Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 20.5th Book> 番外編:Pen (いまこそ、「ジェンダー」の話をしよう。)

今回は番外編です。感情的に書きなぐってしまいました。

 

「Pen」(CCCメディアハウス)

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https://www.pen-online.jp/

 

わざわざ日本から取り寄せてしまいました。雑誌はめったに読まないのですが。

ファッション雑誌とか、最後に自分で買ったのは15年くらい前じゃないかな。笑

こちらはファッション雑誌というよりは、カルチャー誌でしょうが。

 

フェミニズムに傾倒する私からすれば、ジェンダーの話と聞けば、手を出さずに

いられませんでした。

ほとんどが知識としては知っている内容でしたが、復習も兼ねて、改めて綺麗に

ジェンダーについてまとめてあり、個人的に注目していた方々のインタビュー記事も

あったりして、とても読み応えはありました。

Gender Identity, Sexual Orientation, Gender Expression, Biological Sexについて、

紙で日本語で綺麗にまとめてくれるとすんなり理解しやすい。

 

私はヘテロセクシュアルだ(と今のところは思っている)し、比較的女らしい格好を

しているし、生物学的にも女性の、シスジェンダー女性です。

どうしてもこれが社会的既得特権であることを忘れてしまう。

だって、そもそもジェンダーギャップ指数ランキングで下位に位置する日本では、

男女の格差だけでも手一杯。というか、それすら軽視されているのではないかしら。

フェミニズムは、女性のために声を上げている思想だと思われがちですが、

クィアトランスジェンダーも、いかなる性指向を持つ人も、個として尊重される、

ジェンダーフリーへ向けての思想であり、活動だと思っています。

 

昔から、自他ともに認める我の強さがありました。

学校にしろ、会社にしろ、日本文化と複雑に深く絡み合っている組織というものに

馴染むことにも苦労していたので、アイデンティティについて考えることが、

思春期から多かった。

私という「個」が尊重されない教育について不満を持ち続けていたことについては、

以前のブログにも書きました。

 

ジェンダーアイデンティティの表現の一部です。

でも不思議でしょう。

生まれる前から、生物学的性別がわかって、それに対する”役割”的なものを既に

勝手に付与されて、この世に生まれてくるのです。

人種も同様でしょう。

インターセクショナリティの話になってしまって難しすぎるので、勉強しないと

いけませんが。

いずれにせよ、社会的役割を性別によって分けるなんて、ナンセンス極まりない。

それが、古代ローマ・ギリシア時代から既に見受けられていたと学んだのは、

つい最近のこと。

そんなに古い慣習があるのだから、それを変えていくなんて、途方もなく大ごとなの

だろうけれど、どうしてもそれを諦めきれない。

ずっと泣き寝入りしてきました。

できもしない迎合を、必死でやって、学校や会社に馴染もうとしてきたんです。

成長するにつれて、ソーシャルスキルはある程度高めることができましたが、

でもつまらないときはつまらない顔をしてしまうし、むしろそうあることが、

心から誠実だという信念があります。

ずーっとジレンマ。

不器用と言われればそうなのでしょうが、この世の中を難なく生きられるほど、

鈍感でもない。

そのことを誇りに思っているくらいなのだから、もうどうしようもありません。

 

タイは常夏であることもあり、暑いし、マレーシアほど開放感はないとはいえ、

やはり日本にいるときほど人の目を気にしません。

私は日本にいた頃に比べて、比較的露出の多い服を着るようになりました。

(といっても、タイにいるタイ人や、非日本人にしてみたら露出とも言えない)

なぜなら、私に似合うから。

私がその服を着ている私を好きだから。

でも、あるとき、男女問わず、日本人数名から言われたんです。

「胸見えそうだよ、気をつけなよ、男の人喜んじゃうよ」

「その服エロいよ~笑」

言った当人たちは、あくまでただの挨拶程度にしか思っていないのでしょうが、

私はとても腹が立った。

私の選択が間違っていたというの?

私が私のためにした選択が誤っていると、なぜ他人がずけずけ言ってくるのか。

服にしろ私の肌にしろ、人に見せるためにその服を着ているわけじゃない。

それをエロいと思ったり、男が喜ぶと思ったりするその思考自体が歪んでいる。

未だにこれは腹が立っています。その場で反駁できなかった自分にも。

私は私のものであり、その私が好きな服を着て、注意されるような世の中のほうが

おかしいでしょう?

極端な話をすれば、性犯罪を容認しかねないそんな考え方のほうがおかしいでしょう?

実際に性犯罪は世界各国でもちろん日々あるのでしょう。

でも、それが被害者に非があるように語られるのはやはり許せない。

被害者の非はゼロです。これこそゼロサム。加害者が100%いけません。

だから、私は私のテンションが上がる、私の性格と体型に似合う、私が私をその日

好きでいられる服を着ているだけなのです。

いずれにせよ、久々に、あの軍隊のような中学校の校則を思い出させられました。

なぜ私の選択を、他人なり世間の目に委ねなければならないのか。

そもそもその世間の目が、女性を消費対象としてしか見ていない故の発言に、

しかも女性からもそのような発言があったことに、私は悲しく、内心憤りました。

 

その消費対象になろうと、私は思春期から頑張ってきていたんです、

生きやすさを目指して。

未だに男性の前で声音が変わることがあるのはその名残です。

私には、「消費対象である女性」の女性性が、ジェンダーロールが染みついてしまって

いる。

多くの男性が消費したい(=モテる)女性像にずっとなりたくてもなれなかった。

だから、早々に、自身の中に女性性があることを受け入れることを諦めたのです。

だって、世間は認めてくれなかったから。

「女性なんだから」「露出が多いよ」とか、今更言われても、頭の中ははてなだらけ。

シスジェンダーでありながら、自分の女性性、ジェンダー自体に葛藤があります。

性自認はできているのに、ジェンダーロール内で語られる女性性を受け入れることが

できない、たくさんは持ち合わせていなくとも、多少は持ち合わせている事実も自分で

認めることができていない。

これが私を生き辛くしている理由のひとつかもしれない。

 

私は出世の野心はありません。

会社のお金や、何をやってそのお金を儲けているのかも、全く興味はありません。

でも、私が受けてきた教育、私が馴染もうとしてきた環境、女の子が営業事務である

会社、そういう場所を、そういうものとして、そこに馴染もうとすることができるほど

器用でもなければ、自我がないわけではありません。

We can't afford to wait for the world to be equal to start feeling seenだと、

そんな世界は程遠いと、ミシェル・オバマNetflixの「Becoming」で言っていた、

だからこそ、自分で見つけないと、自分で声を上げていかないと、と。

できることから始めていかないといけない。

男の前で猫なで声を出してしまう私も、反対にそれでも可愛げのない私も、

私なのです。

アイデンティティが、仮に外部から付与される価値観に大いに依拠してしまうものだと

するのであれば、その価値観が多様であればあるほど、多くの人が生きやすくなる。

 少しでもそれに寄与できる生き方ができればいいと、そう思っています。