Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 42nd Book> 男らしさの終焉

現社会を生きる男性に向けて、有害な男性性をから解放されよう、と呼び掛けている

本書ですが、女性として、人間としても、自分を大切にしようと改めて振り返ることが

でき、それがより良い社会に繋がるはずだという強いメッセージを感じる著作です。

 

「男らしさの終焉(フィルムアート社

著:グレイソン・ペリー  訳:小磯 洋光

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filmart.co.jp

 

本作の著者は英国の"白人紳士"アーティストだそうです。

よく存じ上げなかったので、画像検索したところ、何とも色鮮やかな画像の数々が

画面に広がりました。

私個人的には、あくまでイメージですが、音楽家エルトン・ジョンを彷彿と

させられた印象です。

今回またトランスヴェスタイトという新しい言葉を学びました。

異性の服装をする人々、またそれにより気分が高揚する人々のことを指すそうです。

英国人それも白人であり、男性であるペリー氏はまさしくトランスヴェスタイト

性的指向とはまた別物なので、氏はヘテロセクシュアルです。)

 社会的既得特権がを持ちながら、世の男性の「規範」から外れる職業と嗜好がある氏が

語る男性からの視点で、男性が男性のために作った社会を考察し、それに対して疑義を

唱え、男性へ向けて語りかけている言葉の数々には、大変説得力があります。

(女性だから説得力がないと言いたいのではないですが、女性の言葉が軽視され得る

中、そして女性が女性に向けての女性性解放を唱える場面は数多ある中で、男性が

男性に向けて男性性解放を説いているのは、画期的に感じます。

本作では「権力(男性が世界を支配する様子)、パフォーマンス(男性の服装と

振る舞い)、暴力(男性が犯罪や暴力に手を出す様子)、感情(男性の感情)」

四視点から構成されていました。

無自覚にも構造的にセクシストと化してしまうことが往々にしてある男性たちが、

実際に強いられている(自らに強いている)不要な苦しみや足かせを、自分たちで

外していきましょう、ということが、数々のケースや例示を元に、わかりやすく

説明されています。

 

本書では、デフォルトマン(default man)という言葉をよく目にします。

ペリー氏が、「白人、ミドルクラス、中年、ヘテロセクシュアル、男性」という

社会の価値観(を人々に押し付けた上で)基準となっている人々のことを指すために

名付けた言葉だそうです。

よく初期設定というような意味で日本語でも使われたりしていますね。

作品内でも書かれていますが、defaultには債務不履行等の意味もあるので、まさしく

こういった男性たちの描写をするのに打ってつけのあだ名でしょう、とのこと。

そしてデフォルトマンたちは、得てして”アイデンティティ”について意識することは

ない、との記述が心に響きました。

自分のアイデンティティがうまくいっているときに、それを意識することはない、と。

自らの権利をあえて声高に叫ぶ必要もなく、ただ呑気にいればいいのだ、と。

世の客観はデフォルトマンの主観となっており、デフォルトマンでいる限りは、

それが世界の中心であり、世界であると思い込んでいる、既得特権に無自覚なことが

ほとんどだ、と。

 

 

幼い頃から、どうしてもクラスや周囲の集団に馴染むことができませんでした。

自分の感情や意見を偽ってまで周囲に合わせることは、馴染めないことよりも、

私にとって精神的コストが大きかった。

だからといって、幼く傷つきやすい時期や、多感な年齢であったときに、所属できない

感覚は、もちろんとても寂しかったし、心もとなさ、時にはひとりでいる恥ずかしさ、

将来への不安などが常にセットで、自分を奮起させるために強がることを学んだり、

ふと自分の前に現れるそれらの感情を見て見ぬふりをすることを覚えました。

スキルを得て、紆余曲折、試行錯誤しながらも、成長するにつれて経験を経て、

自分も周囲の価値観も多様なものを受容できるようになり、年々、息がしやすく

なっていきました。

 

ところが、バンコクに来てから、また息苦しくなっていることに気付きました。

この街の日本人社会は、まるで小中高時代の教室を彷彿とさせる部分があります。

ヒエラルキーがあり、その地位に基づいて、自身の価値と自信に直結する。

些細なことでマウントを取り合いながら、そのヒエラルキーに基づく価値観を確固たる

ものにしていく。

そもそも、そのヒエラルキーにすら所属できなかった私は、またも異様な孤独感が

このバンコクでフラッシュバックしていることに気付きました。

「所属感」への憧憬の念

どうしてもニュートラル(=ここでは、大衆に迎合できて多くの人から好かれる)への

嫉妬と羨望から逃れられられず、所属感への狂おしいほどの憧れと、それを得られない

自分との狭間で、身もだえしているわけです。

 

そのようなことを、先日、日本の友人と電話で話したりしていたのですが、そこで

私は意外な事実を知らされます。

その友人も、どちらかといえば、昔は人気者タイプで私が常に感じていた疎外感とは

無縁であったろうと想像されるタイプの人です。

「多くの人たちにとっては、自分の感情や考えに思考を巡らさずに流される、流されていれば周囲に馴染めて、馴染めたほうがそれっぽく物事は流れていくのだから、楽な方を選択しているだけだよ。違和感があっても、それについて立ち止まって考えて、それをあえて周囲に提示するよりは、気付かなかったふりをして、自分のその違和感や、ちょっとした悲しみや怒りとかは無視していくほうが、その場はうまくやり過ごせて、楽だからそうしていただけだよ。決してそれはいいことではないと思うけれど、多くの人が、心の底から馴染んでいるわけではなくて、馴染むために自分を犠牲にしていることにすら無自覚なだけ。子供のころから、それに自覚的でいられたということは、辛かっただろうけど、大いなる学びだと思うよ」

というような旨のことを、そんな彼が会話の中で教えてくれて、 目から鱗でした。

あんなに共同体のような得体の知れない空気感を築き、まるでイワシの大群のように

言動を共にしていたを人たちも、何かしら自分を、個を犠牲にしていたのか、と。

そんなこと、自分が傷に気を取られ、恥ずかしながら、気付きもしなければ、

思い至ったこともなかった。

 

私は自分の意見や感情を常に重要視し、周囲の理解を得るためにそれを言葉を尽くして

説明しようとするタイプだったので、馴染めないのは当然、煙たがられもしました。

「私もあなたが正しいと思うよ」「かっこよかったよ」「憧れるよ」と、それを後から

(当時流行っていたので)手紙をこそこそ渡してくれる人たちもいました。

たしかに、そういう人たちは、自分の声を押し殺していたのだろう、と、今回、友人

との会話で気づいたのです。

それでも私は、その人たちへの怒りを消化できませんが。

後から手紙を個人的にくれるくらいなら、私が心細い思いをして苦心しながら、周囲の

理解を得ようとしているときに、「私もそう思うよ」と、一緒に声をあげてくれても

よかったじゃないか、と、もう15年以上前のことでも、未だに思ってしまいます。

 

長々と書きましたが、私が幼い頃からずっと憧れてきた「所属感」というものは、

そもそも存在しないものだったのでした。

かりそめの所属感を”ホンモノ”の所属感だと、勘違いして生きてきていました。

私はピュアな、本物の所属感をずっと求め続けてきていたのですが、友人の彼には

そんなものあるはずない、と失笑と一蹴されてしまいました。

多くの人々がうまく社会に受け入れられ、所属していて、何の違和感もなく、

ありのままの自分が受け入れられていると思っているのだ、と思っていたのです。

それこそが私がずっと得たくて仕方がなくて、得られなかった「所属感」だと。

でも実際は、各々が自分を何かしら折り曲げて、その事実にすら気付かぬまま、

得体の知れぬ所属感を造り上げ、その誰が走らせているのかもわからない共同体を、

その脱退の仕方や解散させる方法はもちろん、その共同体の存在意義や善悪すら

わからないまま、とりあえず無責任に走らせていたのです。

私は、日本社会のデフォルトマンの作り上げた世界が「ホンモノ」だと思い込み、

それに焦がれ続け、そしてそこに所属できない自分を責めてきたわけです。

デフォルトマンになることが、社会への所属と帰依になると信じて。

多くの現デフォルトマンたちが、デフォルトマンになるために犠牲にしてきたものが

あり、それに無自覚でいることによって、自ら自分たちの首を絞めてきていたことを

想像だにせず。

 

 

本書は、特に男性に向けての呼びかけ的要素が多い作品ですが、男性が作った現社会に

悩まされる多くの人を啓蒙しています。

私は女性ですが、デフォルトマン的要素を基準に生きてきた苦しみを、こうして

本書(と友人との会話)によって気付くことができました。

社会構造を様々な側面から説明し、男性に向けて、「こうでなければならない」では

なく、「こうあってもいい」という在り方を説いている作品ではありますが、自らを

顧みることのできる、とてもパーソナルな作品となり得ることもお伝えしておきます。

そして、少しでも多くの人が、「ホンモノの所属感」を感じられる社会となることを

願ってやみません。