Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 55th Book> 夏物語

生まれてきたこと。生を授けるということ。性欲と生殖。

(女として)生を授けて生きていくこと、または授けずに生きていくこと。

生まれてきて、死んでいくこと。

「乳と卵」の続編ともいえる本作、life-changingな一作かもしれない。

必読です。

 

「夏物語(文春文庫著:川上 未映子

f:id:kanaebookjournal:20211206161230j:plain

books.bunshun.jp

 

「乳と卵」では、主人公、夏子の東京の家に、年の離れた姉の巻子、

その娘の緑子が大阪から訪ねてきた数日の話でした。

巻子の豊胸手術をめぐっての各登場人物の思考や、初潮前の緑子の

反出生主義的つぶやきが、controversialな作品でした。

それに伴う、巻子と緑子の母娘(家族)関係も心に響くものがありました。

本作でも、第一部として収録されています。

本作は、それから8年後以降の話で、夏子が小説家としてデビューを果たし、

AID(非配偶者間人工授精)の実行について悩みあぐねるストーリーが

主軸になっています。

夏子の担当編集者の仙川さんは、裕福な家庭に生まれ育ち、未婚のまま、

自然に生きていたら、子どもが生まれてこなかった、それに後悔のない人。

売れっ子小説家の遊佐は、男は最終的に必要なかった、という結論に至った

シングルマザー。

かつてのバイト仲間の紺野さんは、鬱病の旦那と、旦那実家に振り回されて、

ただの「まんこつき労働力」となっていた自分が嫌悪する母親と、同じ道を

歩むことになり、娘もいずれ自分を嫌いになるだろう、と自嘲的。

AIDで生まれたことを知り、AIDについての周知活動を行っている逢沢さんは、

未だに自分の出自が招いた環境と自身の心境に混乱し、苦しんでいる。

逢沢の恋人である善百合子も、AIDで出生しており、血のつながりのない

育ての父親やその周囲に、幾度となくレイプされた過去を持っている。

こういった登場人物たちと夏子が築いていく人間関係と、

大阪の港町から夜逃げして、時に脅威を感じていた父がどこかへ消えた後、

コミばあと、母親と、巻子と、その日食べるものもないながらも、

それなりに楽しく、女4人で暮らしていた、幼少期からの思い出の回想などで

物語が織りなされています。

 

 

自身が無知で考えたこともなかったこともたくさんあって、

ほんの数ページ読んで休憩すると、頭がoverflowすることが度々ありました。

ほんの数ページなのに、その度に自分がemotionalになっていることが多くて、

読むのにひとく時間がかかってしまった。

 

 

私自身は、子どもを積極的に欲しいと思ったことがない(と思っていた)ので、

むしろ私自身も反出生主義的な部分は大いにあると自覚しているつもりで、

そういうスタンスで読み進めていたのです。

でも、なぜか、各人、全く違う考えの持ち主なのに、全ての登場人物に

共感し、彼らの言動に大きく頷いている自分がいました。

AIDを望む主人公の夏子なんて、私と対極のところにいたはずなのに、

私の知らない視点、想いがつづられていて、どうしてもそれに対して、

私自身が気持ちを重ね合わせると、嫌悪感はおろか、なぜかすんなりと

馴染んでいく感覚すら得てしまった。

想像以上に、出生や生殖、それに伴う家族関係について、私は無知で、

考えることを怠ってきたと喚起されました。

またも芸がないけど、心を打たれた言葉、場面をいくつか抜粋させてください。

 

 

「まんこつき労働力」

紺野さんから出たパワーワード

両親の意図はわかりませんが、少なくとも私は、まんこつき労働力に

なるようには育てられませんでした。

私のことを、娘として溺愛しながらも、息子として育てられたような気が

することが時々あります、特に父から。

社会がまだ性役割を求めてくる社会であるからこそ、

そうであれば、男として生まれたかったよ、と思うことが度々あるのは、

そういった育ち方をしたかもしれませんが、これについてはまだ、

自分の中でも整理がつきません。

ただ、まんこつき労働力にならずに済んでいることは、感謝している。

 

「親切さに限らず、だいたいのことってほどほどの濃度じゃないと人にうまく伝わらないようになっているから。共感ってそういうものです。」

共感力と同調力の話にもつながる気がしますが...

繊細であればあるほど、感情や感覚の濃度が濃くなる気がしています。

繊細な人ほど、色々と伝わりにくいのだろう、とはっとさせられた言葉でした。

 

女にとって何が大事か、男と分かり合えないことが何か、という会話において

「女でいることが、どれくらい痛いかだよ」

(中略)

「女がもう子どもを産まなくなって、あるいはそういうのが女の体と切り離される技術ができたらさ、男の女がくっついて家だのなんだのやってたのって、人類のある期間における単なる流行だったってことになるんじゃないの、いずれ」

(中略)

「子どもをつくるのに男の性欲にかかわる必要なんかない。もちろん女の性欲も必要ない。抱きあう必要もない。必要なのはわたしらの意志だけ。女の意志だけだ。女が赤ん坊を、抱きしめたいと思うかどうか、どんなことがあっても一緒に生きていきたいと覚悟を決められるか、それだけだ。いい時代になった」

自らシングルマザーの道を選んだ遊佐の発言です。

男女の苦しみは、社会構造が造り出している。

その家父長制的な社会構造自体は、基本的に男性が構築している。

そこまでは、これまで学んできたことの復習です。

でも、生殖行為や子どもを授かる、ということが、これまで学んできた

フェミニズムに関して、切っても切り離せない話題であることは深く認識

しつつも、自分が妊娠出産などに興味を持ってこなかったからこそ、

どうしても腹落ちしていない部分が多々あったことを再認識。

私自身が男性との婚姻関係や共同生活無しに子どもを欲しい、

と夏子のようにもし仮に思うことがあれば、それは男がいなくても、

少なくとも技術的にできることなのだ、既に夫婦間で行われている

不妊治療と技術的には同様なのだ、と気づかされて開眼です。

 

そう、ふたりが死んでから、私はふたりを見たことがないのだった。会えたことがなかった。そう思うとそれはすごく間違ったことのように感じられて、すごく不当なことであるような気がしはじめた。たった死んだくらいのことで、わたしはコミばあにも母にも、あれからもう、二十年以上も会っていないし、話してもいないのだ。(中略)たった死んだくらいのことで!

昔はよく、死ぬことについてよく考えていました。

7歳くらいのときに、大好きだった祖母が亡くなってしばらくして、

いつか自分も死ぬことに気付いて、大泣きした夜から、死ぬことについて

よく考えた。

インターネットが普及してから、「死 とは」「死生観」とかよく調べていました。

いまは、何だか生きることに忙しくて、考えることがなくなってしまった。

生きているから、生きるのに集中しているのはいいことかもしれないけど、

生があるから死があるということを鑑みれば、もう一度、死について思考の沼に

浸ってもいいかもしれない、と思っています。

ちょっと生き急いでいる、生き急がされている感もあるし。

家族や友人、私の大切な人たちも、たった死んだくらいのことで、

いずれ会えなくなってしまうのだろうか。

それなら、私が「たった死ん」でしまってもいいかもしれない...

なんて、死についてまた深く考えてみたら、思うのでしょうか。

 

「どうしてみんな、子どもを産むことができるんだろうって考えているだけなの。どうしてこんな暴力的なことを、みんな笑顔でつづけることができるんだろうって。生まれてきたいなんて一度も思ったこともない存在を、こんな途方もないことに、自分の思いだけで引きずりこむことができるのか、わたしはそれがわからないだけなんだよ」

夏子の、AIDで子供を産もうとする方法が不自然だという自覚はある、

という話から方法は大した問題ではない、何をしようとしているか自体に

ついて考えているのか、AIDだろうと、どういう出自であろうと、生まれて

くれば一緒だ、という、善百合子の言葉です。

「一度生まれたら、生まれなかったことにはできないのにね」と。

普通にサラリーマンをするにはちょっと繊細過ぎるかな、と我ながら、

今も思うことが時々ありますが、若い頃のvulnerablityはなかなかでした。

学校や家庭内で起こる日々の小さなことが、心に深くささって、それについて

逡巡してしまう性格なので、辛気臭い、心身ともに脆弱な子でした。

一人っ子だし、自分と両親が衝突することがあれば、両親自身に向かって

「産んでなんて頼んでない。生まれてきたくて生まれてきたわけじゃない」

と、小学生の頃から、何度か泣きながら言った記憶はあります。

今だって、幼い頃の私が心の中にいて、その気持ちは多少持ち続けている。

Life is beautiful!!  I am so excited to be alive everyday!!

とか思えること、一生ない気がするし。笑

でも、生まれてきたから、生きなきゃいけないし。

でも、生きるなら、辛いのは嫌だし。

でも、辛いことや苦しいことは絶対起こるし。

でも、その辛いことや苦しいことって、私が生まれてきたからだし。

でも、生まれてきたのって、私のせいじゃないし。

って、「でも」の無限ループになる。

breakthroughすればいい話だけど、そもそも生まれてこなければ、

辛いことも苦しいこともいらないし、自助努力のbreakthroughも不要でしょ?

という、善百合子のスタンスは、心の底からわかる。

それなりに恵まれた環境で育ってきた私が、それを心の底から共感してしまう

事実に、申し訳なさ、悲しさ、切なさ、そんな感情がないまぜになるのが

善百合子との会話の場面では幾度もありました。

「生まれてきたことを肯定したら、わたしはもう一日も、生きてはいけないから」

ここまで強い想いはないけれど、涙せずにはいられない言葉でした。

 

 

夏子が、シングルでパートナーもおらず、子どもを産みたいのは

「子どもに会いたい」からだと言います。

前にも書きましたが、仮に出産したら自分の子どもが生きなければならない、

という責任を、私は抱えられる自信がない。

だけど、自分の子どもに会ってみたいか、と聞かれれば、

会ってみたいかもしれない、と初めて本作で気づきました。

実際に責任を持つことや自信がないことと、欲望は別物だから。

ただ単純に、自分の子どもという、自分ではない他者だけど、自分の体から

出てきた人間に、会えるなら会ってみたいという、その欲望自体は、

否定できない。

そのくらい、mind-blowingで、自身の無自覚の欲望や、人生観や死生観に、

影響を与えるくらい、センセーショナルで深遠な作品です。