Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 48th Book> 乳と卵

この世に生を受けて「生まれる」とは、どういうことでしょう。

 

「乳と卵(文春文庫著:川上 未映子

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books.bunshun.jp

 

ああ、日本文学読んでる、って読みながら実感してしまうような作品。

内容やストーリーは確かに、とても現代的だし、芥川賞受賞作な上、もちろん

英訳本も出されて、ハリウッドセレブにも読まれているような作品です。

登場人物の発言や心の機微について、読者に行間を読ませる感じ。

作者と読者の距離感、読者と登場人物のそれ、登場人物同士間のそれが

しっかり保たれている感じというか。

余すところなく言語化されているのではなく、感情と見解の余地が残っている。

(めちゃくちゃ言語化、論理化されていた部分は、「わたし」こと夏子がどこかで聞いたような覚えのある、女性二人の胸や化粧についての、THEフェミニズム議論の部分のみでした。)

それって、とても日本文学ぽくないですか?

それとも私が、言語化されないと気になる性質だから、語られなかった言葉や、

無言で行われる動作に敏感すぎるだけでしょうか。

どうやって英訳したんだろう、読んでみたくなりました。

 

関西弁で、句読点も少ないため一文が長い、特徴的な文体で、夏子が垂れ流した

思考や、彼女視点での説明がそのまま語られている感じです。

緑子が書き溜めていると思われる、日々のノートに書かれた彼女の考えや感情も

挟まりながら。

不思議と全く読みにくくない。

大阪の場末のスナックで働く姉の巻子と、その思春期の娘で、この半年、全く

喋らず筆談のみの緑子が、東京に住む夏子を訪ねてきたときの、たった3日間を

つづったお話。

巻子の目的は、豊胸手術を受けるため、というのもあります。

ストーリーテラーは「わたし」である夏子ですが、主役は緑子かしら。

人体の、特に女性の身体の在り方とそれに付随する「生まれる」ということと、

それへの単純な疑問や自身の感情を描いている。

あとは、またそこから派生する、巻子との母娘関係のすれ違い。

思春期ならではの悩みや、もやつきだけれど、看過してはいけないもので、

読者(特に女性の読者になってしまうのかしら)に初心を思い出させるものです。

 

 

私自身も、日本で一度、タイでも一度、卵巣周辺の手術をしています。

お陰様と言っていいのか、未だに私の中で整理がつきませんが、まだ卵巣は、

両方とも残っています。

正直なところ、毎月の生理が煩わしくて仕方がない。

妊娠出産は今の時点では希望していないので、その気持ちは増長されます。

年齢もあるかもしれませんが、一カ月の間で快調な日は、一日あればいいほう。

排卵日前はなんだか体温が上がる気がして暑くてだるいし、排卵前後はおりものが

多くて不快。

生理の一週間前くらいから徐々に体調が下降気味、生理が来る三日前くらいには、

もう眠くて仕方なくて、忙しくても仕事が手につかない。

生理が来るまでの間、そして来てからのニ、三日目までは、軽い時は常に腹部違和感、

もしくはちょっとした腹痛、重い時は起き上がれないほどの眩暈や頭痛、腹痛。

年々、症状は重くなってきています。

もちろん主治医には相談していますが、これらのPMSや生理痛軽減のためのピルを

服用するという判断には至っておりません。

学生の頃も生理不順で飲んでいたのですが、数年前に一度、低容量ピルを試した

ところ、副作用が酷すぎて、とてもではないが、服用を続けられなかった。

何が良くて毎月毎月、股に何か挟んで、どろどろと自分から流れ出る血を感じて、

それが夜中にシーツに漏れやしないか心配して、運動や入浴を制限したり、

あの一週間弱は、毎月不快極まりないし、それに伴う少なくとも二週間程度の

身体の不調も不便で仕方がない。

症状が重い月は、卵巣両方取ってくれればよかったのに、って思ったこともある。

生まれる予定のない胎児のベッドを、自らしんどい思いをして作り出して、

使われないから毎月捨てるなんて、合理性のカケラもないです。

だからこそ、生命の神秘的に語られることもありますが、「血の穢れ」とかいって、

女性が土俵に上がれず、調理場に入れない、訳の分からない慣習も生理から来ている。

こんなの、望んでもらった機能じゃないのに。

こんな機能のせいで、”女は人間の出来損ない”扱いを受ける。

機能自体も、それに基づく社会的対応も、全くもってナンセンスにしか思えない。

毎月、下着に血がつく度に、私はあと20年前後、生理用品にいくらお金をかけて、

何回こんな不快で不便極まりない経験をするのだろうと、陰鬱な気持ちになります。

 

初潮はまだ迎えていない(緑子いわく、「勝手にくる」、正しい。笑)であろう

緑子は、生理が何なのか、それが来ることでどうなるのか、を既にちゃんと自ら

勉強していました。

母親が、場末のスナックで、せきどめシロップを飲み(やせ細っていきながら)

自らを奮い立たせて働いているのを見ています。

母娘ふたり、「食べて行かなあかんねんから」

緑子は、止めることのできない生理が来て、そもそも受精ができてしまうと、

またひとり、食べて、稼いで、考えて、、生きていかないといけない身体が

生まれてしまう、それが恐ろしい、と。

薬物に手を出してまで、自分に鞭打って生きていかないといけない、

「食べていかなあかん」人間が増えることが、絶望的に思える、と。

巻子も緑子も、自分の責任で生まれてきたのではないのに、生きないといけない。

 

結局、私がいま出産を望まないのも、ここに帰結するからです。

出産したら、その子が生きなければいけない状況に陥った責任は、私にあるから。

私が生まれてきたのは私の責任ではないけれど、その子が生まれてくるのは私の責任。

一人の人間の「(人)生」が自分にかかるなんて、正直、私には抱えきれないから。

巻子の豊胸手術の話は、緑子のそんな思春期の状態を更に不安定にさせました。

わたしが乳を吸ってしぼんだというなら、わたしを生まなければよかっただろ、と。

私自身も、昔、両親と喧嘩すると、よく「生んでなんて頼んでない」と言っていた。

母と数カ月前、久々に話した時に、私の将来の話になって、全く感情的になっては

いなかったものの、つい普段の考えが、口をついて出てしまった。

「子供を産むっていうのは、親のエゴなんだから。」

私の本音だけれど、一人娘の私から母に言うには、あの喧嘩の時の言葉よりずっと

酷かっただろうか、と未だに後悔しています。

 

 

文学としてもとても秀逸ですし、内容もぜひ、特に男性には読んでほしい。

生を受けて、生まれたこの身体が、何を意味するのか、考えさせられます。