Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 30th Book> 不実な美女か 貞淑な醜女(ブス)か

通訳という仕事について書かれているエッセイの本作ですが、書いてあることのほぼ

全てが私の思考、コミュニケーションスタイルのエッセンスにまつわるものでした。

感銘を受ける、といことを久々に体感した本かもしれません。

とにかく内容が濃い。

一字一句として無駄は無く、だからこそ一文一文の理解を確かにするために

意味を噛みしめながら読んでいった作品です。

筆者のような通訳として有名で、頭脳明晰な人物が、私が日々思考していることに

ついて、ここまで余すところなく言語化してくれていることが嬉しくもありました。

日本人が日本語で書いたエッセイですが、読むのに大変な時間がかかってしまった。

 

「不実な美女か 貞淑な醜女(ブス)か」新潮文庫

著:米原万里

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https://www.shinchosha.co.jp/book/146521/

本作題名自体は何とも刺激が強いものですが、読んでいけば、つまりは筆者が

通訳という職業についてどう向き合っていくかという姿勢の話です。

原文(つまり原発言者の発言)への忠実性と、訳出文の美しさのバランスについての

葛藤が、通訳の対峙する、し続けるジレンマのひとつであるということでした。

サラっと書いてしまうとそれまでですが、それも本作の一部のお話で、もちろん

その他、彼女の本業である通訳という職業を通して、言語というものに向き合うこと

によって、物事の本質についてを考え、それをまた言語化してくれている作品でも

あります。

写真でおわかりになるかもしれませんが、思わず付箋をぺたぺた貼り付けてしまった、

文庫本に付箋を貼るなんて初めてかもしれません。

米原万里氏の作品は、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」が初めて読んだもので、

出会いは中学生の頃だったでしょうか。

あれは初めて感銘を受けた作品といっても過言ではないかもしれません。

彼女が少女時代に過ごしたチェコソビエト学校で、仲良しの友人たち、特にアーニャ

と過ごした日々、大人になって再会したときのエピソードなどが綴られていますが、

東欧、ソ連にとって激動の時代であったこともあり、国とは、社会とは、そこに

属する自分とは、ということが語られている話であったと記憶しています。

そして、本作は通訳という仕事を通して、それを語ってくれている作品であり、

意図せずして(していたかもしれませんが)読者にも考えさせてくれるものに

なっています。

 

とりあえず、まずフェミニストとして書いておきたいのは、本作の題名についてですが

米原万里のような、グローバル人間(本作を読了後に、彼女を表現するのにこのような

陳腐な言い回ししかできない自分の語彙力の無さを呪いたくなりますが)が、

女性の見た目を、しかも美醜について堂々と作品名とするなんて!と目を疑いました。

ですが、さすが米原氏、訳文について女性の容貌をたとえとすることについても

しっかり解説してくれていました。

仮にこのタイトルを男に置き換えても、しっくりこないですよね。

それだけ女性がルッキズムの餌食となっている、というようにも解釈されて、氏が

言うように大変癪ではありますし、得心はいきませんが。

 

私は日本語以外に話せるのは、アメリカ(風)英語です。

ですが、多くの日本人より少しだけ得意、というくらいで、英語母語話者と同等という

わけにはもちろんいきませんし、通訳翻訳なんてもってのほかです。

(今回は書きませんが、米原氏は本作で、通訳と翻訳の性質の違いも多分に説明

してくれており、それらも人間の思考プロセス全般を鑑みると、変興味深いです。)

(そして、私が少し英語が人より得意なのは、何より日本語の習得に力を入れてきて

いるからなのかもしれない、とも学びました。第二以上言語の習得度合いが、母語

習得度合いに勝ることはないとの解説もありました。)

そんな私ですが、本作を以てまず感じたことがあります。

私は日々通訳をしている

 

どういことかといえば、私は思考が趣味のようなものですので、それをこのブログも

然り、他人との会話などで、アウトプットすることが、必要かつストレス解消かつ

私の思考活動に必要なプロセスです。

私は日々外界から見て聞いて感じ得たものを、自身の内側に取り込み思考し、私風に

仕上がった見解を外界へフィードバックするという、サラリーマン風にいえば、そんな

PDCAができあがっています。

そのプロセスは全くもって、通訳と共通するものであることを本作で知り、衝撃を

受けました。

 

A. 外界から「あまおう」という概念、刺激を受ける。

B. 「すごく甘くて美味しいいちご」として私は認知する。

C. あくまで私が認識している限りでの受信者の、総合的な知識経験、物事の考え方に

 基づいて、ある言葉を得たときに、「あまおう」という概念(≒私の認知)を、

 私と限りなく近い認知(B)を得られる言葉を考える。

D. 「〇〇〇〇ないちご」として発信する。

 (〇〇〇〇は私が考える受信者の知識経験人間性に基づいて変わる。

たとえば、「ハイブランドで高価ないちご」とかになったりする。)

 

もちろん通訳では、多言語同士のコミュニケーションなわけで、更に米原氏が

(様々な通訳の例や小噺を織り交ぜながら)説いているように、その言語というのは

国や民族の文化に密接にかかわっており、その文化無しに言語の習得というのは無理で

あるため、より複雑なプロセスを呈しているのは言うまでもありません。

が、こうは言えないでしょうか。

私は、私という民族が背負っている、私色の文化を所持しており、

私という人物それ自体を

あなたという民族が背負っている、あなた色の文化を所持している、あなたに

「言葉」を通して伝えようとしている。

これって通訳なんだと思うのです。

 

そしてこれが私のコミュニケーションスタイルです。

言語化したい。言語化してほしい。

あなたの思考を、あなたという概念を、あなたの本質を私に教えてほしい。

会話をする人、会話をすることになるであろう全ての人に全力投球です。

従って、その人の名前や住まいなど、記号的なものは、その人自身のことをより深く

知り、私自身の中でその人への興味が深くなってから、自ずと情報として入ってくる

ものであるため、私にとって重要事項ではない故、なかなか覚えることができません。

その人自身の概念を探ろうとするがため、記号的なものに脳みそを割く余力はもちろん

なく、興味を失った対象に対しても同様です。

 

相手の人生経験や知識などに基づいてフィルターされた視点から見たときに、

私は、私という人間を、私が見ている私とほぼ同じ状態(私の本質)で見てほしい。

いかにそれを適正で的確な言葉で伝えられるか。

物心がつき、そして言葉(日本語)に興味を持ち始めてから、常にそこに注力を

しており、全力で臨んでいます。

 

そうなると、否が応にも言葉が多くなる。

米原氏は、以下のような述懐を本作でしています。

「すでに分かりきっていることをくどくど言うような人は教養がないとか、出しゃばりとか、余韻がないというふうに受け取られる。要するに日本式の美学に反する。(中略)いつの頃からか、日本人は、その苦い失敗の経験から自らに対して『非論理的』という烙印を押してしまった。」

つまり、私は、大変教養がなく、出しゃばりで、余韻がない人間ということです。

そして、その「非論理性」について米原氏はいくつか要因を挙げてくれていますが、

そのうちのふたつに、

「『至近距離の』人間関係を損なうことを恐れるあまり、白黒をはっきりさせることを嫌い、因果関係をあからさまにせず、なるべくぼかして表現し、論理性をできるだけ目立たないように隠すか、少なくとも前面に押し出さないように努める傾向が言語習慣の中に根付いているせいである」

「身内コミュニケーション特有の、肝要なところは暗黙の了解ありという習性で、『至近距離のこく微妙なニュアンス』にこだわりすぎて、むやみに枝葉末節に分け入り、全体が見えない話し方をするせいである。」

とあります。

 

私自身のこれまでの人間関係やコミュニケーションの葛藤の要因が明白になりました。

私は、おそらく、「私」という人間以外に「身内」として認識することがほとんどなく

従って、白黒はっきりさせたところでその人間関係が崩れる可能性を否定し続けて

きていたのですから。

(それで崩れる人間関係なんて、所詮人間関係とも呼べない代物だ、という諦観。)

未だに、その考えを改めることは、正直なところ難しいです。

 

私は私自身に誠実でいることが、他者に対して誠実であるという信念があります。

自身に誠実でいられない、自身の本質を理解しようとしない、その状態で一体、

どうやって他者を理解しようとできる?他者に誠実でいられる?

この信念は変わりませんし、変える気もありませんし、それに基づく

コミュニケーションスタイルも、私が満身創痍になって、投げ出さない限りは

変わらないでしょう。

 

そして、私は対話相手にも同様のスタンダードを期待してしまっています。

それが、私の今の苦しみです。

なぜなら、日本人である私は、論理的かつ主張的であることによって、マイノリティ

だからです。

主張的であるということは、行動様式としては強い印象ですが、その性質自体が、

権威者(=マジョリティ)に良しとされないマイノリティに属しているという、

何とも居心地の悪い複雑さがあります。

対話をできると期待しても、出会う人の多くがでもマジョリティ(ここでの文脈では、

権威者かつ大多数)に属する人であった場合、やはり私は苦しみ続けることになる。

期待をしないか、私と似たコミュニケーションスタイルや人間関係の考え方が

マジョリティであるところへ身を置くか。

 

米原氏が本作でも、そして「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」でも述べていたように、

自分の国や民族、その文化背景というものは、その人自身につきまといます。

日本語を母語として話し、意思疎通を取ろうとする限り、それから逃れることは

できないですし、それ自体は私を私たらしめるものでもあります。

今、私が抱いているこの葛藤自体が、私を私たらしめているものなのであろうと、

溜飲を下げつつも、それが解明されたことに対して手放しで喜べることはできない

心情となっています。