Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 49th Book> 地球星人

大好き♥!とはならない作品だけれど、友人知人の皆さんに是非とも

読んでみてほしい、そして感想を聞きたい本、ナンバー1かもしれません。

 

「地球星人新潮文庫著:村田 沙耶香

f:id:kanaebookjournal:20210723211414j:plain

www.shinchosha.co.jp

 

村田氏の作品は、「丸の内魔法少女ミラクリーナ」「授乳」「マウス」

読んできました。

芥川賞受賞作の「コンビニ人間」も読まなければ。

本作は、読者を引き込む、読ませるのも上手い作品でもあります。

と同時に、何とも現代社会へ挑戦的。

「丸の内魔法少女ミラクリーナ」のときにも感じたのですが、村田氏の想像力、

発想力に瞠目せずにはいられない。

我々が、当然の真理だと思っているもの、覆せない事実、真実だと思い込んでいる

物事に対して、鋭く切り込んできます。

恋愛って?生殖って?人間として、いきものとして生きるって?

エンディングが、個人的に衝撃を受けました。

でも生物としての種を絶やさないという観点からは、腑に落ちる。

あまりの吃驚と、膝を叩くほどの合点具合という、めったに同時進行で感じる

ことのない心地が一度に襲ってきて、何とも言えない(決してネガティブではない)

不思議な読後感でした。

就寝前に読み終わったからか、夢に出てきた。笑

 

奈月と由宇は、小学生の頃、お盆に長野の山奥、秋級の祖父母の家で毎年再会し、

仲の良いいとこ同士でした。

家族からも世間からも、何となく浮いていることを幼心に自認している二人は、

ある夏、密かに結婚の誓いを立てます。

その中には「なにがあってもいきのびること」という約束もありました。

ふたりが行ったあることがきっかけで、親族の大人たちの逆鱗に触れ、

奈月と由宇がそれ以降、お盆に再会することはありませんでした。

家族から監視し続けられつつも、大人になった奈月は、監視網から逃れるためにも

ネットで出会った智臣と結婚しました。

その婚姻関係は、身体的接触は一切ないもの。

幼い頃から、自分は魔法少女であり宇宙人であると思っている奈月は、そのことも

夫に打ち明けており、彼も社会に馴染めずに育ってきて、いたく共感しています。

地球星人の住む「人間工場」では、労働し、新しい命を製造しなければならない。

その「工場」の部品になりきれないこの夫婦は、智臣の七つ目の会社の解雇が

きっかけで、秋級を訪ねることになりました。

そこで居候しており、もうほぼ地球星人と化した由宇と、奈月は子どものころ

以来の再会を果たし、物語が進んでいきます。

 

 

自分が宇宙人だと思うほどの度合いの違和感を感じることは、幸い(?)

ありませんでしたが、何度もこれまでも書いてきているように、自分が

明らかに”マイノリティ”だと感じる側面は多々ありました。

比較的幼い頃から、実体のない権力や権威に惹かれることはなく、むしろ、

嫌悪感のほうが大きかったかもしれません。

あの実体のなさが、私には不思議だったし、気色悪かったんです。

あまりに感覚的すぎる権力や権威が、色々なことを支配していて、誰もそれを

疑わない状態が、理解できなかった。

”何となく”が常態化して、常識化している感じが時々怖かったし、その違和感を

共有できる人がいないことも、心細かったです。

(今では、その”何となく”も構造的に作られてきたものが多数であることを、

フェミニズム含め、少しずつ勉強してわかるようになってきたつもりですが。)

それでも、その実体のない権力や権威があれば、もしくは、それに阿ることが

できれば、社会に「所属」できると思っていた。

「所属感」への憧憬の念が、常にありました。

そういう点では「工場」から洗脳されて、地球星人になって楽になりたがる

奈月と一緒です。

嫌悪しているものが一番手っ取り早い手段で、欲しいものへ導いてくれる。

そのジレンマに常々、板挟みになっていてしんどかったし、未だにそれに

悩まされることが時々あるほど、「工場」と私という「個」の間で揺さぶられます。

 

 

本作は、社会が変わらない「工場」のままだから、人間側が変わろうとした、

というお話でした。

人間という生き物として、もっとも合理的で幸せな形に進化した、というか。

でも私はどうしても、理想論者であることをやめられない。

「工場」が「人間の共同体」へと変化してほしいという願いを捨てきれません。

私の子宮が、人間製造機だという前提にならない社会。

私の価値が、稼いで所持する貨幣で決まらない社会。

「なにがあってもいきのびること」が生きる目標にならない社会。

本当に「工場」になりつつある現社会へ投じられた、センセーショナルな一作です。

<The 48th Book> 乳と卵

この世に生を受けて「生まれる」とは、どういうことでしょう。

 

「乳と卵(文春文庫著:川上 未映子

f:id:kanaebookjournal:20210717152640j:plain

books.bunshun.jp

 

ああ、日本文学読んでる、って読みながら実感してしまうような作品。

内容やストーリーは確かに、とても現代的だし、芥川賞受賞作な上、もちろん

英訳本も出されて、ハリウッドセレブにも読まれているような作品です。

登場人物の発言や心の機微について、読者に行間を読ませる感じ。

作者と読者の距離感、読者と登場人物のそれ、登場人物同士間のそれが

しっかり保たれている感じというか。

余すところなく言語化されているのではなく、感情と見解の余地が残っている。

(めちゃくちゃ言語化、論理化されていた部分は、「わたし」こと夏子がどこかで聞いたような覚えのある、女性二人の胸や化粧についての、THEフェミニズム議論の部分のみでした。)

それって、とても日本文学ぽくないですか?

それとも私が、言語化されないと気になる性質だから、語られなかった言葉や、

無言で行われる動作に敏感すぎるだけでしょうか。

どうやって英訳したんだろう、読んでみたくなりました。

 

関西弁で、句読点も少ないため一文が長い、特徴的な文体で、夏子が垂れ流した

思考や、彼女視点での説明がそのまま語られている感じです。

緑子が書き溜めていると思われる、日々のノートに書かれた彼女の考えや感情も

挟まりながら。

不思議と全く読みにくくない。

大阪の場末のスナックで働く姉の巻子と、その思春期の娘で、この半年、全く

喋らず筆談のみの緑子が、東京に住む夏子を訪ねてきたときの、たった3日間を

つづったお話。

巻子の目的は、豊胸手術を受けるため、というのもあります。

ストーリーテラーは「わたし」である夏子ですが、主役は緑子かしら。

人体の、特に女性の身体の在り方とそれに付随する「生まれる」ということと、

それへの単純な疑問や自身の感情を描いている。

あとは、またそこから派生する、巻子との母娘関係のすれ違い。

思春期ならではの悩みや、もやつきだけれど、看過してはいけないもので、

読者(特に女性の読者になってしまうのかしら)に初心を思い出させるものです。

 

 

私自身も、日本で一度、タイでも一度、卵巣周辺の手術をしています。

お陰様と言っていいのか、未だに私の中で整理がつきませんが、まだ卵巣は、

両方とも残っています。

正直なところ、毎月の生理が煩わしくて仕方がない。

妊娠出産は今の時点では希望していないので、その気持ちは増長されます。

年齢もあるかもしれませんが、一カ月の間で快調な日は、一日あればいいほう。

排卵日前はなんだか体温が上がる気がして暑くてだるいし、排卵前後はおりものが

多くて不快。

生理の一週間前くらいから徐々に体調が下降気味、生理が来る三日前くらいには、

もう眠くて仕方なくて、忙しくても仕事が手につかない。

生理が来るまでの間、そして来てからのニ、三日目までは、軽い時は常に腹部違和感、

もしくはちょっとした腹痛、重い時は起き上がれないほどの眩暈や頭痛、腹痛。

年々、症状は重くなってきています。

もちろん主治医には相談していますが、これらのPMSや生理痛軽減のためのピルを

服用するという判断には至っておりません。

学生の頃も生理不順で飲んでいたのですが、数年前に一度、低容量ピルを試した

ところ、副作用が酷すぎて、とてもではないが、服用を続けられなかった。

何が良くて毎月毎月、股に何か挟んで、どろどろと自分から流れ出る血を感じて、

それが夜中にシーツに漏れやしないか心配して、運動や入浴を制限したり、

あの一週間弱は、毎月不快極まりないし、それに伴う少なくとも二週間程度の

身体の不調も不便で仕方がない。

症状が重い月は、卵巣両方取ってくれればよかったのに、って思ったこともある。

生まれる予定のない胎児のベッドを、自らしんどい思いをして作り出して、

使われないから毎月捨てるなんて、合理性のカケラもないです。

だからこそ、生命の神秘的に語られることもありますが、「血の穢れ」とかいって、

女性が土俵に上がれず、調理場に入れない、訳の分からない慣習も生理から来ている。

こんなの、望んでもらった機能じゃないのに。

こんな機能のせいで、”女は人間の出来損ない”扱いを受ける。

機能自体も、それに基づく社会的対応も、全くもってナンセンスにしか思えない。

毎月、下着に血がつく度に、私はあと20年前後、生理用品にいくらお金をかけて、

何回こんな不快で不便極まりない経験をするのだろうと、陰鬱な気持ちになります。

 

初潮はまだ迎えていない(緑子いわく、「勝手にくる」、正しい。笑)であろう

緑子は、生理が何なのか、それが来ることでどうなるのか、を既にちゃんと自ら

勉強していました。

母親が、場末のスナックで、せきどめシロップを飲み(やせ細っていきながら)

自らを奮い立たせて働いているのを見ています。

母娘ふたり、「食べて行かなあかんねんから」

緑子は、止めることのできない生理が来て、そもそも受精ができてしまうと、

またひとり、食べて、稼いで、考えて、、生きていかないといけない身体が

生まれてしまう、それが恐ろしい、と。

薬物に手を出してまで、自分に鞭打って生きていかないといけない、

「食べていかなあかん」人間が増えることが、絶望的に思える、と。

巻子も緑子も、自分の責任で生まれてきたのではないのに、生きないといけない。

 

結局、私がいま出産を望まないのも、ここに帰結するからです。

出産したら、その子が生きなければいけない状況に陥った責任は、私にあるから。

私が生まれてきたのは私の責任ではないけれど、その子が生まれてくるのは私の責任。

一人の人間の「(人)生」が自分にかかるなんて、正直、私には抱えきれないから。

巻子の豊胸手術の話は、緑子のそんな思春期の状態を更に不安定にさせました。

わたしが乳を吸ってしぼんだというなら、わたしを生まなければよかっただろ、と。

私自身も、昔、両親と喧嘩すると、よく「生んでなんて頼んでない」と言っていた。

母と数カ月前、久々に話した時に、私の将来の話になって、全く感情的になっては

いなかったものの、つい普段の考えが、口をついて出てしまった。

「子供を産むっていうのは、親のエゴなんだから。」

私の本音だけれど、一人娘の私から母に言うには、あの喧嘩の時の言葉よりずっと

酷かっただろうか、と未だに後悔しています。

 

 

文学としてもとても秀逸ですし、内容もぜひ、特に男性には読んでほしい。

生を受けて、生まれたこの身体が、何を意味するのか、考えさせられます。

 

<The 47th Book> ボージャングルを待ちながら

珍しくラブストーリーを読んでみました。

コミカルで軽いタッチなのに、何とも切ないフランスの愛の物語です。

 

ボージャングルを待ちながら集英社

著:オリヴィエ・ブルドー  訳:金子 ゆき子

f:id:kanaebookjournal:20210711191336j:plain

www.bungei.shueisha.co.jp

 

息子の「ぼく」が語る、両親のラブストーリーです。

ママを毎日違う名前で呼ぶ食わせ者のパパと、パパの作り話が大好きな

(というより信じ込んでいて現実を見ない)ママ。

ママは「ぼく」に学校であったその日の出来事を、悲しかったりつまらない現実より

「ぼく」なりの面白い(嘘の)ストーリーで聞かせるのをせがむほど。

そんな「ぼく」は小学校を自主退学しています。

アネハヅルのマドモアゼル・ツケタシも家族の一員です。

パパのお友達の元老院議員の「クズ」もしょっちゅう一家の輪の中にいます。

時には自宅で、時にはスペインにある別邸で、あらゆるお客を招いて、

朝から晩までカクテル片手に、パーティー三昧の一家。

ママのお気に入りの一曲は、ニーナ・シモンの「Mr. Borjangles」です。

如何なる時もこの一曲と、曲の中にでてくるボージャングルは常にママと共に。

夜通し踊る楽しい日々も束の間、ある日を境に、家族を悲しい末路へ導いていきます。

ママの狂気に満ちた愛と、いつか幸せな日々に終わりが来ると知っていながら、

ママと会った瞬間から惹かれ続けるパパ。

全てが嘘のようなフワフワした現実。

楽しさの中に、常に切なさと悲しさが同居している、そんなラブストーリーと

なっています。

 

 

私は映画の作品もそうなのですが、精神的病気に係る作品が好きです。

本作で私が魅了されたのは、パパが、ママの狂気をわかっていて、むしろ

そこに惹かれたということ。

大抵は煙たがられるであろう、そんな特徴に魅力を感じたからこそ始まる

恋愛物語だったことです。

(精神の病を軽視しているつもりは全くないのです。

実際に病名や症状は違えど、苦しんでいる人は知っています。

逆にそれが魅力になり得るよ!とか言ったら、マイクロアグレッションでしか

ないのはそうで、すごく言語化が難しいのですが、、、)

それが病であろうとなかろうと、その人のある種、突出した(そして大衆から歓迎

されない)特徴に魅力を感じる人がいるということが前提になっていることに、

何となく励まされてしまいました。

 

 

毎日パーティー三昧で、朝はマドモアゼルがぐでんぐでんの来客を起こして回る、

朝からサングラスをかけて頭痛を抱えながら迎え酒を買いに行く、そんな親が

いる一家なんて、それだけでクレイジーすぎるといえばそうなのですが、

ああ、こういう生き方もありだよね。そんな人もいるよね。

って、(少なくとも私は)自然と受け入れられるくらいに、それが当然のもの

として描かれています。

視点が息子の「ぼく」だからなのかもしれません。

そう考えると、常識的にはちょっと痛ましくもありますが。

なぜなら、ネタバレになるので書きませんが、ストーリー自体は、現実であれば

とんだ悲劇でしかないから。

それでも読了して心が軽くなったのは、何が起こっても常に突飛で愉快なユーモアな

日々を送ろうとしていたからなのかしら。

”現実を直視しない”生き方をしている人を、私は直接的に知りません。

ですが、現実を直視してばかり、それを求められてばかりの今の世の中です。

仮に私がママみたいな人物に出会ったら、私も惹かれてしまうかもしれない。

それか、すごく嫉妬してしまうのかもしれない。

(ああ、これもマイクロアグレッションになってしまうだろうか。。)

空想の中で生き続けることを選ぶ、という無責任甚だしい選択に、私は拍手喝采

したい思いでもありました。

 

 

本作の中心ともなっているニーナ・シモンの「Mr. Bojangles」聴いてみました。

open.spotify.com

もう、この小説にぴったりの、なんとなく寂寥感を感じさせる、だけど全く

暗さのない曲調と歌詞でした。

 

 

一家に限らず、登場人物みんなが、互いに寛容で、愛に満ちていました。

とんでもない悲劇なのに、それに涙を流しながらも、なぜだか顔には笑みが

浮かんでしまう作風になっているのでしょう。

空想の、夢の世界で生き抜こうとする。

だけど、満ち満ちて止まない愛は、空想の世界にも現実世界にもまたいで存在します。

そこに「ぼく」の両親の苦しみがあったのでしょうか。

おかしいのに、ほろ苦い、そんなたくさんの感情を体感させてくれる、

純愛物語でした。

<The 46th Book> 踊る彼女のシルエット

30代女性が必ず悩みもだえ、葛藤するであろう自分の生き方についての数々の議題を、

ぎゅっと凝縮して、女性の爽快な友情の物語にしてくれています。

 

「踊る彼女のシルエット双葉文庫

著:柚木 麻子

f:id:kanaebookjournal:20210702215801j:plain

honto.jp

 

またも柚木氏の作品。

「BUTTTER」「その手をにぎりたい」「ナイルパーチの女子会」に続く4作品目。

2021年4月が初版の最新作のようです。

つい手に取ってしまいました。

柚木氏の作品はとても好き。

 

現代を生きる女性の考えや感情を、ここまで豊かに言語化してくれているとは。

 

本作は、これまで読んできた作品に比べて、物語自体は単調に進みます。

とある商店街の義母が運営する喫茶店「ミツ」で、妊活をしながら働く35歳の佐知子。

学生来の佐知子の親友で、美貌の持ち主の実花は、かつて夢だったアイドルになる

ことはとうに諦め、「デートクレンジング」というアイドルグループのマネージャー

として、メンバーが小学生の頃から10年にわたり働いていましたが、グループ解散と

なったことをきっかけに、婚活に精を出し始めます。

「私には時間がない」と、近所の奈美枝さんの形見として寄贈された鳩時計に、

まるで追い立てられているかのように。

そこから少しずつ、ずれていく二人の友情の歯車。

切なく歯がゆい場面もありつつ、その登場人物各人の想いが身に染みます。

物語自体は、他の柚木氏の作品に比べて、アップダウン少なめで淡々と進むのに、

どうしてか涙ぐんでしまう局面がちらほら。

女性はどの世代でも、同世代であれば、男女問わず、共感しやすい作品かと。

 

 

佐知子の視点でストーリーは進むのですが、主役はむしろ実花じゃないかな。

私が実花に共感してしまいやすかっただけかしら。

 

 

私は考え方が非常に古いのか、

芸能人たるもの、人並外れた美貌もしくは曲芸なしに、人前に出て稼ぐな!

というような凝り固まった理想があります。

本作を読んで思ったのですが、これは私がオタクの対極にいるからなのかも。

ないんですよ、ハマれる物事も人も。

もう世が屈服するほどの造形美か力量で、圧倒するくらいでないと、私には良さを

見出せる人たちがいないんです。

もうネズミ算的にアイドルグループにしろ、タレントにしろ、俳優にしろ、

たくさん出てきますけど、その辺を歩いているような人、路上パフォーマンスと

(むしろ路上パフォーマンスのほうが感動したりするけど)大して変わらない人

とか、なんでメディアに出てきて騒がれるのか、全くわからないんです。

自然と、10代半ばから日本のメディアにはあまり触れなくなり、完全に

テレビ離れ化してしまいました。

これだけ「推し」が騒がれていて、もはや日本文化として当然のものとして浸透

しているのに、私には推しがない、いない。

映画俳優のDenzel Washingtonくらいかな、唯一推しといえそうなのは。笑

とはいえ、別に毎日、彼の映画に触れたい、その時間を作りたいとか全くない。

何にも詳しくないし、何事に対しても熱量がそこまでない。

それが最近の新たなコンプレックスとなっているわけですが。

かつて亜流だったオタクが主流になり、無趣味で非オタな私が亜流となってしまった。 

 

 

そしてそんな熱狂的なオタクに支えられているであろうアイドルたち。

本当に恋愛禁止であったりすることが多いそうで、人権無いなあ、とか思ったり

するわけですが。

本作に出てくる「デートクレンジング」というアイドルの解散のきっかけも

たまたま恋愛スキャンダルでした。

そもそも実花が造り出そうとしていたアイドル像は通例のものと異なり、

恋愛禁止でもなく媚びない疑似彼女的側面を持たないアイドルグループでした。

実花は、女性らしい女性が嫌いな父親の元で、男兄弟と父親が喜ぶような

言動をしながら育ちました。

女性らしい自分の母親に、素直になれない少女時代を過ごしてきています。

男らしく振舞うことが上位であると潜在的に認識しているからこその、

その振る舞いなのに、自分の担当するアイドルグループには女の味方であること、

男に媚びない、期待に応えなくてもいいと伝え続ける。

「日本ではどんなに演技が上手くて美しい女優でも、理想の恋人やお嫁さん像から外れたら、トップには立てない。わかるでしょ?」

親友でありながら、実花の一番のオタクである佐知子が、婚活に必死になる

実花を何とか彼女らしさを取り戻してほしいと、婚活会場まで駆けつけて、

話しに行った場面で、実花が佐知子に放った言葉の一部です。

(私、決してオタクになれないな、とも思った。笑)

恋愛スキャンダルで解散の運びとなったからには、結局、アイドルたるもの

疑似彼女的側面は持ち合わせるものなのだ、その風潮を変えることができず

無念で仕方がない実花は、失意のうちに、自分が男性の期待に応える婚活を

始めることになったわけです。

 

 

この矛盾、痛いほど、私は手に取るようにわかります。

ここ1年少しで、フェミニズムに関して読み漁るとまでは言いませんが、

何冊も目を通してきて、勉強してきたわけです。

ですが、学べば学ぶほど、どうしてもこの矛盾の板挟みになる感覚があります。

以前も書きましたが、私は人気だとかモテだとかに異様なコンプレックスが

あります。

そして、それをうまく得られない反発心もあります。

その二つが未だに拮抗している。

自分らしさの中に、女性らしさ(媚びられる、愛嬌がある)があまりないって、

それだけでとても欠陥があるように思えました。

”女性らしさ”が少ないからと言って、ゼロではありません。

人より(他の女性より)少しだけ”男性らしさ”が多かったのかもしれない。

別に、だからといって、強いわけでも、可愛いものよりかっこいいものが

好きなわけでもないのに。

それでも、女性らしさが少ないから、男性的な言動に寄せていって、そちらに

取り入ろうとする自分がいたことに、本作を読んで気付きました。

男性優位社会なのだから、男性側に自分を寄せていって、女性を見下す、

そんなミソジニー的思考が、私の中にまだ強く根付いてしまっています。

そこまでしても、どうしても、得られたことが未だかつてない、所属感

というものを得たかった。

だけど結局、何が本当の自分らしさなのかも見失う羽目になってしまいました。

その自分らしさを救うために、私はここまでフェミニズムに傾倒していた、

ということを気付かせてくれた本作でした。

 

 

あと、女性の友情も、アップデートしていけるという希望もこめられた一作。

男性は、結婚しようが子供ができようが、社会生活が変わらないけれど、

今の日本社会では、女性はどうしてもそうはいきません。

結婚したり、子どものいる女友達とは、私もどうしても疎遠になってしまった。

自然な流れだと思い込んでいるし、そんなもんだ、と言われればそれまで

だけれど、どうしてもそれをそうだと言いたくない。

佐知子の妊娠が発覚した時、佐知子の夫が、「見えない差別」と解釈して

説明していた言葉です。

(ああ、なんてデキた夫だろう。私も仮に結婚するならこんな人がいい。)

先日、ご飯屋さんでで、私のかつての親友とのエピソードを話した時に、

(詳しくはこちら。笑)

kanaebookjournal.hatenablog.com

「切ないね。だけど大人になっていく、友達ってそんなもんだよ。」

というような感想と助言をもらったのですが、

そうなんだけど、そうじゃないんだよう!!!

って私が思っていたことも、この本がうまく言葉にしてくれた気がします。

 

 

こんなにも多岐にわたるトピックが、可愛くもあり、リアルでもあり、

爽やかでもあり、示唆に富んでいる、素敵な物語でした。

 

<The 45th Book> 説教したがる男たち

男性が何かを話しているときに、どうしても一歩引いてしまう自分がいます。

主張が強い、と言われがちなこの私ですら。

私の発言には価値がない、と潜在的な無意識下で思っていることがあり、

私自身が、自分の考えや発言を軽視している事実に傷ついています。

 

「説教したがる男たち(左右社

著:レベッカ・ソルニット  訳:ハーン小路恭子

f:id:kanaebookjournal:20210620165613j:plain

sayusha.com

 

フェミニズム的教科書として話題になった本書。

ソルニットが書いた著作を、そうと知らず、最近出た重要な作品として、

ソルニット自身にとある男が話しかけた、というエピソードはあまりにも有名です。

著者の意図していなかったそうですが、"Mansplaining(マンスプレイニング)"という

言葉が生まれたのも本書がきっかけです。

 

読んでよかったか、と聞かれれば、もちろん読んでよかったですが、

読みやすかったか、と聞かれると、決して二つ返事でそうだ、とは言えません。

エッセイ集であることは随所から読み取れるのですが、主として米国での事件や、

世界情勢や経済、文学、アート等に造詣が深ければ、より読みやすいけれども、

何より、「言葉」の意味に広がりと深さがあり、簡単に読み進められるとは言い難い。

エッセイというには、少し難しいよ~と、泣き言を言いそうになりながらも、

あの「マンスプ」の語源となった作品なので、読まないわけにはいきません。

ですが、自身の知識の不足と、思慮の浅さに、嫌でも気づかされてしまいました。

アンテナが全く張れていないな、勉強が全く足りないな、と少ししゅんとしました。

あと何度か読み返さないと、ちゃんとは理解できない内容が多かったように

思えます。

 

 

さて、少なくとも私にはレベルの高かった本書ですが、心に残った一部があるので

紹介しようと思います。

「6  ウルフの闇  説明しがたいものを受けれいること」という章の中のものです。

またも芸がない私は、その一部をそのまま引用します。

 

「往々にして自分のことすらよくわからないぐらいだから、現代とは性質もそれがどう反映されるかも違う時代に死んだ誰かがどう感じるかなんて、もってのほかだろう。空白を埋めることは、完全に分かっているわけでは無いという事実を、知っているといういつわりの感覚によって置き換えることなのだ。」

 

ソンタグもまた、洪水のようにあふれるイメージを浴びて理解していると思いこみ、苦痛に対して無感覚になってしまうのではなく、闇や未知のものや知ることの不可能性を受け入れるべきだと訴えている。知識は感覚を目覚めさせもするが、同時に麻痺させることもある。だが彼女は、その矛盾が解消できるとは思わないようだ。ソンタグは私たちが戦争の惨事を写した写真を眺め続けることを容認する。写し出された対象の経験は知りえないものだと、見る者に認識させる。そして著者自身も認識しているのだ。完全に理解はできなくても、関心を持つことはありえると。」

 

ヴァージニア・ウルフという英国のモダニズム文学作家の言葉や著述を、

スーザン・ソンタグという米国の作家やその他作家などの引用を元に、ウルフの言葉を

逡巡している内容となっています。(いずれの作家もいつか必ず読まなければ...!!)

フェミニズムよりも、自己探求、アイデンティティについての思索が語られています。

 無知の知、とよく言いますが、それすらも少しチープでイージーな言葉に感じられて

しまうほど、知識、感覚、感情の関連性が如実に語られていると思いませんか。

 

私は、何でもかんでもすぐに言語化しようとしてしまいます。

たとえば、これを書いている今の今、最近、私生活で起こったとある出来事にとても

傷ついていて落ち込んでいるのですが、なぜ私自身が傷つき、落ち込んでいるのか、

その感情の起因となった状況や人々の言動や感情についても、その前後の時の流れも

含めて想像し、それを全て言葉で解釈して自分に落とし込もうとします。

ひょっとしたら、相手だって何か私から不快な想いをしたから、私が傷つくようなこと

になったのかもしれないのに、自分にとって適当な解答を探そうとする。

相手が私の何かが原因で不快で苦痛な想いをしているかもしれない、という事実にまた

私は傷つく。

本当にそんな想いをしているのかもわからない、相手の傷や不快感、それだけでなく

感情なんて、想像でしかない、それが限界なのに、それを言語化して、自分なりの解を

見つけ出して納得して、わかったつもりになっていく。

本当の本当には、その人の気持ちはわからないのに。

私のこの苦痛ですら、私自身は本当の意味でわかっているかわからないのに。

 

本章の特に引用した部分で語られていたのは、

わからないことをわからない、と認めることの重要性

それでもわからないことに対して関心を持ち続けることを諦めないこと

なのだと思います。

これはフェミニズムにも言えることで、女性が強いられてきた苦痛は、男性には

わからないでしょうし、その逆も然りです。

わかった気にならないこと、わからないからといって放棄するのではなく、その苦痛や

傷を認識して、なるべくなら関心を持っていくこと。

性別ジェンダー問わず、いかなる人も、他者に対してそうあっていくのが理想的で、

それがフェミニズムであろう、と説かれていたのが本章なのかと推察します。

 

 

本作自体を読んでいくのは易しくはありませんでしたが、本作で語られている内容は、

とても人々に優しいものだったと思います。

目の前にいる人を、勝手に解釈して勝手な説明書きを自分の中で作らず、敬意を以て

接することの重要性を改めて教えてもらいました。

そして、その反対をされることの心の傷も、本作を読んだ直後に、実生活で学ぶことが

あり、良くも悪くも、本作の素晴らしさが裏打ちされた気がしています。

<The 44th Book> Eyes that Kiss in the Corners

今回はちょっと番外編かもしれない、絵本です。

しばらく前にFoxy eyes が流行っていましたが、アジア人差別として波紋を呼んだり

していましたね。

そんなアジア人の「目」に関する、大変可愛い素敵な作品です。

 

「Eyes that Kiss in the Corners

(Harper Collins Publishers

著:Joanna Ho  絵:Dung Ho

f:id:kanaebookjournal:20210606180531j:plain

Eyes That Kiss in the Cornerswww.harpercollins.com

 

絵本なので、ストーリーはとてもシンプル。

 

大きな碧眼、長くカールしたまつ毛の女の子も世の中にはいるけれど、

私の目は、温かいお茶のように優しい輝きで、はじっこでキスしているような目。

それは、大好きなママや、ナニー、妹と同じ目で、未来への希望に満ちた美しい目。

 

そんな、とてもHeart-warmingな、素敵な絵本です。

また絵が温かい色彩でカラフルに彩られていて、どのページもとても綺麗。

 

 

アジア人差別を受けたことはありますか。

この約2年半、私はマレーシアとバンコクという東南アジアに住んでいて、人種による

差別はあまり顕著に感じることはありません。

もちろん、マレーシアもタイも、多民族ですので、人種に基づく採用や出世の話は

聞くことはしばしばあり、大変嫌な気持ちになりました。

が、少なくとも、マジョリティがアジア人であるこのアジアの地で、アジア人差別を

受けた記憶はありません。

 

米国はシカゴ郊外に10カ月ほど現地の高校に留学をしていたことがありました。

人種としては、白人、黒人、ヒスパニックがメジャーで、アジア人は比較的少数。

時々、送り迎えをしてもらえない時や、スクールバスに間に合わないときは、

ウォーキングにちょうどいい距離で、家まで歩いて帰ることがありました。

明らかに同じ高校に通っているであろう高校生が何人か乗り合っている車から、

白人の男の子が窓を開けて、歩道をとぼとぼ歩いている私に向かって、

「Hey yellow monkey!!」「You whore!!!」などと叫ばれたことはありました。

後者は必ずしも人種の文脈はありませんが(むしろ男女差別)、当時の私は、

アジア人が少ない環境に物心ついた人生で初めて身を置いていたわけです。

最初の数カ月は、英語も全くわからず、日本語であれば色々と物事を理解できるのに

全てが英語であるだけで、自分が何もわからない乳幼児になったような、とんでもない

おバカさんになったような、自信を日々失くしている時期でした。

そんな中で、「yello monkey」は、自分がマイノリティであること、人間以下でしか

ないことを思い知らされ、とても傷つきました。

最初に通っていた学校は、結構に裕福なエリアの子供が通う高校で、周囲の町の

高校生からは、Snobが多いとの評判でしたから(笑)、叫んだ彼らは、イケイケの

新車ジープに乗って、世界を手中にした気分だったのでしょう。

単に車が無く、道を歩いて帰らないといけない私をバカにして、気分を更に高揚させた

だけだったかもしれない。

数カ月前までは、日本人だけの高校に通っていた私が、白人や黒人、ヒスパニックで

ほぼ構成されている場所に、自らを放り込んだ時の、その世界観の違いたるや。

何人か知り合ったアジア系の生徒も(韓国系、フィリピン系、中華系、スリランカ系)

いましたが、彼らは決してマジョリティではないことを自ら把握していたし、

確かに頭が良く勉強ができる子たちが多かったから、どちらかといえばGeekとして

分類されていて、決して人気者のグループではなかった。

気取り屋が多い高校生(つまりイケイケな人たち)、アジア人に比べて、心身の成長も

早熟で既にセクシーで大人な彼らに、日々圧倒されて、劣等感を募らせていた中での

顔も見えない相手が放った「YELLOW MONKEY」は、未だに忘れられない一言です。

 

 

数年後、大学生になっていた私は、メキシコにボランティアという名の海外旅行を

しに行きました。

日本も含むアジアやヨーロッパから、多くの学生が参加していました。

もうほぼ野グソに近いくらいの生活で、トラブル多発の過酷な日々でしたが、程よい

距離感でメンバーが互いを尊重しつつ、楽しく生活できた2週間だったと思います。

主催者サポーターのひとりに、イタリア人の女性がいました。

小柄なイタリア人女性で、こじんまりと顔も身体も綺麗にまとまっているように

私には見えました。

ボランティア生活をしていた山奥の田舎の小さな村から、町へ降りてきて、あと少しで

お別れというときに、みんなで談笑していたときのこと。

「(アジア人の数人に向かって)あなたたち、笑っているときは目が見えているの?

(ある女の子に向かって)あなたとか、笑うと目がなくなっちゃうじゃない!!

Kanaeは目が残っているか~。でも、それで見えているとか本当不思議!!」

と、目じりに指をあて、引き延ばしたジェスチャーをしながら言ってきたのです。

つい一瞬前まで笑っていた私の笑顔は、そのまま引きつり、凍り付きました。

なんと返答したかは、あまりのショックに覚えていません。

アジア人らしく、空気を壊さないように、「見えているよ~!笑」とでもヘラヘラ

返答したのでしょうね。

そんな発言を放った本人は、ただ単に、目の形や大きさの違いを事実として述べた

だけだろう、とその場では思うようにしました。

そうじゃないと、楽しかったけど、キツくてしんどかった2週間が、嫌な思い出に

なってしまうから。

だけど、やっぱり、どう思い返しても、このコメントは嘲笑でしかないと思うのです。

会話の文脈やコメント内容もそうですし、何より、昔から白人がアジア人を表すのに

してきたつり目のジェスチャー付きでありました。

長い人種差別の経緯からしても、仮に本人が「嘲笑したつもりはなかった」と言った

としても、結果としてはその意図は反映されないことを、認識していてほしかった。

真偽のほどはもう今となってはわかりませんが、思い返してみても、そのつもりは

あったような気がするし、アジア人としての誇りや尊厳を奪われる可能性がある生活を

多少なりともそれ以前にしていた私には、本当に傷つく言葉でした。

冒頭で少し書いた、少し前にSNSで話題になったFoxy Eyesについても、私と同じように

感じるアジア人が多かったからこそ、物議をかもしたのだと思います。

 

 

そんな経験をしているであろう、多くのアジア人を励ましてくれる本作品。

既に多人種の中で子育てしている人、これから世界に羽ばたくお子さんがいる家庭には

ぜひ置いておいてほしい一冊です。

もしくは、これまでアジア人差別で傷ついたことのある大人でも、過去の自分を

励ましてくれる作品です。

アジア人の私の目、素敵でしょう。

<The 43rd Book> さよなら、男社会

男性が築き上げてきた現社会は、「自分」というものを犠牲にし、蔑ろにされた

数々の「自分」の悲しすぎる集合体かもしれません。

私もそんな集合体である社会を形成する一員でありながら、被害者なのだと思うと、

涙ぐまずにはいられない。

前回紹介作もそうですが、フェミニズムは、男女問わず、「自分」を見つめ、愛しむ

ための第一歩だと、改めて喚起してくれている作品です。

 

「さよなら、男社会亜紀書房著:尹 雄大 

f:id:kanaebookjournal:20210530224430j:plain

www.akishobo.com

 

前回紹介した訳語本の「男らしさの終焉」よりも、より個人の体験に基づく回顧録

要素が多い本書は、より日本人読者である我々には読みやすいかと思います。

ひとつひとつの著者の経験が、余すところなく、注意深く紐解かれています。

帯に推薦者として書かれているジェーン・スーさんは、以前も別作品で紹介しましたが

私もファンですので、より惹かれました。

自分と向き合えば向き合うほど、本当はしんどいのです。

弱い自分、その事実に傷ついている自分、そしてそれを見て見ぬふりする自分、

無視の上塗りを重ねていく自分、それを玉ねぎの皮を一枚一枚剥いでいくかのように、

尹氏は、自らの体験と、そのときの自身の感情や感覚を懇切丁寧に解説しています。

(並大抵の精神力と、自分を心から大事にする気持ちで無しではできない作業です。)

そして、そこから垣間見える現社会の歪みを、如実に炙り出しています。

共感できるものは多いと思います。

ですが、だからこそ、自分の体験ではないけれど、読んでいて辛いかもしれません。

尹氏の体験談と繋がる何かしらの経験をしている人は、多いはずです。

そしてその時に感じた自らの感情を、"臭いもの"として蓋をしてきたのでしょう。

社会の基準でいう"臭いもの"だから。

尹氏自らその"臭いもの"と向き合い、語ることにより、読者の"臭いもの"との対峙を

促進してくれています。

そして更にそれにより、現社会の在り方とその基準によって自らをジャッジすることの

苦しみから解放され、自分が自分でいることの素晴らしさを感じる、個々人がそれを

できるようになれば、より良い社会を目指せるのではないか、と希望を持たせてくれる

作品でもありました。

 

 

尹氏のエピソード中に、父親とのものがいくつかあります。

社会で権力を持つこと、「力」を何より重要視したお父さんだったそうで、それに

基づくお話もいくつかありました。

(これまで紹介してきた数々の作品でも開設されているので、社会は男性が築いてきた

男性のためのものという前提で話を進めます。)

 

私は、女性で一人っ子です。

さぞや可愛がられて育ったであろうと思うかもしれませんが、そうでもありません。

いえ、溺愛はされているとは思います。可愛がられてもいます。

経済的に生活が困ったことはまずないし、なんだかんだやりたいようにさせてもらえて

両親には、本当に心から感謝しています。

今の私では、仮に子供がいたとしても、とてもじゃないけど私が育ってきたのと同等の

生活を与えてあげることはできません。

単純に、両親はすごいと思うし、私は本当に幸運でした。

でも、正直、未だに父には個人的な感情として、わだかまりがあります。

両親ともに、親子だからと言って、互いを理解し合えないことは最近わかったことで、

未だにその切なさを感じています。

だけど、理解と愛は違います。

母からは感じられる無条件の愛情が、父からは常に、未だに条件付きとしか思えない。

 

さっきまで食卓で一緒に大いに笑っていた父が、その3分後には激怒し始め、あまりの

急変ぶりに母も私もついていけないなんてことは、日常茶飯事でした。

今は海外で一人暮らしですが、それまでは二十代後半まで実家暮らしをしていました。

二十数年、一緒に暮らしていても、その急変のトリガーはわからないのです。

どのタイミングで、何がきっかけとなるか、わからない。

楽しい食卓の日が大抵です。家族三人で大爆笑する日もある。

そんな時間は、今思い出しても面白いし、懐かしいし、恋しくなることもあります。

だけど、私は大人になっても常にビクついていたことも思い出す。

こちらの戸惑いをよそに、どんどん怒りのループに嵌まっていく父を見るのは、

本当に怖いし、彼が眠りに落ちるまで(大抵は驚くほど早寝ですが、激怒していれば

アドレナリンが出まくっているから、早く寝るはずもない)、延々とその怒りを

ぶつけられ続けなければならないのです。

あまりの怒りのエネルギーの激しさに、私は大人になっても、涙が出ないことのほうが

少なかったような気もします。

私にとって、家庭は常にピリッとした緊張感を持っていなければならない場所でした。

なぜなら、気を抜いた時期に見計らったように、爆発が起こるのでした。

(こんな内容でブログを書いているとバレたら、激怒どころか勘当されちゃうかも...)

 

数えきれないほど、そんな出来事はありましたから、いくつかの出来事を除いては

父が怒り出したきっかけまではわかりませんが、本作を読んで、その背景は何となく

分かった気がします。

尹氏のお父さんと同じように、私の父も、力や権力に重きを置いていたのでしょう。

 

私の父は、娘の私が言うのもなんですが、秀才、優等生タイプです。

昔から勉強もできたし、有名大学に入学し、当時は盤石だと言われていた業界、

会社に入社しました。

決して器用なタイプではないので、地道にコツコツ努力することができる人でした。

(親子とは思えないほど、私にはこの努力するというのが苦手で、その能力がない。)

けれど、世の中には、器用な人もいれば、地道にコツコツ努力した結果、更に能力が

高いと言われる人たちは山ほどいて、到底自分では適わないことがたくさんあります。

そういう人たちが自分より良い会社に入ったり、出世していったりして、お金や権力

という、目に見える、社会で評価されている指標で歩んでいくのを横目で見なければ

ならない場面に、多々遭遇することになります。

自分の時間と労力を惜しまず勉強し、働いた父には、それ相応(かそれより少し高い

かもしれない)プライドがあり、その現実が理不尽にも見えたし、遣る瀬無かったし、

悔しいし、大いに傷ついたのだと思います。

そんな人々の「能力」や「実力」だって、得体の知れない"社会"というものがが良しと

する「力」でしかないのに。

(そもそも「実力」など微々たるもの、生まれた境遇や運に大いに左右され得る。)

 

彼は、決して、社会から能力がないと思われるような人間ではありません。

その社会に馴染もうとして、その社会で成功しようとして、必死に努力した人です。

同調すれば良しとされる社会が築かれているわけですから、馴染もうとすれば、決して

社会がダメ出しすることはありませんから。

だけど、そのダメ出しされない状態を継続するため、あわよくば社会で成功するため、

そのために彼が失った代償はあまりに大きかったのではないかと思うのです。

社会が出す条件に見合う自分でいなければいけない。

やりたくないこと、言いたくないこと、されたくないこと、言われたくないこと、

それらを行う度、そして行われる度、社会に馴染み成功に近づくけれど、その度に

傷ついている。

そのうち傷つくことが常態化してしまい、やり過ごす方法を覚えます。

やり過ごすことが続きすぎると、傷ついた事実を無視することを体得する。

 

尹氏のエピソード同様、私の父も、家庭に社会を持ち込んでいたのです。

幼い頃から、家が、父が私にとっての社会でした。

父の出す条件に見合わないと、私は見捨てられると幼い頃から体感していました。

前述した急な怒りの爆発は、その一例です。

可愛がられていることと、常に隣り合わせで、父に捨てられたら生きていけない、

捨てられないようにいい子でいないといけない、という強迫観念がありました。

(実際に彼がそんなことをするはずがない、と今となってはわかるけれど、それでも

あまりに深く刷り込まれていて、その恐怖や不安が今も消え去ることはない。)

社会が父に押し付けていた条件を、私への愛情にも父はあてはめていた、

そんな気がしているのです。

 

私も我ながらですが、父親同様、比較的、優等生です。

ずっと、自分が自分らしくあるために、自分がいざ(必ずしも社会の規範に沿ったもの

ではない)何かをやりたい、言いたくなった時に、他人から、親から、父から、

社会から、とやかく言われなくて済むように、という動機でした。

社会の指標、ジャッジが前提なんです。

社会からとやかく言われたくないから、社会の指標で良しとされる程度を目指すという

完全にロジック破綻した存在しない何かを、私も求めてきてしまった。

 

本作を読んで、そうした自らのバックグラウンドも紐解けた気がしています。

急に怒り出した父への、楽しいその日の時間が台無しになったことについても、

少しは溜飲が下がるというものです。

父だって、害悪的な男社会の被害者だったのですから。

だからといって、父への感情的なわだかまりがなくなるものではない。

父も傷ついていたことはわかった。だけど、私も傷ついてきたのです。

父も私も、やり過ごす方法はもう充分に知っているけれど、父にはもっと自分の弱さや

傷に向き合ってもらいたいし、私も傷ついた事実を無視することはしたくありません。

 

 

自分の傷や痛みを無視することにより、感じることができなくなります。

自分の傷や痛みも感じられないのですから、他人のそれらを感じるなど、言及するまで

もなく、できるはずがありません。

他者と築いていく社会なのに、自分を蔑ろにすることで、他者をも蔑視することに

なってしまいます。

どうか、自らの傷を感じるどころか、見なかったことにし、他者のそれを軽視どころか

無かったっことにするような現社会が、人々にとって優しいものとなりますように。

少ししんどいですが、まずは自分の傷を見つめて、自分に優しくなるることから

始めませんか。

そんな呼びかけが為されている本作、ぜひ手に取ってみてください。