくれていました。

私と同じサラリーマンなのに。

私と非常に似た立場の著者が、ここまでやっているのに、自分が何も

できておらず、自分を責めてしまったことも、読み進めるのに時間がかかった

一因ではあります。

でも、こうして、フェミニズムについての著作を読んできながら

学んでいること、日々その思想を蓄積していっていることで、

”自分自身を変え”ようとしている。

それが、本エッセイの教えてくれたことのひとつでもありました。