Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 29th Book> フラニーとズーイ

やはりもっと若い頃に読んでいればよかったなあと思った作品でした。

とはいえ、今読んでも、日々感じていることが、テンポよく言語化されている気がして

また数年後に読んでも、何かしら発見があるかもしれない可能性も感じられました。

 

「フラニ―とズーイ」(新潮文庫

著:J.D.サリンジャー  訳:村上 春樹 f:id:kanaebookjournal:20200926190827j:plain

https://www.shinchosha.co.jp/fz/

新入社員だった頃でしょうか、「The Catcher in the Rye」は日本文英文両方で

読みましたが、特に私には感情的に響くものもありませんでした。

従って、サリンジャー作品はあまり手が伸びなかったのですが、しばらく前に

Netflixで観ていたく気に入った「Carrie Pilby」(邦題:「マイ・プレシャス・リスト」)

という映画の主人公、Carrieの一番のお気に入りの小説が、本作であったことから、

手に取った作品です。

Carrie Pilby」もめちゃくちゃいい映画です。

Carrieが繊細で、でも頑固で、18歳で既にハーバードを卒業するくらいに頭が良いのに

だからこそ家族や恋愛などの人付き合い含め、色々な葛藤を抱えていて、可愛らしい

と同時に、私に似ているような気もして、何度もリプレイしています。

 

本題から逸れましたが、もういくつか本題から逸れた話をさせてください。

英語の原題だと「Franny and Zooey」で、おそらくこの "Zooey"部分を日本語訳すると

なると、きっと翻訳者泣かせなんだろうなあ、という気もしています。

実際、今回の訳者の村上氏もこれを「ゾーイ」とするか、「ズーイ」とするかを

悩んだというようなことを書いていました。

私的には、あえてカタカナで書くとすれば「ズゥォーィイ」なんだろうな、と

思っています。笑

 

そしてこれが最後の本題から逸れた話ですが、ファンの方には申し訳ないけれど、

ノーベル文学賞に毎度のようにノミネートされる、本作訳者の村上春樹氏は、

私は好きではありません。

稀に出てくる、「この人の本、ダメだ、、、」のうちのひとりです。

食わず嫌いではないんです。ちゃんと読んだんです。

最初は高校生の現代文の教科書に掲載されていた随筆で、授業で取り上げられました。

内容は全く覚えていないけれど、とにかく好きになれなかった。

俺って色々考えてるだろ?これってこういうことなんだぜ!こんな発見した俺、

結構すごくね?みたいな感じがね、文体から滲み出ちゃっている気がして、

考えている内容やら気付きやらに、読者は目もいかなければ、頭も回らないよ、

みたいな感じがしてしまってね。笑

でも食わず嫌いも良くないなあと思って、大学生の頃に代表作の「ノルウェイの森」を

読みました。

内容は全くもって覚えていませんが、とにかく、本当に胃の腑が病気になったのでは

ないか、と思うくらい、物理的に気持ちが悪くなりました。

それ以来、一人称で書かれている文体が苦手なんだとしばらく思っていたのですが、

(まあ確かに好きな文体ではないですけれど)読んでいて気分が悪くなるような

話にはあれ以来出くわしたことがありません。

ネットで調べると、性描写が云々とか書いてありますが、あんまりそこも記憶が無く、

とにかく内容も面白くなければ、すごく無神経な物語だと思った記憶があります。

無神経な話を、緻密で繊細な言葉と情景で飾り立てて、それらしく見せている、

みたいな。

もうそれ以来、村上氏の作品は随筆、小説問わず、読むのはやめると心に決めました。

今回はでも、もう一度挑戦してみよう、訳本ならまだ何とかなるであろう、と思い、

古い別訳者のほうではなく、新しい村上氏の訳本を手に取ったわけです。

英語力維持のために英語で読むのが一番いいのでしょうがね。笑

でも今回は、そんなに気になりませんでした。訳本ならこれからも読めるかも。

 

「フラニ―」と「ゾーイ」としてそれぞれ発表された、短中編小説集といえる本作。

それぞれの主人公の名前が、そのままタイトルとなっているわけです。

7人兄弟の末娘で見目麗しいフラニ―は、自身も名門大学に通いながら、別の名門大学

に通う恋人レーンを、週末を共に過ごすべく訪ねます。

少し前まで熱かったレーンへの恋心も、演技への熱も、何もかも失ったように見え、

とある宗教書に執着しているように見えるフラニ―を、レーンは心配します。

ラニ―は、そんなレーンのエゴの塊と見なし、世の中の多くの人々、物事が、

レーンと同様、エゴとそれを守るための瞞着であることに気付き、絶望しています。

その絶望から逃れるため、救われるための、小さな宗教書なのでした。

気を病んで身体的にも影響が及び、倒れたフラニ―が戻ってきたニューヨークの

グラス家では、フラニ―の次に年若く、容姿端麗で俳優をしているズーイが、

自殺した長兄からの長きにわたる手紙を、入浴しつつ読んでいた中、母親のベッシー

ことミセス・グラスがフラニ―をいたく心配し、ズーイへああでもない、こうでもない

と相談しに来ます。

(グラス家の兄弟の全員がかつて、そのIQの異様な高さに神童として出演していた

ラジオ番組があったほどに、頭脳明晰です。)

一通りの親子の会話を終え、ズーイが、鬱々とし、現世を生きるに生きられない妹に

対して、彼自身の抱える葛藤を含め、切実な想いを伝えていきます。

この本作のメインどころは、このズーイのフラニ―へのあらゆるお説教でしょう。

メッセージ自体は単純に、世間が、社会がどれだけ欺瞞に満ちていようと、それに

ついて社会自体がどう考えていようと考えていなかろうと、そして自分自身が

どう思っていようと、やることはただひとつ、自分自身の完全を目指すこと、

それに集中して生きていけばよろしい、といったところでしょうか。

 

もちろん、そのメッセージも心に響くものではあるのですが、私はズーイが

途中で語っていた、ある言葉に感銘を受けました。

「自分のエゴを、本物のエゴをしっかり使っている人間には、趣味のために割く時間なんてありゃしないよ。」

以前、友人に私には熱中できる趣味が無いことを相談したことがあります。

映画も読書も好きだけれど、それ自体に熱中するということが感覚としてありませんし

何となく何をしていても常に上の空な感じなのです。

常に何かが頭の中を駆け巡って、自分の思考に結びついてしまう。

旅行も好き、読書も映画も大好き、泳いだりウォーキングもしている、だけど、

「ああ、楽しい!!こうしているときの私が好き!!楽しい!リフレッシュ!!」

みたいな感覚とか、本当になくて、悩んでいました。

私にも趣味が欲しい。可能であれば、人と共有できる趣味がいい。

ずっとそれが悩みで、望んでも得られないものでした。

その友人には、

「趣味って、自分から逃げるための手段なんだと思うよ。それをしないでいられるほどに、あなたは自分に常に向き合っているんじゃない?」

と言われて、その時は半分納得しつつも、それでもやっぱり、趣味が欲しいの欲望の

呪縛から逃げられないでいました。

でも、今回、ズーイのこの言葉が後押しとなって、友人の言っていた言葉が、

胃の腑にストンと落ちました。

私、たぶん本当に、誰よりもすっごくエゴイスティックな人間なんだ、と。

別の友人からは

「あなたは自分のことを大事にしているよね」

と言われたこともあります。

そのときは、

「理解しようとしているけれど、大事にしているかはわからない」

と答えましたが、やはり私は、とても自分を大事にしているのだと思います。

大事にするようになりました、とても。

海外で一人で生活するようになってから、そうなるようになりました。

日本社会生活を営むにあたって失ったものは多いけれど、人間的な成長は我ながら

実感しています。

まだまだだけれど、一歩一歩進んでいる感覚はあります。

日本社会においては、”自分を大事にする(≒本書で言うエゴイスティックである)”

ことが、明らかに悪として認識されてしまいがちであるのが痛いところで、

日本にいる限りは、その概念に常に脅かされて、きっと本来「自分を大事に」

したい自分の想いがくすぶって、悶々としていたことでしょう。

海外で、初めて一人暮らしをして、まだまだ自分のことでわからないことは多いけれど

前よりもずっと、向き合う時間も増えたし、向き合うことから逃げなくなってきたと

思っています。

逃げる言い訳もなくなったし、趣味という逃げ方もそもそも知らなかったのが、

逆に幸運だったのかもしれません。

そして、趣味のために使う時間なんかありゃしない私の一面も、結構好きになれそうな

気がしています。

 

既に読んだことがある人も、まだ読んだことが無い人も、いかなる年代でも、

何かしらの発見がありそうな作品だと思います。

あらゆる宗教色は濃いけれど、自分と向き合う必要があるときには持ってこいの

作品かもしれません。