Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 60th Book>変半身

本作著者の描く世界観は毎度、圧巻です。

物語として読みやすく面白いのに、裏に描かれているメッセージが深淵。

 

「変半身筑摩書房著:村田 沙耶香

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www.chikumashobo.co.jp

 

「変半身(かわりみ)「満潮」の二作品から成る短編集。

「変半身」は少し、以前も呼んだ「地球星人」をも彷彿とさせる作品で、

小説版は村田氏が執筆し、舞台版は松井周氏が演出したプロジェクトらしい。

とある島で生まれ育ち、中学生だった陸、花蓮と高城くんは、

「モドリ」という恐ろしい島の儀式に参加します。

その秘祭を機に、島を脱出しようとした彼ら。

大人になり、東京で各々生活していた彼らは、あるきっかけで、

里帰りをすることになります。

歴史とは。社会とは。人間とは。

いとも簡単に洗脳されて、記憶さえも塗り替えられてしまうものなのか。

ネタバレになってしまうので、書けませんが、この作品が、また舞台で

演劇される、というのが何とも皮肉な気もしました。

舞台版も是非とも観てみたかった。

 

「満潮」は、とある夫婦が主人公です。

夫の直行はある時、潮を噴いてみたい、と言い出します。

そのために、色々と準備をし、夜な夜な風呂場で潮を噴けるよう、

葛藤する直行。

最初は夫の言動に混乱していた佳代も、自らの女性としての身体や

これまでの性体験を回想し、自分もまた、自ら潮を噴く努力をすることを

夫に告白し、夫婦の絆が強まっるような、そんなお話です。

 

いずれのストーリーも、村田氏の描く小説は、相変わらず

センセーショナル。

 

 

「変半身」は少し政治的要素もあるのでしょうか。

全体主義的な思想が垣間見られた気がします。

私も私という人間を演じているのだろうか、演じ続けるのが人生なのだろうか、

それを歴史や伝統、社会から求められているのに無自覚なだけなのか、と

一瞬、ぞっとしてしまいました。

見えない何かに操られている、とまでは言いませんが、

自覚している、認知している、と自ら思うことの傲慢さ、みたいなものを

すごく思い知らされた感じがします。

 

 

「満潮」は、自らの身体の属性について、至極真っ当な主張が

ストレートに描かれていました。

私の身体は私だけのものなのに、どうしても他人からの不躾な言葉を

鵜呑みにして心を傷つけたたり、他人の快楽のための道具にしてしまったり

することがある。

私の身体は、私だけのものだから、それを他人が言葉や行動で

私の許可なく侵食していいものではないのです。

他人にそんな権利はないし、私も他人の身体にそんな権利は持たない。

 

 

本作で、自他の境界線の重要性というものを再確認しました。

個人的に、「余計なお世話」はすごく嫌いです。

自分がすることもできないし、されても異様なストレスになる。

社会は、”普通”とか”常識的に”という、曖昧だけど、なんだか有効的に

聞こえるまやかしの言葉で、その自他の境界線を平気で侵してくる。

”普通”とか”常識”とか、思わず口について出てしまうこともあるけれど

必ずそのあとに、躊躇する言葉もセットでしか私は使えません。

そこまで普遍的なものは、存在するのかしら。

あらゆるデータの総合体とその平均値が、”普通”だとしても、

そこからずれてしまう人や物が存在しないわけではないでしょう。

それを全部まとめて一緒くたにして、

「普通はこうだよね」「我々は同志だよね」「一緒だよね」と

確認すること、安心感を得られることも時にはあるかもしれないけれど、

すごく傲慢で不躾にしか聞こえないこともあります。

ウチとソトを区別して、更にそのウチの同質性をしつこく追求する感じも、

鬱陶しいどころか、脅迫的で少し恐ろしく感じてしまいます。

自他の境界線、きっと私も侵してしまうこともあるのかもしれない。

そうしないように気をつけて、常に自分がその罪を犯す可能性があること、

それを意識して生活しようと思っています。

 

 

そんな人間の恐ろしさと、そこからの解放を、本短編集の二作で

描かれていた気がします。

読み物としても、読みやすくて面白いながら、

人間の汚い部分を見せつけてきて、警鐘を鳴らしてくれる、

そんな作品となっています。