Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 21st Book> 書店主フィクリーのものがたり

本の無い人生は考えられません。

 

「書店主フィクリーのものがたり」(早川書房

著:ガブリエル・ゼヴィン 訳:小尾 芙佐

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 https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013723/

 

この間、ラザニアを作りました。ホワイトソースもミートソースもお手製で濃厚、

我ながら美味。だけど、ちょっと芯が残っちゃったんです。次回は上手く作りたい。

 

さて、今回は本屋さんが主役の小説です。

やはり本や書店が題材になっている物語には惹かれてしまいます。

本屋さんが無かった、妻ニックの出身地アリス島に、A・Jフィクリーは夫婦で本屋を

経営し始めました、その名も「アイランド・ブックス」。

本屋のない町は町じゃないから。

そのニックを亡くして以来、打ちひしがれ、余計に気難しくなっているA・Jに、

ほぼ同時にある女性二人との出会いが訪れます。

アイランド・ブックスの前任者が亡くなり新担当となった、ニューヨークの出版社

で働くアメリア。

そしてある日突然、店内に置き去りにされていた当時2歳の聡明なマヤ。

マヤを育てていくと決意したA・Jの、彼の書店を舞台にした、心温まる小説です。

 

私、最近、こちらで仲良くしてもらっている友人と話していて、私が将来のパートナー

に求めるものがわかったんです。

パートナーだと必須条件で、友人もそうであることが望ましい。

こうして書くととてもおこがましいけれど、少なくとも”3高”とかいう、ナンセンスな

ものではないと思っています。笑

*その人が自分のことを常によく考えていて、理解している、もしくは常に理解しよう

 としている人。

*私と同等くらいには繊細である人、繊細さを兼ね備えている人。

*良質なコミュニケーション(具体的に言えば、抽象度の高い会話)をできる人。

以上が私の中で、友達になったり、更に深い関係となるには望ましい人。

我が儘を言えば、友人にこういう人が数人でもいれば、私の私生活は充分満たされると

思います。

でも、今回、本書を読んで、パートナーにしたい人は、きっとこれらに加えて、

*私が嫌い、もしくは興味のない物事も、好きにならせてしまう、興味を持たせて

 しまう人

なんだと思いました。

そりゃあ、好きな人、愛情が湧いている相手に対してはそうだろう、当然だろうって

話なのでしょうが。

残念ながら、私は非常に熱しにくい性格で、好奇心もあまり湧かず、自分自身のこと

以外にはあまり興味がないので、なかなか簡単ではありません。

「彼がサッカー観戦が好きだから、観てたら私もハマっちゃって♥」みたいなことは、

まず、ないです。

サッカー、興味ないし。どちらかというと嫌いだし。

一回くらいは、テレビなり、店なり、サッカー場なり、観戦に付き合う

かもしれない、でも、なかなか熱しにくいから、仮に好きな人がサッカー好きでも、

それはそれ、これはこれでしょ、ってなもんです。

サッカーを例にとりましたが、音楽もスポーツも、テレビ番組、その他も同様。

別に自分の好きな人が好きだからといって、好きにはならないし、挑戦しようとも

あまり思わないくらいには、私は頑なで偏屈です。

そんな私と同じかそれ以上に偏屈に見えるA・Jが、大嫌いだったエルモを、

そしてマヤの友達であったエルモを、好きになったこと。

知らぬ間に、マヤに愛を注ぎ、エルモにまで愛を注ぐようになってしまった。

パートナーにしたい人、というよりは、パートナーになれば、自然とそうなっていく

ものなのかな、経験の浅い私はわかりませんが。

そして、やはり頑固で気難しい私にそんな相手ができるか自信もありませんが。

でも、だからこそ、良質なコミュニケーションが、人間関係の形成には鍵だとも

思っているのです。

少なくとも、私は、付き合う全ての人に、自分が許せる限りで誠実でありたい、

そのためには、良質なコミュニケーションが必須です。

そうでなければ、私の言動は、おそらく不誠実で、ひねくれたものに見えるでしょう。

 

そして、その良質なコミュニケーションに必要なのは言葉。

少しネタバレになりますが、A・Jは失語症に陥ることになります。

本屋が失語症だなんて、なんという皮肉でしょう。

私は、言葉が無ければ生きていけません。

またも仕事の愚痴になりますが(笑)、あるとき、私が同報されているメールの中に、

「国語ではなく、データ(数字)で話しましょう」

というような内容の一文が書かれていました。

ビジネス的には大正解。それを書いた方も、とても素敵でリスペクトはしています。

が、もう私としてはその考え方は受け付けません。拒絶反応を起こしかねない一文。

起こしかねないというか、まあ、拒絶反応を起こし続けているのですが。笑

会社、ビジネスとしては、もう言うまでもなくそれが正しい指導なんです。

でも、私にとって、「国語」「言葉」って、とっても大切なものなんです。

抽象的な物事を、頭の中で、文字で、もしくは声に出して言語化すること。

その作業は私にとって、一種の至福であり、私を私たらしめるものです。

だから、そのメールを見たときに、私自身を否定された気がしました。

(自分を好きになれない仕事なんだよね、合わないんだよね。だから。笑)

ただの数字の羅列では、語られない、色々な思想があって、そこからある一面を

切り取って、思考を掘り下げ、それを言語化する。

言語化によって、違う一面が見えてきて、それをまた掘り下げていくと、最初の一面と

繋がる側面が見つかって、それについて深く考察していくと、新しい気付きが見つかり

それを最も相手に伝わりやすいと考えられる適切な言葉によって、言語化する。

ある思想の一面から、私の思考になり、それが私の嗜好になり、その行為自体が

私自身となり、それを私の選んだ言葉で言語化して、他者へ伝える。

ある思想の一面から、相手の思考になり、嗜好になり、相手自身となり、その人の

言葉で私に伝わる。

それが良質なコミュニケーションであり、決してデータでできるものではないのです。

ビジネスとは、なんと簡素化され、無機質なものなのでしょう、そんな無機質で

無慈悲なものの何が面白いのでしょう、と、どうしても好きになれません。

ひょっとしたら、このサラリーマン生活を好きにならせてくれる人が、私の将来の

パートナーなのかな。笑

こんな私ですので、失語症になったら、それは死を意味します。

でも、きっと、その言葉すらなくなっても、A・Jのようにその場にいられることが

嬉しい、そう思えることが、愛であり、本当の意味で生きることなのでしょうね。

 

今、私を支えてくれているのは言葉です。

それを使って、色々な世界を描いてくれている本です。

私が今、最も愛情を注いでいるのは、私を私たらしめている言葉なのかもしれません。

そんな愛情を見つけさせてくれた作品でした。