<The 64th Book>おつかれ、今日の私。
30を過ぎて、仕事もプライベートも色々と転機があったりして。
毎日の積み重ねは大したことはなくても、年ごと、月ごと、週ごとに何かしら自分の中で、ちょっとしたイベントはあったりするもの。
そのひとつひとつに一喜一憂したりしながら、日々を過ごしています。
今日も寝不足で、生理前で、仕事もプライベートで、なんだかうまくいかない気がして泣きたい気分。
そんな時に慰めてもらえるような短編集です。
「おつかれ、今日の私。」(マガジンハウス)著:ジェーン・スー
最近は、ジェーン・スーさんの新作、書籍とあれば、とりあえず大体手に取って読むようになっています。
世代が違うから、必ずしもすべてを共感できるわけではない、と過去のブックレビューにも書いています。
が、やはり、こうした彼女の随筆型の短編集にはほっとさせられることが多いです。
彼女や彼女の周りを含む多くの人が、日々浮き沈みを感じながら生きているのだな、ということを優しい言葉で言語化してくれているのが本作です。
私だけではない、みんなハッピーな日があれば、ダウン気味の日もあって、そのアップダウンだけでも疲れることだけど、なんとか自分が自分でいられるように、自らを励ましながら生きているんだ、と。
ウェブサイトで連載が始まった当初は、毎度更新のたびに追っていたのですが、途中から追えなくなってしまい、こうして本作でまとめ読みできてよかった。
そのうち、いくつか心に残った章があるので、エピソードの内容を書くことはしませんが、いくつか列挙させてください。
「人の気持ちを矮小化すると致命傷になるよ」
いま、私は悲しい。うれしい。楽しい。悔しい。
思わず他人に吐露したくなることはありますよね。
私自身にとっても、自分の感情を言語化してアウトプットすることが、自分の感情と向き合う一番効率的かつ効果的な方法です。
「人間そんなもんだよね」「みんなそんなことあるよ、たいしたことない」
と言われて、励まされることもたしかにある。
でも、それは私自身がそのとき切に感じている感情で、それを一般化されたり、よくあることだ、と他人から一蹴(というつもりで当人は言っていないでしょうが)されると、さらにみじめになったり、怒りが増したりすることは、あるはず。
結局、その人の立場にならないと、その人が本当に感じていることを”わかる”のは難しい。
不用意に励ましの言葉を言ってしまうこと、私もあったかもしれない。
その人が感じている感情を、自分の過去の別の経験に置き換えて、話してしまったこともあったかもしれない。
矮小化された、と自分が日ごろ、親族友人知人と話していて多いことは確かです。
いくら私が、自分が感じている感情や置かれている状況を言語化したところで、言語という媒体で相手に伝えられる情報は限られているから、仕方ないことなのかもしれない。
でも、それをまた、私も、矮小化する側として、行っている可能性もあるかもしれない、とヒヤッとしました。
相手を「慮る」ということの重要性を改めて感じさせられた章でした。
「白黒つけない生き方」
私はこれが本当に苦手。
「来年の目標は曖昧を愛すること。」と締めくくられている本章ですが、もう私にとっては不可能に近いくらい難しい。
現に今だって、めったに恋愛なんかしない私が、ああでもない、こうでもない、とひとりでグダグダ考えて、その状況に疲れて、始まっているか始まってもいないかわからない恋(というかただの一人相撲だけれど)に、早々に決着をつけたくてうずうずしている。
とりあえず、おなかの中にうんちをため込みたくないんだよ、排便して、さっさと流したいんだよ、という気分。
自分だけに関わることでは、決断も、その決断に基づく行動も、効率性を何より重要視する私は、白黒つけること自体が癖になっており、しかもスピードが速い。
でも、こと恋愛となると、私だけではどうにもならないこと。
経験が浅い私には、どうにもこうにも、モヤモヤしている状況を楽しむ余裕もなければ、時間を無駄にしたくない、だめならさっさと次に行きたい、他の何かに集中したい、というせっかちな性質が、妙に自分を焦らせる。
私はまだまだ未熟者だなあ、と思っているところ。
心身の一部を誰かに預けるとは、こうももどかしいものなのか。
こうも白黒が簡単につけられないものなのか。
曖昧を愛することはできないかもしれない、と思いつつ、これが今、「曖昧」からの私への試練なのかもしれません。
またさらに大人な私になるための、ひとつのステップなのでしょう。
「なにをしても許されてしまう人をうらやむ」
この表題だけで、涙が出そうなくらいに痛いほどわかる、共感の嵐。
一字一句うなずくしかありませんでした。
「なんでも自分でやろうとしなくていいんだよ。自分ができることでも、人にやってもらっていいんだよ。」
と、かつての友人に言われたことがありました。
「かつて」というのは、理由はいろいろありますが、もう今は友人ではないから。
私は、当時、非常に彼女に嫉妬していました。
「(仮に自分でできることであっても)できない。」「お願い、やって。」とあまりに当然のように他人に言えることに。
その要求に、またも当然のように応える周囲に、私は唖然としました。
私には、彼女が、誰もがかしづくお姫様に見えたのでした。
昔から大人の顔色を窺いながら育った私は、私が周囲に気を遣っているということを気取られずして、気を遣うことを重要視しており、”他人に甘える”という行為でさえ、気遣いのひとつとしてのパフォーマンスでやるくらいでした。
何重もの裏含みがありながら私がするその行為を、彼女は、なんの裏もなく、当然のことのように行い、周りからの恩恵を享受するのです。
ひどく嫉妬し、その嫉妬に自覚的でいた私は、当時は本当に苦しかったです。
作者も同様のことを書いていましたが、自分が自分に他人に素直に甘えることを禁じている、でもそれをしないと自分が愛される資格がないのかもしれない、という強迫観念が常に私について回ります。
一方、わがままを言ったり甘えたりをいとも簡単にできる人たちは、何があっても愛される資格があると確信を持っているのだ、またそれにも私は嫉妬してしまう。
いま、私はそういう人たちから距離をとることでしか、自分を守る方法を知りません。
でも本当は、私も素直に少しでも甘えられることができたら、それが成長なのかもしれません。
「私はしあわせジャンキー」
この章は、老若男女に読んでほしい。
自分がしあわせかどうか、常に注視して、世の人に生きてほしいです。
なぜなら、作者同様、私もそうだから。
自分にとってのしあわせが何か、に常に敏感に生きてほしい。
人間は、ひとりで生まれ、ひとりで死んでいくけれど、ひとりで生きることは難しい。
自分にとってのしあわせが何かに敏感であることが、他者へのしあわせにも敏感であることだと思います。
それが生きる本質だと私は思います。
ほかにも紹介したい章はあったのだけど、サクッと読める、だけど心はほっこりする一冊なので、機会があればぜひご自身で。