Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 40th Book> キングコング・セオリー

こんなにも爽快な読み味のフェミニズム著作はないでしょう。

レイプや売春などの実体験を元に、良くも悪くも飾り気ない、ちょっとぶっきらぼう

パンクな言葉で語られる、超絶アバンギャルドな本エッセイ。

現社会の波に乗れている人々には、耳障りなのかもしれない。

 

キングコング・セオリー柏書房

著:ヴィルジニー・デパント  訳:相川 千尋

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http://www.kashiwashobo.co.jp/book/b553055.html

 

「私はブスの側から書いている。ブスのために、ババアのために、男みたいな女のために、不感症の女、欲求不満の女、セックスの対象にならない女、ヒステリーの女、バカな女、『いい女』市場から排除されたすべての女たちのために。」

 

写真にも付けたのですが、本の帯に書いてあるフレーズ。本作の一番最初の文章です。

もう飛び上がらんばかりに、はいはーい私のことね!!と手を挙げたくなるこの私。

SNSでこの文章を見かけて本作を知り、読まないわけにはいかないと心に決めていた。

本作を読めば、私の惨めなコンプレックスが慰められると安易に思ったからです。

「よーしよしよし、デブで、ブスで、男みたいで、男に相手にされない、哀れな

かなえちゃん。かわいそうに。でもそのままでいいんだよ、よしよし」的な。笑

でも実際は、どちらかといえば

「デブ上等!ブス上等!男勝り?実際に有能なんだよ!男の基準で成立している

社会も資本主義も糞くらえ!”いい女”になれなくらいでめそめそしてんじゃねぇ!」

的な感じでした。笑

これだけ読むとすごく誤解が生まれそうなのですが(笑)、文章自体や語り口は

(訳者の方の文体の影響も大いにあるだろうが)淡々としています。

これまで学んできたことのおさらいといえばそうなのですが、それでも、今回の

切り口は、レイプや売春、ポルノグラフィなど、特に性的な事象にまつわる側面からの

視点が主眼となっており、実体験が如実に語られているからか、その切り口から

為される政治や社会への、デパント氏の考察が非常に深淵。

復習しているだけのはずなのに、切り口や表現が違うだけで目から鱗のような。

 

安易だけれど、感銘を受けた学びが今回もたくさんあったので、その概要をシェア。

 

 女性が「モノ化された女」を自ら演じるのは、男性たちを怖がらせないため。男性の持つ権力に近づくことは、男性を怯えさせ、自分たちにその報復が必ずや来るであろう、そうならせないためにも、セクシーな服を着て、女性らしく振舞わないと、という強迫観念がある。

(=要はお互いに怖がり合っているという不毛な牽制なのだと私は読み取りました。)

 

母性礼賛はファシズムへの道。資本主義は男女全員を抑圧する「宗教」。

(詳しくは、本書を読んでください。笑)

 

「客を取った」と「娼婦を買った」の差の大きさ。前者は社会から逸脱した被害者カテゴリーに入れられ、後者は軽く扱われる。

が、前者が被害者であれば、後者は、家庭があるのにも関わらず、自らの生々しい欲望を金で満たすことはみじめであるといった後ろめたい烙印が押される。

本当に売春がモラルを乱すのは、本来家庭にいるべき女性が家の外に出て、自分自身で金を稼ぎ、街を自分のものにしていくから。

政治権力が何がふさわしく、何がそうでないか管理していることのほうが、明らかに暴力的である。

(これに関しては後述。)

 

自分が女だったら、相手の男を興奮、満足させられるようになりたいと男は思っている。

(真偽はもちろん定かじゃないが、これを考えれば、現在のホモソーシャル的関係性による影響は大いに納得。)

 

レイプ被害にあっても、正しい被害者は、口を閉ざせる被害者だと女同士のアドバイスが為されるが、それで心の安寧が被害者自身に得られるのか?なぜ男は世界は君のものだ、権利を欲せと育てられるのに、女は常に何をされても耐えるように教えられなければならない?

(レイプではないけれど、私が記憶にある中で初めての性被害で、被害者は私なのに、母に「騒ぎすぎよ、恥ずかしい」と言われたことが忘れられません。)

 

女の中で一番高い位置を占められるのは、最も権力を持った男たちと同盟を結んだ女たち。愛嬌があり、バカにされても怒らず、男の自尊心をくすぐる、コンプレックスを持っていて、男に服従する方法を知っている女。

(私が人生で関わってきた多くの女性が元から性質として備わっていてうまくでき、私ができない、スキルとして得ようとしてきた特徴が山ほど書いてありました。)

 

女性について語るのは、たいてい男たちと男たちの協力者の女たち。男たちは、自らのことを考えず、話さずに済むから、女について語る。そして女を介して、愛し合っている男たち同士でセックスしている。女について語るという媒体を通して、互いを認め合い、褒め合い、励まし合い、自らの有能さの幻想を抱く。

ホモソーシャルの仕組みが本文ではより赤裸々に。笑)

 

※ここからは主観的な内容となっており、事実の根拠もまだこれから勉強です

私が今、一時的に住んでいるタイも性産業が盛んな国です。

統計的に他国と比較してそうかはわかりませんが、少なくとも(日本人に)そういう

イメージが根強く定着していることは確かですし、実際に生活をしていても、日々

それを感じさせる場面に遭遇することは頻繁です。

以前も書いたかもしれませんが、平気で焼肉屋などご飯屋さんに、男性陣が、タイ人の

”お店”の女性たちを同伴で呼んでワイワイ騒いぎ、バーに行けば、それこそアフター

なのか何なのか、男性一人に対して、タイ人女性たちが群がっている光景などは、

あちこちで目に入る環境です。

 

自らを「モノ化」して、男性の金や権力に媚びているように見える女性たち、

そして、明らかに女性たちへのリスペクトを完全に欠いて自己陶酔に浸る

女性たちが隣にいるのに、全く彼女たちのことは人間として見ていない。

見ているのは、「こんなに女の子に囲まれてチヤホヤされている俺、それをできちゃう

金と権力のある俺」)男性たちを見て、何とも苦々しい気持ちにさせられます。

いかにも(日本も欧米その他も含め)本国で女性に相手にされないであろう男性たち

が、だからこそ金で何とかしようという魂胆が、もうpatheticとしか言いようがないと

思っていました。

 

性産業に対して、ここまでネガティブな想いを持っていた私も、やはり経験せずして

批判はできまいと、ゴーゴーボーイ(男性のストリップ劇場的なところ)に誘われて、

断らずについて行ったことがあります。

彼らがなぜ、ゴーゴーボーイで働いているのかは知りません。

ただ、何人もの番号付けされた男性がステージで、自らの鍛え上げた体を、観客

(想定されているのは、女性もしくはホモセクシュアル男性)に披露し、客は中から

気に入った人を見つけて、いくらか払って隣に座らせることができる。

お持ち帰りも可能で、もちろんそれは、人気度によって金額が変わる。

私は、ショーは最後まで見ていましたが、友人たちがいざ、各人のお気に入りを

座席に呼んでからは、「楽しくない」と言って、すぐ帰路につきました。

 

本書の作者のデパント氏は、自らの選択で売春をしたとのこと。

少し前までは、売春などに対して社会悪だ、と私自身も結構に否定的な考えを持って

いたのですが、色々と見聞きするにあたって、最近は考えが少し変わってきており、

本作で語られている内容、すなわち、デパント氏が自らの意志で、自らの身体を

使って、お金を稼いだことは、むしろ合理的で理解のできる選択だとも思いました。

私だって、自分が物理的、生理的に嫌だ、気持ち悪い、そんなことはできない、

と思ってしまう男性があまりいないと言いきれれば、サラリーマンでいるよりも、

短時間で何倍も稼げる性産業を、視野に入れていたかもしれない、とも。

お金もたくさんもらえて、自分の快楽も満たせるかもしれないのだから。

世の中が決めつけた根拠のない価値は下がっても、自分の価値は下がらない、

なぜなら、他の誰でもなく、自分で決めて、自分で選んだ職業選択なのだから。

何となく後ろめたい気持ちにさせられることはあっても(そのメカニズムは本書で

うまく説明されています)、性産業の存在自体をあってはならないものだ、とは

考えていません。

 

私は、キャバクラで働いたこともなければ、売春をしたことも、ポルノグラフィに出た

こともないので、そのような仕事をしたことがある人は、知り合いや、知り合いの

知り合いにいたりしても、その人たちがどのような経緯で、その仕事に就いたかまで

は、経験としても、人から聞く話でも、あまり知らないので、語る資格は無いのかも

しれません。

が、少なくとも、タイでは、背景に人身売買が行われている可能性があること、必要な

教育や資金があれば、性産業に従事していない可能性がある人も多いかもしれないこと

を聞いたことがあります。

 

きっと、私も先入観と偏見にまみれていたのかもしれません。

ひょっとしたら、彼ら自身の、自らの自由意思で選んだ職業だったのかもしれない。

ひょっとしたら、他にも同じくらい、もしくはもっと稼げる手段が、彼らの中に選択肢

として既にある(それを許している社会である)中で、選択したのかもしれない。

それでも、ゴーゴーボーイの彼らに、番号付けして、何人も並ばせて、客が値踏みする

という、その店のビジネスモデルが気に入りませんでした。

(たまたま行った店がそういうやる気のないだけだったのかもしれませんが)踊りは

おまけだよ、という店側の意図があけすけな、ショー自体の出来がお粗末だったのも

それを助長しました。

(反対にいえば、会話やサービスが根幹となっているキャバクラやホストクラブなど、

コミュニケーション基盤のお店についての需要は理解ができます。それでも、そこで

働いている人々が、必要に迫られてではなく、自らの自由意思で働いていることが前提

となりますが。)

その人自身ですらない、単なる器で、人間オークションと変わらないじゃないか、

人間動物園ふれあい広場なの?(どっちが動物なのだろう...)これは人身売買と何が

違うの?と私は憤り、悲しくなりました。

自由意思での職業選択の上に成立しているビジネスでなければ、それは単なる、

社会的強者による社会的弱者の性的搾取です。

私が行ったお店の「売り物」がたまたま男性だっただけで、女性のお店はきっともっと

たくさんあるのでしょう。

お店によって、コンセプトなど多少なりとも違えど、大枠は変わらないと仮定すると、

その先にお持ち帰りされるか否かに関わらず、自由意思を持つ人間が、自らを(単なる

見た目で)値踏みされる職業に就くだろうか 。

あるとすれば、一体どういう感情、どういう経緯でそうなるのだろう。

世間知らずの私は、未だその解を自分で見つけることはできていません。

 

デパント氏は、フランスという、(欧米至上主義の抜けない私個人の勝手な見立てに

よると)ただ単に伝統的というよりは一周回って保守的な、いわば複雑かつ繊細な

概念や思想を、生まれながらにして身に付ける環境で育っています。

だから、氏の本作が非常に画期的なのもわかりますし、私もまたも開眼の嵐で、

心の中で拍手喝采であったことは言うまでもありません。

 

そして氏は、(またしても私の主観ですが)思想的にも政治的にも社会的にも、

少なくとも日本よりは、何百倍も発達している自国を、まだまだだと詰る。

日本に育つ私には、理解が追いつかない部分もありましたし、これを多くの日本人が

仮に読んだとしても、きっと理解もできなければ、共感もできないのではないか、

と余計な邪推をしてしまうほどのより葛藤を生みだすほどに、先駆的に感じられる

本作なのでした。