Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 13th Book> 女であるだけで

前回書いたカッコウの声が今日、バンコクでも聞こえました。

外に出られない、外に出られたとしても気晴らしができないのはなかなか辛いですが、

自然が戻ってきているのかしら。それは少し喜ばしいかもしれない。

 

「女であるだけで」(国書刊行会

著:ソル・ケー・モオ 訳:吉田 栄人

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https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336065650/

 

今回も(そして次回も)フェミニズム関連の作品です。

主役はマヤ人、ツォツィル族のオノリーナ。

メキシコはチアパス州生まれの彼女の悲惨な半生、そして意を決して自らの人生を、

また意図せずして周囲の意識を少しずつ変えていった彼女の強さを描いた作品です。

 

実は私、大学生の頃にメキシコ、チアパス州に2週間ほど滞在しました。

ウミガメの卵の保護や、焼き畑、地元の小学生に英語を教えるなどのボランティア体験

をしに行ったのです。それこそ、「就活のネタ」作りが目的でした。

今考えると姑息で、なんとも思いあがったものです。本作読了後だとなおさら。

大学の第二外国語ではスペイン語選考だったというのもありましたが、さらさら

語学など(今もですが)興味はなく、一緒に時を過ごすであろう、アジアや西欧から

来た人たちとの人脈づくりや、経験そのものを得るために、本当に旅行気分で当地を

訪れたのでした。

どうやって現地までたどり着くかまでを必死に調べた記憶はありますが、その土地の

ことや、その土地に住む人々のことを勉強した記憶はありません。

だから、本作を読み始めて「チアパス州」「ツォツィル族」と並列されているのを見て

ようやく気付いたのです。

私が実際にお世話になっていたのは、おそらくマヤ人のツォツィル族だったのだ、と。

メキシコシティからまた国内線に乗り、チアパス州の州都へ着き、それから先は、

ボランティア団体のメンバーと合流して、家畜車のようなトラックに数時間揺られ、

(大雨が降ったとかで道が川になり、一部は船で移動)かろうじて電機が通っている

というような、山奥の民家でしばらく過ごしました。

ほぼ雑魚寝状態、時にはハンモックで睡眠をとったり、シャワーは溜めた雨水だったと

思います。

飼われている鶏をと殺したり、トウモロコシの粉を実際に手を使って石臼で挽いて

トルティーヤにしたり、焼き畑の焼け跡地を掃除したり、、、

日本で、関東で育った私にとっては、未だにそのようにして文明に頼らない生活を

している人々がいたことに衝撃を受けていました。

私はスペイン語がほとんどできなかったのでわかりませんが、おそらく彼らの話して

いた言葉もスペイン語ではなかったから、あれだけ多くのボランティアサポーターが

いたのでしょう、通訳が必要だったのではないかと今思い返すと考えられます。

日焼けがやけど状態になったり、頭の皮膚が焼けた皮がむけることで大量のフケの

ようになったり、脚の虫刺されだけでも100箇所以上さされ、ビーチサンダルが

入らないほどに腫れあがったり、当時6カ月ぶりの生理が急に訪れたり、普段の生活

とのあまりの環境差と、自分の身体の異変に気を取られ、本当に「体験」だけで

終わってしまいました。

チアパス州州都から、メキシコシティまで予約していた飛行機の航空会社が、

ボランティア体験中に倒産し、サン・クリストバル・デ・ラス・カサスから

夜行バスで首都まで戻ったりして、本当にハプニングだらけだったので、現地で

どんな人に出会い、どんな生活をしたか、たくさんの事象は起きたけれど、

密度の濃い体験にすることができたか、と言ったらそうではありませんでした。

失礼ながら、「こんなところにも人が住んでいるのだ」というのが2週間の正直な感想

で、いま思えばただの「文明人」の傲りですよね、無知で不勉強な私は、ただの

文明に頼りすぎない生活体験以外の何物にもできませんでした。

だから、本作を読んで、かつて訪ねたことのある土地の名前が出てきて驚きましたし、

出会っていたであろう民族の人々の実態を知らなかったことに、10年近く経った今頃、

大いに恥ずかしい気持ちでいっぱいになりました。

 

さて、本作の話に戻りましょう。

マヤ人のオノリーナは、若くしてフロレンシオに買われることになりますが、

度重なる彼の目に余る暴行に、遂には彼を殺します。

投獄された彼女を支え続けた優秀な若手女性弁護士の奔走により、最終的には

恩赦を受け釈放され、国内全土の女性たち、もしくは女性への考え方に影響を与えた

というのが、ざっくりとしたあらすじです。

あらすじを書けるくらいに、ストーリー自体にネタバレ等の要素はありません。

ただ、オノリーナが歩んできた人生に、性差別、ときには民族差別など、社会的に

見直されるべき構造が密接に絡んでおり、学がないながらも彼女のつたないスペイン語

で語られる、真に迫った言葉は、何より権力者たち、マジョリティに身を置いている

者たちが見て見ぬふりをし続けていることに警鐘を鳴らすものになっています。

彼女は、マヤ系民族であること、そして更にその中でも女性であることによって、

不幸にしかなれない存在だと語ります。

マヤ系民族であることで、その文化慣習が重んじられるように見せかけて、法は

彼女たちを守らない。その法の範疇外で、男たちは平気で女をモノ扱いする。

そのモノ扱いといえば、それはもう酷いものでした。

自分が輪姦されることで夫が稼ぎ、それが酒に費やされ、酔って(酔わなくても)

また殴られるというルーティーンなのです。

読んでいて、吐き気がするほどに、彼女には人間の尊厳というものが与えられて

おらず、また、彼女もその存在をまるで知らないかのようでした。

フロレンシオの所有物であったオノリーナは耐え忍んだ上で、彼をとうとう殺し、

告訴されることになります。

私なら死ぬよ、死にたくなる。

なぜ、彼女はそんなに当たり前に、「インディオだから、しかも更に女だから」という

理由で、そんな生活を甘受できたのでしょう。

生まれてきたことが不幸だなんて、受け入れるには重すぎます。

たしかに気弱だったからこそなのかもしれませんが、食べるものも食べられず、

日々夫にののしられ、顔は常に痣だらけで、しまいには旦那の同僚たちに肉便器に

されるわけです。

生き続けただけで、彼女は功績を残したと言えるでしょう。

マヤ系民族がどのような差別を受けているか、当地を訪れたことがあるにも関わらず

不勉強な私は知りません。

でも本書を読む限りでは、農耕を主とした裕福とはいえない生活を送っています。

少々隷属的な仕事が主のように見受けられました。

夫が働き、女はその夫に付き従う。

極端な言い方をすれば、奴隷の奴隷です。

父親に売られ、夫に買われ、夫の同僚たちに売られて、それでも夫に付き従うしか、

彼女が「犯罪」を犯すまでは、他の生き方は許されませんでした。

女であるだけで、自分の人生の決定権は彼女にはありませんでした。

 

以前のブログで、私は海外赴任するにあたって、下駄を履かされたのかもしれない、と

思ったことがあると書きました。

色々なフェミニズムの本や、SNSやブログも読んだり見たりしてきましたが、本作で

初めて、改めて、それが思い違いだと実感できました。

男性たちが自分たちに下駄を履かせ続けてきたのだ、と。

フロレンシオほどの暴挙はもちろん身近で目にすることはありませんが、社会的には

フロレンシオとオノリーナの夫婦間と、同様の関係性になっています。

だって、そもそも正社員総合職の就職率だって、現に男性のほうが圧倒的に多い

わけでしょう?

医学部入試の不正問題も同様、そもそも就職するときに男性が優先的に入社できるので

あれば、その時点で彼らは下駄を履かせられているのである事実を無視し、あとから

女性が海外赴任や出世をしたりしたら「下駄を履かせられている」と言う、言わずとも

現に私が当初感じたように、そう感じさせる。

なんとも巧妙です。既に私も洗脳されていますし、周囲も同様です。

何の特権があるのでしょう。性別が、身体が男というだけで、何の特権が?

男性が造り出した社会には、女性が自主的に人生の選択をできる範囲は、残念ながら

今はまだ、あまりにもわずかです。

女性の中には、男性を掌の上で転がしてやらせればいい、という方もいるでしょう。

でも結局やるのは男性で、その手柄も男性のものです。

欲しい結果が得られたとしても、その功績は自分の手元には残りません。

男性を責めているわけではありません。

実際やるのは男だから大変なんだよ、というのであれば、それを男性も自分たちで

主張すればいいのです。

女性に自分たちの主張を弱めてくれ、というのはお門違いです。

今は自分で自分の首を絞めているのだから、それを互いに主張していって緩めれば

いいのです。

たまたま男性として生まれてきて、はるか昔から根付いているこの構造に飲み込まれて

いるのは、男女ともに同様です。

ただ、その状態にあぐらをかくな、とは思います。

女性という下駄の上に、いつまでもあぐらをかくなよ、と。

それは男女問わずです。

私だって、「女の子だから」で得られてきた、馬鹿にされている反面、楽できる特権が

あるのは知っているし、利用してきました。

(この点がオノリーナには全くなかったのが本当にフィクションながら心痛いけれど

実際に彼女のように暮らしている女性は未だいるのでしょう。)

これからもその特権を出してくる人がいれば、意志の弱い私は、悪乗りしてしまう

かもしれない。フェミニズムの説教の一言くらいは垂れた上で、ですけれど。

特権は、本来誰にだってある気がするんです。

でもそれは、本人自身の特性、個性に委ねられるべきもので、性別ではないのでは

ないでしょうか。

 

でもまだまだ先だろうなあ、そんな社会は。少なくとも日本では。

だからといって、海外で自力で生活するというほど、私は熱量もない。

最近のコロナ対策を見ていると、本気で日本人であることが恥ずかしいですし、

そんな弱気なことも言ってられないなあ、日本脱出は本気で考えるべき課題かもなあ、

とも思わされますが。

日本に過ごす家族友人が心配な日々です。

そして明日からまた在宅勤務。

変わり映えない家の景色には慣れてきたのですが、そこに仕事が入るとなると

ストレス、憂鬱。

働きに外に出ないと生活できないという人がいる中で、これがとても贅沢な話なのは

わかっていますが、嫌なものは嫌です。

人に会えない。外出して気晴らしできない。でも家で仕事してくれ。

一番注力すべきは、ストレス発散方法の模索でしょうね。