Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 43rd Book> さよなら、男社会

男性が築き上げてきた現社会は、「自分」というものを犠牲にし、蔑ろにされた

数々の「自分」の悲しすぎる集合体かもしれません。

私もそんな集合体である社会を形成する一員でありながら、被害者なのだと思うと、

涙ぐまずにはいられない。

前回紹介作もそうですが、フェミニズムは、男女問わず、「自分」を見つめ、愛しむ

ための第一歩だと、改めて喚起してくれている作品です。

 

「さよなら、男社会亜紀書房著:尹 雄大 

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www.akishobo.com

 

前回紹介した訳語本の「男らしさの終焉」よりも、より個人の体験に基づく回顧録

要素が多い本書は、より日本人読者である我々には読みやすいかと思います。

ひとつひとつの著者の経験が、余すところなく、注意深く紐解かれています。

帯に推薦者として書かれているジェーン・スーさんは、以前も別作品で紹介しましたが

私もファンですので、より惹かれました。

自分と向き合えば向き合うほど、本当はしんどいのです。

弱い自分、その事実に傷ついている自分、そしてそれを見て見ぬふりする自分、

無視の上塗りを重ねていく自分、それを玉ねぎの皮を一枚一枚剥いでいくかのように、

尹氏は、自らの体験と、そのときの自身の感情や感覚を懇切丁寧に解説しています。

(並大抵の精神力と、自分を心から大事にする気持ちで無しではできない作業です。)

そして、そこから垣間見える現社会の歪みを、如実に炙り出しています。

共感できるものは多いと思います。

ですが、だからこそ、自分の体験ではないけれど、読んでいて辛いかもしれません。

尹氏の体験談と繋がる何かしらの経験をしている人は、多いはずです。

そしてその時に感じた自らの感情を、"臭いもの"として蓋をしてきたのでしょう。

社会の基準でいう"臭いもの"だから。

尹氏自らその"臭いもの"と向き合い、語ることにより、読者の"臭いもの"との対峙を

促進してくれています。

そして更にそれにより、現社会の在り方とその基準によって自らをジャッジすることの

苦しみから解放され、自分が自分でいることの素晴らしさを感じる、個々人がそれを

できるようになれば、より良い社会を目指せるのではないか、と希望を持たせてくれる

作品でもありました。

 

 

尹氏のエピソード中に、父親とのものがいくつかあります。

社会で権力を持つこと、「力」を何より重要視したお父さんだったそうで、それに

基づくお話もいくつかありました。

(これまで紹介してきた数々の作品でも開設されているので、社会は男性が築いてきた

男性のためのものという前提で話を進めます。)

 

私は、女性で一人っ子です。

さぞや可愛がられて育ったであろうと思うかもしれませんが、そうでもありません。

いえ、溺愛はされているとは思います。可愛がられてもいます。

経済的に生活が困ったことはまずないし、なんだかんだやりたいようにさせてもらえて

両親には、本当に心から感謝しています。

今の私では、仮に子供がいたとしても、とてもじゃないけど私が育ってきたのと同等の

生活を与えてあげることはできません。

単純に、両親はすごいと思うし、私は本当に幸運でした。

でも、正直、未だに父には個人的な感情として、わだかまりがあります。

両親ともに、親子だからと言って、互いを理解し合えないことは最近わかったことで、

未だにその切なさを感じています。

だけど、理解と愛は違います。

母からは感じられる無条件の愛情が、父からは常に、未だに条件付きとしか思えない。

 

さっきまで食卓で一緒に大いに笑っていた父が、その3分後には激怒し始め、あまりの

急変ぶりに母も私もついていけないなんてことは、日常茶飯事でした。

今は海外で一人暮らしですが、それまでは二十代後半まで実家暮らしをしていました。

二十数年、一緒に暮らしていても、その急変のトリガーはわからないのです。

どのタイミングで、何がきっかけとなるか、わからない。

楽しい食卓の日が大抵です。家族三人で大爆笑する日もある。

そんな時間は、今思い出しても面白いし、懐かしいし、恋しくなることもあります。

だけど、私は大人になっても常にビクついていたことも思い出す。

こちらの戸惑いをよそに、どんどん怒りのループに嵌まっていく父を見るのは、

本当に怖いし、彼が眠りに落ちるまで(大抵は驚くほど早寝ですが、激怒していれば

アドレナリンが出まくっているから、早く寝るはずもない)、延々とその怒りを

ぶつけられ続けなければならないのです。

あまりの怒りのエネルギーの激しさに、私は大人になっても、涙が出ないことのほうが

少なかったような気もします。

私にとって、家庭は常にピリッとした緊張感を持っていなければならない場所でした。

なぜなら、気を抜いた時期に見計らったように、爆発が起こるのでした。

(こんな内容でブログを書いているとバレたら、激怒どころか勘当されちゃうかも...)

 

数えきれないほど、そんな出来事はありましたから、いくつかの出来事を除いては

父が怒り出したきっかけまではわかりませんが、本作を読んで、その背景は何となく

分かった気がします。

尹氏のお父さんと同じように、私の父も、力や権力に重きを置いていたのでしょう。

 

私の父は、娘の私が言うのもなんですが、秀才、優等生タイプです。

昔から勉強もできたし、有名大学に入学し、当時は盤石だと言われていた業界、

会社に入社しました。

決して器用なタイプではないので、地道にコツコツ努力することができる人でした。

(親子とは思えないほど、私にはこの努力するというのが苦手で、その能力がない。)

けれど、世の中には、器用な人もいれば、地道にコツコツ努力した結果、更に能力が

高いと言われる人たちは山ほどいて、到底自分では適わないことがたくさんあります。

そういう人たちが自分より良い会社に入ったり、出世していったりして、お金や権力

という、目に見える、社会で評価されている指標で歩んでいくのを横目で見なければ

ならない場面に、多々遭遇することになります。

自分の時間と労力を惜しまず勉強し、働いた父には、それ相応(かそれより少し高い

かもしれない)プライドがあり、その現実が理不尽にも見えたし、遣る瀬無かったし、

悔しいし、大いに傷ついたのだと思います。

そんな人々の「能力」や「実力」だって、得体の知れない"社会"というものがが良しと

する「力」でしかないのに。

(そもそも「実力」など微々たるもの、生まれた境遇や運に大いに左右され得る。)

 

彼は、決して、社会から能力がないと思われるような人間ではありません。

その社会に馴染もうとして、その社会で成功しようとして、必死に努力した人です。

同調すれば良しとされる社会が築かれているわけですから、馴染もうとすれば、決して

社会がダメ出しすることはありませんから。

だけど、そのダメ出しされない状態を継続するため、あわよくば社会で成功するため、

そのために彼が失った代償はあまりに大きかったのではないかと思うのです。

社会が出す条件に見合う自分でいなければいけない。

やりたくないこと、言いたくないこと、されたくないこと、言われたくないこと、

それらを行う度、そして行われる度、社会に馴染み成功に近づくけれど、その度に

傷ついている。

そのうち傷つくことが常態化してしまい、やり過ごす方法を覚えます。

やり過ごすことが続きすぎると、傷ついた事実を無視することを体得する。

 

尹氏のエピソード同様、私の父も、家庭に社会を持ち込んでいたのです。

幼い頃から、家が、父が私にとっての社会でした。

父の出す条件に見合わないと、私は見捨てられると幼い頃から体感していました。

前述した急な怒りの爆発は、その一例です。

可愛がられていることと、常に隣り合わせで、父に捨てられたら生きていけない、

捨てられないようにいい子でいないといけない、という強迫観念がありました。

(実際に彼がそんなことをするはずがない、と今となってはわかるけれど、それでも

あまりに深く刷り込まれていて、その恐怖や不安が今も消え去ることはない。)

社会が父に押し付けていた条件を、私への愛情にも父はあてはめていた、

そんな気がしているのです。

 

私も我ながらですが、父親同様、比較的、優等生です。

ずっと、自分が自分らしくあるために、自分がいざ(必ずしも社会の規範に沿ったもの

ではない)何かをやりたい、言いたくなった時に、他人から、親から、父から、

社会から、とやかく言われなくて済むように、という動機でした。

社会の指標、ジャッジが前提なんです。

社会からとやかく言われたくないから、社会の指標で良しとされる程度を目指すという

完全にロジック破綻した存在しない何かを、私も求めてきてしまった。

 

本作を読んで、そうした自らのバックグラウンドも紐解けた気がしています。

急に怒り出した父への、楽しいその日の時間が台無しになったことについても、

少しは溜飲が下がるというものです。

父だって、害悪的な男社会の被害者だったのですから。

だからといって、父への感情的なわだかまりがなくなるものではない。

父も傷ついていたことはわかった。だけど、私も傷ついてきたのです。

父も私も、やり過ごす方法はもう充分に知っているけれど、父にはもっと自分の弱さや

傷に向き合ってもらいたいし、私も傷ついた事実を無視することはしたくありません。

 

 

自分の傷や痛みを無視することにより、感じることができなくなります。

自分の傷や痛みも感じられないのですから、他人のそれらを感じるなど、言及するまで

もなく、できるはずがありません。

他者と築いていく社会なのに、自分を蔑ろにすることで、他者をも蔑視することに

なってしまいます。

どうか、自らの傷を感じるどころか、見なかったことにし、他者のそれを軽視どころか

無かったっことにするような現社会が、人々にとって優しいものとなりますように。

少ししんどいですが、まずは自分の傷を見つめて、自分に優しくなるることから

始めませんか。

そんな呼びかけが為されている本作、ぜひ手に取ってみてください。