Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 56th Book> すべて真夜中の恋人たち

一応、恋愛小説だと思うけれど、一概にそれだけとも言い切れない。

まるで俳句のような、詩のような、それでもなんだかとても人間臭くて、

自分を自分に戻してくれるようなそんな作品です。

 

「すべて真夜中の恋人たち講談社文庫

著:川上 未映子

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bookclub.kodansha.co.jp

 

書籍の校閲者である冬子が主人公。

校閲という仕事は向いているけれど、会社が合わなかった彼女は、

今はフリーランスとしてそれなりの仕事をもらい、自宅で働いています。

クリスマスイブの真夜中に、散歩をすることが、毎年の誕生日の恒例行事。

彼女に仕事を与えているのが、出版社の聖です。

容姿も美しく、立場関係なく誰に対しても弁が立ちすぎるほどで、

仕事も抜かりなく、気楽にセックスやデートを楽しめる相手が何人かいる、

冬子とは正反対といえるでしょう。

冬子は、ちょっとした勇気を出すために、飲酒を始めます。

飲酒をして向かったカルチャーセンターで出会った三束と、

とある喫茶店で逢瀬を重ねていきます。

もちろん会うのは、飲酒をしてから。

高校の物理学教師であるという三束とは、よく光の話をするのですが、

不器用で、言葉少なの二人が織りなす会話は、歯がゆくも愛らしくも、

美しくもありました。

高校で仲良くしていた友人の早川典子や、聖を紹介してくれた恭子さんなど、

その他登場人物も含む会話とそれに基づく冬子の回想で、物語が進みます。

これら女性の登場人物がまた、人間臭さを増しているというか、

現代女性の様々な立場を投影してくれてもいます。

 

 

本作のすごいところは、彼女は非常に敏感で、繊細な人間で、

全て冬子の一人称で語られているのに、彼女の感情描写が決して

多くないところ。

もちろんあるのだけれど、それが非常に詩的に描かれているというか、

比喩的であるというか。。。

冬子が何をしたか、冬子が外界で起こった何を目にしたか、

そんな事実の描写が、彼女の目を通して語られることによって、

彼女の心情が描かれている、というのでしょうか。

ある種まどろっこしいのだけれど、それがとてもピュアで美しい。

人間、ここまで自分の感覚と感情に、sensitiveになれるのか、と

(フィクションとはわかりつつ)冬子に感じてしまうほどです。

冬子が語らずして、彼女自身の心情を語らせている技巧は、作者の

類まれなる文才ってことなのでしょうか。

 

 

サラリーマンになったからなのか、バンコクに来たからなのか、

どんどん自分の繊細さや、感受性が鈍麻していっている気がします。

外界からの刺激がどんどん増えていっているように見える今の時代、

それは便利かもしれないけれど、自分が自分でなくなっていくような

感覚もあって、とてもこわい。

真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う。

本作、冒頭の第一文目です。

最近、公私ともにそれなりに忙しく、こんな情緒あふれることを

感じる余裕がなかったのだ、と冒頭から切なくなってしまいました。

 

 

私も中高生の頃くらいから、家族も近所も寝静まった夜中に、

窓から身を乗り出して、よく考え事をしたものでした。

そんな時間が好きで、大切にしていました。

昼間とは違う佇まいのお向かいさんを眺めつつ、静寂の香りをかぐ、みたいな。

今、そこで自分が感じている風や匂い、見ている星や雲、お向かいさんの

家の姿が重なる夜は二度とないんだ、って感傷に浸ったりして。

世界中の、儚さと切なさを、自分だけが独り占めしているようで、

その時間が、一瞬が、狂おしいほど大切で、特別な時間でした。

 

大学生になって、哲学の授業だろうか、キリスト教系だったかな、

ニーチェの話が出てきたのです。

有限の原子と、無限の時間であれば、原子の可能な順列組み合わせの数は

いつか到達せざるを得ないから、宇宙は繰り返す、と彼は説いた、という話。

その時、ふと、私はまた、同じ人物として、同じ両親から生まれて、

また窓の外に身を乗り出して、同じ佇まいのお向かいさんを、同じ位置で星が

照らしているのを、きっと見るのだろうな、と思いました。

私は、私として生まれる運命で、過去にも未来にも、私として存在し得る

運命なのかもしれない、と。

「AMOR FATI - 運命を愛す」という、ニーチェの言葉だそうです。

 

それを学んでからも、やっぱり夜中のその時間は感傷的なものでした。

なぜなら、物理的には同じ私でも、その時に私が感じたこと、

思考したことは、過去や未来に存在するかもしれない私と同じとは限らないから。

現存する今の私が感じていたのは、その時に一緒に存在したその夜だけで、

そこで私が何を思い考えるのかは、きっと過去や未来の私にもわからないから。

ニーチェのその言葉を学んでから、夜中のその時間が、私にとって

更に大切で、更に感傷的な時間になったのでした。

 

 

冬子にとっての三束さんは、私にとってのニーチェだったのかな、

なんて、本作を読んで思い出しました。

冬子と三束さんが、光の話をしたように、私は運命に想いを馳せていた。

ニーチェニーチェ書きながら、彼の哲学書は何度も挫折して、

結局読んでもないし、ぶっちゃけ哲学は全く詳しくないけれど。

そして何より、私はニーチェに恋はしていなかったけれど。笑)

 

 

冬子が誕生日の真夜中の散歩で、その美しさを感じ、光を想起させる

ピアノ曲に浸って、自分をきれいなもので満たす時間を持っているって、

そして、そんな時間を更に大切に思える人と出会えたことって、

本当に素敵なことなのだと思うのです。

そんな感傷的な時間を、もう長らく過ごしていない、と本作を読んで

気付きました。

仕事に追われるのも、脂の乗ったこの時期の青春を謳歌するのも、

悪くはないし、30代ならではだとも思う。

だけど、夜中に窓から身を乗り出して、その一瞬を全身で感じようとしていた

少女の私を忘れたくはない、忘れてはいけない、とも思うのです。