Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 38th Book> ナイルパーチの女子会

女友達がいたことのない女性同士が出会い、各人の抱える問題も相まって、

それぞれの人生の歯車が狂いかけていくお話。

自分らしい人間関係の構築とその維持について、改めて熟考してしまいました。

 

ナイルパーチの女子会」(文春文庫)著:柚木 麻子

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https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167910129

 

結局、お気に入りの作家さんの本を手に取ってしまうものですね。

柚木氏の作品は昨年、「BUTTER」でいたく感激して、本ブログで取り上げるのも

「その手をにぎりたい」に続き、おそらく三作目。

本作は、どうやら水川あさみさん主演でごく最近、日本でドラマ化されたとか。

「BUTTER」との出会いから、柚木氏の作品は何作か読んでいます。

本作はこれまで本ブログで紹介した作品ほどの感銘は個人的にはなかったけれど、

否が応にも、自分の他人との関わり方を自省させられる作品でした。

 

大手商社でナイルパーチ(欧州やヨーロッパでスズキ等白身魚の代替として食される

アフリカの巨大淡水魚)を商材として扱う美人キャリアウーマンの栄利子。

同商社に勤めた父親と、カフェ経営等を経験した後に家庭に入った母親の元、

世田谷のマンションで30年間暮らしており、おそらく同じ街に住んでいるあろう、

「おひょう」こと翔子のブログにハマっていました。

田園地帯の実家から上京し、アパレル企業に勤めていた翔子は、精神的負担を理由に

退職後、アルバイトしていたスーパーで社員として働いていた現夫に出会い、同じく

世田谷で主婦として、つつましい生活を送っていました。

よくあるキラキラ主婦系、丁寧な暮らし系ではなく、ゆるっとした日常をユーモラスに

綴る翔子のブログに惹かれた栄利子は、翔子がよく出入りしていると思われる、そして

かつて母親が運営していた地元のカフェで念願の邂逅を果たします。

翔子はといえば、ブログの書籍化話や、実家、父親との関係性に葛藤を抱えています。

女友達がまともにいたことのない二人は、始めは意気投合しました。

が、徐々に激化する栄利子のストーカーまがいの言動に恐れをなす翔子と、

拒否されればされるほど、我を忘れて固執していく栄利子。

ナイルパーチは、人間が漁獲のためにビクトリア湖に放流したら、在来種を絶滅させ、

生態系を大いに乱したことから、主として栄利子自身や栄利子の周囲との人間関係に

ついて、折に触れて(栄利子視点からは時にナイルパーチに同情的に)比喩的に

語られています。

そこに翔子の夫、通っているカフェのバイトの男の子、栄利子の男性同僚の杉下や、

杉下の彼女であり派遣社員の真織、栄利子の奇行により関係性に溝ができた幼馴染の

圭子、栄利子や翔子の家族が加わって、ドラマが展開されていく。

あらすじとしては、そんなお話になっています。

 

そのお話の主軸となるのが、人間関係における距離の取り方、構築の仕方について。

栄利子は、優等生として育ってきており、人間関係においても

「(自分の中での)正解」を求める故、周囲からは奇怪に思われます。

「(自分の中での)正解」以外の視点が欠如しているため、他人を思いやる能力が

著しく低い、ない。

その「(自分の中での)正解」、つまり彼女の理想も、何もかも両親から与えられて

恵まれて育ってきたことに無自覚であるという背景に基づくものであるから、設置

されたハードルが異様に高い。

世界から隔絶された心地をずっと味わう羽目になっているわけです。

一方、翔子は、田舎にある実家の父親の陰に怯えています。

決して自ら動かない父親。道化のように振舞ってはいるが、実は怠惰の代名詞、

誰かが自らを生かしてくれるのを、死が訪れるのを、自分は何もせず、ただひたすら

家がゴミ屋敷のようになってしまっても王様かのように待ち続けている父親を、

忌み嫌いつつも、自分も結局その娘だと自認してしまう、せざるを得ない状況となる

ことを恐れています。

 

私が感情移入してしまうのは、どちらかといえば栄利子のほうでした。

翔子のように、家族内で何もなかったわけでもなければ、家族に対して思うところが

ないわけではないですが、お金に困ることはなく、得たい教育も与えてもらい、一流と

は言わずとも、そこそこの企業に勤めて、良くも悪くもレールに乗ってはいるという

バックグラウンドもありますが、私は、おそらく人間関係において、翔子のように

怠惰となり得ることはないので。

だから、仮に栄利子のように人間関係に執着するようになってしまった自分を想像

して、翔子の立場となり得るであろう架空の友人を想像したら、鳥肌がたつというか。

 

私は、人間関係において、常に全力で誠実でいたいタイプです。

それを、人間関係を構築している、していくであろう他人にも求めてしまう傾向には

あるのかと思っています、栄利子が翔子に強要したように。

以前、「不実な美女か 貞淑な醜女か」で書いた通り、

自分に誠実でいることが、他者に対しても誠実でいることである、そういう状態で

あるには自分の本質に自覚的であるべきである

というようなことを書きましたが、私はおそらく自分の関わる他人にも、内心でそれを

期待しています。

残念ながら、多くの人が私と同様の価値観を有していないことは感じています。

最近話した友人に言われたのは、

「自分の言動や心情について自覚的でいることって、非効率的だからね」

というようなことでした。

効率的=器用だとすれば、まあ私はとんだ不器用人間なわけです。

多くの人は、器用に生きているのでしょう。

そして、私はそれをどうしても、是とできない。

会社の仕事とか、家事とか、作業化できるような物事、自分自身の根幹に関わらない

部分に関しては、私はおそらくめちゃくちゃ効率的でスピーディーです。

なぜなら、仕事やら家事やら作業に割く時間を減らすことによって、自分について

考えたり感じたりする時間を、最大化したいから。

自分の根幹に関わらないことであれば、決断も作業も他人事になるから、比較的容易。

非効率的なことを行うために、生活のためのお金を稼いだり、住環境を整えたりする

ことは、めちゃくちゃ効率化しようという、ある種の矛盾かもしれません。

 

その非効率的な自分を受け入れてもらえないと感じることが多い今日この頃。

「不器用でいること=面倒くさい人」として認識されてしまうことに、この上ない

孤独を感じます。

家族含め、自分以外の人間は、必ずしも私と同じ価値観を共有しないのだから、

それはそれとして認めるべきだし、認めようと努めています。

全然うまくできないけど。笑

世の多くの人が、自身の言動や心情に無自覚的に、効率的に、器用に生きている

(少なくともそう見える)わけで、その在り方の認め方を、私は未だ模索しています。

社会学的には定義されていないでしょうが、彼らはある種マジョリティなわけです。

マイノリティである不器用な生き方をしている私が、そしてその不器用な生き方こそ

人間として真価があるという信念を持ってしまっている私が、マジョリティ形成する

社会の中で、生き延びるためには、私の最も苦手とする「迎合」をせねばならない。

 

苦手な「迎合」を、特に社会人になってから、そして何よりバンコクで過ごすように

なってから、昔より努めてするようになりました。

不器用な生き方をする(マイノリティでいる)って、この上なく孤独で、

私は根がとても寂しがり屋です。

幸か不幸か、私は見た目や雰囲気で与える第一印象が、いわゆるパリピだの、

陽キャだのと呼ばれる類らしいです。

「迎合」態勢には入りやすい。

意図したりしなかったりしつつ、明るい雰囲気をまき散らしながら、

「私はマイノリティです!不器用なんです~!」

って、主張する。

孤独感がその主張を、激化させることもある。

マイノリティは社会的弱者だから、基本的に主張するというアクティブで強い行為を

マイノリティが取ることは、周囲から想定されていません。

まあそれこそ、ちょっと前の流行りではありませんが、

マイノリティはわきまえているはずだ、と想定されているわけですね。

だが、私は、マイノリティなのに、性格的に驚くほど傲慢。

従って、違和感を覚えられ、余計に面倒くさがられる。

だから、サラリーマンの効率性を求める仮面をかぶって、プライベートでもよく

「迎合」する。

自分を押し殺して、営業スマイルを身に付けて、それでもほんの少し漏れ出てしまった

私自身を感じ取った人から、「我が強い」と言われる。

まあそれは真実だけど。笑

私が自分自身に誠実でいることによって、他人に誠実に接することによって、

ただでさえこの上ない孤独感が余計に増す切なさ、淋しさを感じる側面は、日々

多々あります。

空回り、なんでしょうね。

私は、まだまだ自己愛が強すぎる子供なんでしょう。

傲慢は直らないかもしれないけれど、大人にはならないと、と焦ります。

この感情が募りすぎてしまったら、私だって、「私のことをわかって!共感して!

正解はこれなのよ!!」って他人にかまってもらわないとどうにもならない栄利子

みたいになってしまう気がして、本作は少し怖かったです。

 

本作は、栄利子の働く会社の杉下や、その彼女で派遣社員の真織がフェミニズム満載の

応酬をしていたり、幼馴染の圭子の言葉が人間関係構築についての真理を説いていたり

して、刺さるセリフも多かった気がします。

環境も自分自身の心情も、人間関係もこれからも山あり谷ありなんでしょうが、

私は栄利子を反面教師にして、自分自身と、自分の構築している人間関係をうまく

メンテナンスしながら過ごしていかないとな、と思わされた作品でした。