Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 12th Book> ザリガニの鳴くところ

最近、バスタブに毎日浸かるようになりました。冷房で冷えますからね。

むくみは取れます。でも、肩凝り首凝りは悪化しています。。。

外の空気は吸いたいですが、家以外の屋内に入るのは少しもう怖いですね。

 

「ザリガニの鳴くところ」(早川書房

著:ディーリア・オーエンズ 訳:友廣 純

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https://www.hayakawabooks.com/n/n412fb2b2b8a5

 

今回の写真は、お気に入りのパティスリーのケーキをデリバリーできたから♪

なんだかんだ、はや(まだ?)1年半、東南アジア生活をしているわけです。

Grabで配車は当たり前。

Happy Freshやその他各店舗のサービスで、日用品や生鮮品の買い物も家で済む。

Grab Food や Food Pandaでデリバリーは今や欠かせないライフラインです。

光熱費の支払いや、知り合いとのお勘定も、オンラインで全て済む。

日本へ帰国後のことを考えると、不便でなりません。

日本は、本当に何でもあります。

「日本はマジですごいテクノロジー国家だよな」的なことを外国人から言われる

ことが多いのですが、頭の中が「???」となります。

そのテクノロジー、一体どこに使われているのか、暮らしの中でイマイチわからない。

サーモスの魔法瓶みたいなこと? テレビの画素とかスピーカーの音質の話?

マレーシアやタイのほうが、よほど生活に密着したテクノロジーの使い方ができている

のではないか、と思うことがあります。

ひとつのものを極めて作り上げていく、文化度の高さが恋しくなることは多々。

でも、ちょっと待って?まだそれを極める前にできることあったんじゃない?と

思わされることも、海外で生活する中では多々あります。

 

さて、そんなテクノロジーよりはもう少し昔のアメリ東海岸の湿地が舞台のお話。

「2019年アメリカで一番売れた本」との謳い文句があり、気になってはいました。

少し気は滅入るけれど、在宅勤務、外出禁止だからこそ読んだらいいのかもしれない。

物理的に他者と近づくことができず、外出も許されず隔離が推奨される中だからこそ。

 

以前も書いたかもしれませんが、私は異様な寂しがり屋です。

一人暮らしも恥ずかしながら海外で初めて。

日本にいたころは、私は寂しがり屋の対極にいました。そう思っていました。

一人の時間が無いと無理。一人でどこでも行けるし楽しめる。

デート定番スポットですら、ひとりで楽しんでいました。

浜松町の貿易センタービルの最上階が展望フロアになっていたのは知っていますか?

会社が定時で上がれると、クリスマスシーズンでも一人で行っていたなあ。

丸の内仲通りのイルミネーションもひとりお散歩コースの定番でした。

でもそれは、残業後に一杯できる同僚がいて、帰れば家に家族がいて、週末に

美味しいものを一緒に食べに行ってくれる気の置けない友人がいたから。

それがほとんど無い状態は、狂おしいほどの孤独に感じました。

私ほどの寂しがり屋はいません。

 

さて、私のような甘ったれた寂しさではなく、孤独を真に味わった”湿地の少女”

通称カイアが物語の主人公です。

彼女はひとり、またひとりと去っていく家族に置き去りにされ、ノースカロライナ州

湿地の淵に立つ小屋で、幼少期から一人で生活することを強いられます。

直近の町では湿地に住む白人は貧しく汚い、”ホワイト・トラッシュ”と敬遠されており

カイアもその例外ではありませんでした。

湿地の自然を唯一の友として、強く生きる美しい彼女。

あまりの孤独から、人とのつながりを渇望する場面、またそれを求め得るたびに、

揺れる彼女の心情は、まるで自分を見ているようで痛々しくもありました。

そのような中で、町では名の知れた青年が、不自然な死を迎え、カイアは嫌疑を

かけられてしまいます。

人工化された人間社会に馴染む生活はしていないながら、それに憧れを持ち続けつつ、

身の回りの自然の生物から、自然の摂理のみならず、人間社会にもそれを投影し、

学んでいく聡明さを持った彼女は、差別に、暴力に、身を以て立ち向かっていきます。

 

本書は、人の心的描写よりも、自然の描写がなんとも美しいのです。

彼女の目に映る自然が、外出できない私の目の前に広がるかのように、

木々、陽光に輝く水面、寄り集まるカモメたちが浮かんでくるのです。

自然の営みって、都市で生活しているとなかなか感じられませんよね。

たった1年しかいなかったのに、マレーシアを恋しく思うことがあるのですが、

それは朝起きたときに聞こえる鳥(ある種のカッコウだと思われる)のさえずりです。

一カ月ちょっと前にマレーシアへ週末だけ戻ったのですが、あの鳴き声を久々に

聞いた瞬間、今いかに自然から離れた環境にいるかを改めて思い知らされました。

文明も人工的な街も大好きだけど、それは近くに自然があるから。

空気も、水も、緑も、それを感じられることが私には大切なことだと知りました。

いまこの都会のバンコクでは、残念ながらそれを感じることはできません。

体調を時々崩すのは、そのせいかもしれません。

そんなことを、またこの本を読んで想起させられました。

 

カマキリのメスは交尾中に、まさにその最中に相手の頭を食いちぎって、そのまま

餌とすることがあるのは知っていましたか?

蛍のメスも、交尾を済ませたと思ったら、あくまで交尾を欲していると装って、

光を使って(ただし光のシグナルを実際のものと変える)オスをおびき寄せ、

そのまま捕食してしまうことは知っていましたか?

私はこの本を読んで初めて知りました。

高校の頃の米国留学中に、飼っていたハムスターが増殖しすぎたから、貰い手を探して

いるとの話を友人から聞きつけ、ホストシスターと2匹ほどもらいに行ったことが

あります。

成体でも性別の見分けがつきにくかった気がしますが、子供のハムスターですので

余計にわかるはずもなく、オス同士もしくはメス同士であるだろう、と当たりもしない

見当をつけて譲り受けた2匹は、やがて大人になって、パパとママになりました。

妊娠中のママはすごく気性が荒く、パパを常にケージの端っこに追いやっており、

それは産後も変わりませんでした。餌をやるのも一苦労だった記憶があります。

生まれたての、まだ毛もまともに生えていない、皮膚丸出しの、言葉通り「赤子」たち

を、ママはお腹の下に常に抱えて、少しでもケージ内に私たちが手を伸ばそうものなら

激しい声を上げ、歯をむき出しにして威嚇してきました。

それでも私たちは、生まれた赤子たちを見たくてたまらず、また何匹の赤ちゃんが

生まれたのかも確認したく、隙をねらっては、ケージを覗きに行きました。

ある日、学校から帰った私たちがケージを覗きに行くと、ママは動き回っており、

そのどこにも赤子たちが見当たりません。

譲ってくれた元飼い主にも相談すると、母親は過度なストレスを受けると、子供を

食べてしまうことがある、もしくは父親は自分の子供と認識できないから、敵と

見なして食べてしまうこともある、と言うのです。

そんな事実を知らない私たちは、ショックで言葉が出ませんでした。

過度なストレスを与えたのは私たちかもしれない。

父親が食べたのかそうでなかったとしても、何も知らずに父親と同じケージに入れて

いたのは、私たちであることは間違いない。

飼い主失格です。

生まれ育つべき命を早々に奪ったのは私たちという事実に、騒然とし、涙しました。

と同時に、人間では考えられない、彼らの種の保存のための本能的な行動に、

感動も覚えていました。

生物としての確固たる姿があるように見えたのです。

 

きっとそこにあったのは、善悪とか、愛とか、人間があとから付与した色々な意味や

概念を抜きにした、「生きること」のみがありました。

上述したような生物たちの行動は、一見ぎょっとしますが、同じ生物として、

人間にも備わっているはずの本能の、現し方の一部なのでしょう。

種の保存的観点から言えば、何冊か前の中野信子さんの著書に記載のあったように、

人間は、社会性を持つことによって、生き延びてきたと言えます。

多くのしがらみや、雑念を持ちながら、多数の他者と社会を構成している。

ですが、人間以外の生き物にとっては、生きることは、交尾中に相手のオスの頭を

食いちぎって栄養補給したり、危険を察知すると腹を痛めた我が子を食べてしまうのが

当然であるくらいに、シンプルなことなのかもしれません。

家族から見捨てられたり、人々から差別されたり、つながれたと思った相手から

裏切られたり、人間の「愛」というものの実感と理解を得るのに、カイアはとても

苦労しているようでした。

ですが、それをなかなか得られないからと言って、自分の存在意義を疑うことは

決してしない女性に見受けられました。

そんな概念は彼女の中には無かったかのように見えました。

「生きること」「生きていること」は彼女の中には疑う余地のない真実で、

それを守るための言動を常に取っていたように見えます。

もちろん自然を愛で、家族を愛し、人を恋することもあったけれど、

「生きていること」「生きること」を疑うことはなかった。

それって、時々忘れちゃいません?

最近、私も仕事関係でとても落ち込んでいました。別に仕事は私じゃないのに。

落ち込みすぎて、感情の制御ができなくなって、急に泣いたりしていました。

とても幸いなことに、私は仕事ができないくらいでは(今のところは。これからは

わからないけれど)クビにならない会社に勤めています。

もちろん、できたほうがいいのは当然だし、”デキない”自分に慣れていないので、

落ち込んでいたわけですが。

ですが、少なくとも、私はファイトしすぎなくても「生きること」ができる環境に

います。

にも関わらず、落ち込みすぎた私は、仕事ができない自分に「生きる」価値を少し

投影するようになっていたのです。完全なる判断力の欠如です。

仕事ができない自分への存在意義というものを考え始めてしまっていたのですね。

未だにこの落胆を制御することに日々苦労しています。

この底知れぬ低さの自己肯定感を通常レベルまで持っていくことは、容易ではない

なかなか自分にとってはハードルの高い課題です。

甘ったれの寂しがりの私だったら、家族から見捨てられ、町の人々から差別、侮蔑

され、愛した人から裏切られたということになれば、もう「生きている」意味の無さ

に絶望するでしょう。

でも、カイアはそこに疑問を持つことは無かった。

生まれたからには、「生きること」「生きていること」はこの上なく幸せなことで、

その状態を疑うことはおろか、それを守っていくことは、「生きる」自体をすること

であるということを教えてくれました。

彼女はそれを湿地の自然から学んでいたのでしょう。

 

私もやっぱり、朝起きて聞こえるのが走る車の音だけではなく、鳥のさえずりも

聞こえるくらいには、自然を感じられるところに住みたいなあ。

でもデリバリーの配達範囲がいいな。笑笑