Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 11th Book> 愛という名の支配

どうしても厭世的な気分が抜けません。生理だからかな。情緒不安定。

ずっと在宅で、人に会いたいのに、人に会ったら、(ウイルス的な意味だけではなく)

あまり人へも自分へも良い影響を与えないような気がするここ数日です。

 

「愛という名の支配」新潮文庫)著:田嶋 陽子

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https://www.shinchosha.co.jp/book/101651/

 

いつも本の写真と併せてお気に入りのお店の料理とかケーキとかコーヒーとか

載せるのが好きなんだけど、お店開いてないから、自作のナスの肉みそあんかけ。

お籠り生活なので、最近よく料理するんです。元から自炊するようにしてるのですが。

別に料理は好きではないんですけどね。

自分で作ったものってそんなに美味しく感じないんですよね。なんでだろう。

本当に美味しくないだけなのかもしれないけど。笑

しかも一回に作る量が、5人前くらいなのです。

それを冷凍庫にストックして、しばらくかけて食べるってのをやっていたのですが。

その癖が抜けなくて、今のこの頻度で料理していたら、冷凍庫のストックが溢れ返り

そうになっているし、タッパー系も足りないという事態になりつつあります。

なのにまた大量の野菜を買ってしまった。ちなみに買占めとは関係ありません。

あと、ここ数日は、お酒も飲みます。家で。ひとりで。

家で一人では飲んだことなかったのに。今日なんて朝酒しちゃったよ。笑

これがコロナの影響だけとは言い難いのですが、あまり良くないですね。

 

話がとても逸脱しました。田嶋陽子さんなので今回もフェミニズム系の作品です。

そしてこれを書きながらNetflixで流しているのは、ビヨンセの「Homecoming」。笑

ビヨンセまでいくと、もはやフェミニズムを超えてインターセクショナリティですね、

とても興味深いし勉強したいですが、日本人である私にはどうしてもまだその感覚が

欠けている、養われていないという引け目を感じてしまいます。

さて、田嶋陽子さんと言えば、やはり「ビートたけしのTVタックル」のイメージ。

母が好きでよく観ていました。

彼女がよく観ていた当初は私はまだ小学生とかで、内容までは理解できていませんが、

田嶋陽子さんのキャッチ―な見た目と、歯に衣着せぬ物言いが印象的でした。

あと、「私は今笑っているんだ!」って感じの笑い方ね。あれは好きだったなあ。

あそこまでハキハキとしかも直截にモノ申す!感じの彼女が、抑圧された家庭で、

それもしかも母親からの抑圧であったことは意外でした。

勝手に、とても先進的な家庭で育ったのだと思っていました。

 

男女差別が、文化や慣習として構造的に人々のメンタリティに「自然」と馴染んで

しまっているということを、彼女自身の人生の振り返りも併せて、見事に解説されて

いました。

読んでて、大いに頷く一方、グサグサと心に刺さってくる内容も多かった。

性差別とか、フェミニズムとか、それだけの話ではなかったんです。

男女問わず、その「生き方」について、生きる指針として何が大切か、ということも

訴えている作品でした。

もちろん、なぜそれが言説されているかといえば、「男性」「女性」という枠による

生き方の縛りが多く、それが未だに当然視されているかだからではあるのでしょうが。

「男性」「女性」というただの違いに、色々な役割が付与されて、その世間だか、

社会だかが付与した役割に抑圧されてしまった生き方しかできていないから。

 

私自身は、まだそこのジレンマに苦しんでいる気がするんです。

結婚や出産は、私のライフプランニングの中では最重要事項ではありません。

(ライフプランニングなんてものを仮に私がしているとすれば、の話ですが。)

昔から、自身の女性性というものに対して自信がカケラもなかったことは、

何度か書いていると思います。

でも、女性としてモテたかったし、女性としてチヤホヤされたかった。

それは、未だに持ち続けている感情です。時にチヤホヤされたい。

女性として、男性に魅力的だと思ってほしかったし、そう思ってほしい。

それが本書で彼女がいう、ペットとして可愛がられたいことである、というのであれば

そうなのかもしれません。

そうなれない自分を諦めきれないでいる、というのが正しいでしょうか。

だから、まともな恋愛をせずに自分を安売りするようなことも時にしました。

彼氏なんかまともにいたことないですけどね。

ペニスはこれまでもこれからも、お前だけが持ってる奴ってわけじゃないからな、

っていう負け惜しみなのか負けず嫌いなのか、そういうことを思ってもいました。

なんで性を消費するのはいつも男側なんだ、女だってしたっていいだろう、と

これは未だに思います。

だけど、バンコク市内の繁華街で、日本人男性が粋って、田舎から出稼ぎにきた

タイ人女性を買っているところを見るのには辟易します。

彼らにとって、彼女たちはモノなんですよね。

彼女たちもビジネスとして割り切っているならそれでいいのでしょうが。

外野の私がとやかく言うことではないのかもしれない。

でもどうしても、消費されやすい同じ立場である女性として、男性側に対しては

嫌悪感を覚えるし、女性側に対しては「本当にいいの?」と問いたくなる。

バンコクが一番駐在にとって住みやすい国、都市だなんて、ネットを調べれば

出てきたりしますけど、それも結局、男性目線なんですよね。

そりゃそうか、男性ばかりですもんね、駐在員は。

そりゃ住みやすいですよ。どこを歩いても日本人だらけ。ここは常夏の東京です。

暮らしに不便は全くありません。駐在員でお金ももらっているから、地元女性から

チヤホヤされる。そう、俺、駐在だからな!

本人が意図しているかはわかりませんが、女性である私の目にはそう映ります。

そしてそんなのを見せつけられたら、恥ずかしさに目を背けたくなることは多い。

消費されるのはいつも女。それを日々目の当たりにするのは女性としてしんどいです。

それを見なくて済んでいる今は、ある意味少し健全な感じがするほどです。

もちろん、性産業が盛んなこの国ですから、逆バージョンもあるらしいです。

行きたいと思ったことはないですが、仮に行く、行ったとなったら、どうしても

恥じらいの気持ちをぬぐえない。

男性たちが、恥ずかしげもなく焼肉屋でこれから時化込む女性たちを隣に肉を喰らい、

女性は同様のことをするのに心情的に憚られるし、きっと周りも物珍し気に見るの

でしょう。

でも、それでも私は、そういう構造を牛耳ってきた男性たちに媚びてしまうような

自分を否定することもできないでいるのです。媚びない、ができない。

彼女は男性と女性の構造を、ガレー船の甲板にいる王侯貴族や一般市民と、

船底で船をこいでいる「ドレイ」に例えました。

最初に読んだときは、突飛かつあまりに直接的な表現でついていけませんでしたが、

読み進めていくうちに、男女の構造を何とも的確に示しているように思えました。

子産みの「ドレイ」は、甲板上の男性たちからの「愛」を受けないことには、

アイデンティティが見つけられないように構造的になってきた、と。

私が追いかけている「モテ」や「女性らしさ」って、そのための手段や方法で、

媚びるのをやめられない私も、所詮は「ドレイ」なんですね。

男性たちが作り出したまやかしの「恋」とか「愛」とかに依拠する限りでは。

でもね、それでもいいや、って思っちゃうこともあるんです。

こんなに「モテ」や「女性らしさ」を得られずにやきもきしてきたのに関わらず、

「ドレイ」で抑圧を甘んじることができるのであれば、楽な気もする。

これ、あれかな、私。DV男とか好きになっちゃうやつかな。笑

 「ドレイ」でいることが自然となっている中から「自由」を自らの手で得ていくのは

とんでもない労力に感じるでしょう?

「ドレイ」で上手くやってこれなかった私は、うまくやっていける女性たちにとても

嫉妬と羨望の念を抱きますし、だからといって、いつかの自由を目指して「ドレイ

解放運動」を身近なところからやっていこう、と思うと、甲板との落差を目の当たりに

して、怠慢な私は動く前から及び腰。なんとも中途半端な状態にいるわけです。

でもね、やっぱり、こうして言っていかなきゃいかないな、って思う。

日本で会社で来客があったときに、お茶汲みを何度かさせられた。

「これは私が下っ端だから?それとも女性だから?」って聞かないといけなかった。

言ってきた女性がいたから、お茶汲み業務はなくなったのだから。

先駆者たちに失礼だったな、と思う。

そういう局面が、何度もあったのに、問いかけしてこなかったのは、私の怠慢です。

 

「女らしさ」や「男らしさ」の鎧を脱がねば、と彼女は主張します。 

その「らしさ」抑圧は家庭で見られ、子供がそれを見て育ち構造化していくそうです。

たしかにそうだった。

私が何か両親の気に入らない言動をすると、父は必ず「お前が子育てを失敗した」と

母を詰りました。

私はそれがとても嫌だったし傷つきました。

父は、私の親ではないのか、と。お金を家庭に入れればそれでいいのか、と。

今回は書きませんが、私のキャリアや人格形成については、大いに父との関係性が

関与していると思っています。

父に失望されたくない、母が傷つくのは見たくない、何よりも私はこの二人に

見捨てられたら生きていけない。

そんな強迫観念が幼少のころから常にありました。

「愛という名の支配」なのでしょうかね。

今も娘として二人を愛しているので、そう思いたくありませんが。

でも、元からの私の性質もあるのか、私はおおむね優等生でした。

我ながら、「良い娘」に育ちました。

田舎の私立高校から、都内の某有名(?)私立大学を卒業し、そこそこの大企業に入社し、

駐在員をしています。

世間的に文句ないでしょう。

それが親にとってなのか、世間にとってなのかはわかりませんが、優等生になることは

できたのですが、その先がわからなくなっているのが今の私です。

自身の決断を、親や世間のせいにするには、もう私は年を取りすぎています。

田嶋さんも、「世間では~」というのではなく「私は」と母親に言ってほしかった、

というか自分の言葉に責任を持てよ、と書いていました。

優等生で生きてきた自分と、本当は私が欲しいものは違うんじゃないかという思いで、

まさに今の私は分断されそうです。

彼女は、抑圧によって、自分を「感じる」ことができなくなり、世間の規範から外れる

ことは恐ろしいことだから、次第に「感じる」ことを放棄する人も多いけれど、どうか

自分に負けないでほしい、とのメッセージもありました。

まさに今の私は、もう10年以上、「感じる」ことを放棄しています。

でも、最近、「感じ」始めている気がするのです。

「逃げ」と「感じる」の違いとか未だにごちゃごちゃ考えたりしているけれど。

 

正直、しんどいです。しんどくないですか?

自分の食い扶持を自分で稼いで、家事も全部自分でやるって。

自分しかいないから楽は楽、でも自分で稼いで食べていく、「生きる」って、

そういうことだし、当然の権利でもあるでしょう。

私には「ドレイ」がいないので、全部自分でやります。

でも、それって本来、未婚であろうと既婚であろうと、子持ちであろうと何だろうと、

当然のことなんだ、と改めてハッとさせられました。

男女ステータス問わず、自分の食い扶持は自分で稼いで、家のことも自分でやるのが

当然なんです。

それでも私は、とても不都合で不利な気分になることがある。

単身赴任じゃない人たちは、家でご飯を作って、シーツを洗って待ってくれている

奥さんがいるもんね、と。

私は働いて、帰り道に買い物して、自分でご飯を作って、洗濯しなきゃいけない。

「ドレイ」がいないから。

でもそもそも、企業が家族帯同は「ドレイ」としてしか容認していない。

妻が夫の滞在先で働けるようなビザは取らせていない。

それでも帯同する妻側女性のメンタリティも、「ドレイ」がいないから不利に感じる

私も、構造化された差別マインドによるものなのでしょう。

彼女の書く(資本主義には不利となり得る)「自由な個人」として生きることが、

できるようになるでしょうか。

そう生きていきたいし、それが容認される「世間」となってほしいものです。

 

そのためにも、まずはコロナの抑圧から抜け出したいですね。