Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 1st Book> 彼女は頭が悪いから

一番最近に読み終わった本

「彼女は頭が悪いから」(文藝春秋)著:姫野カオルコ

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https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163908724

 

自身の中で矛盾を抱えつつも、フェミニストである、そうありたいと思っているから、

前々から気になっている作品でした。

実際にあった事件に着想を得ているらしく、細かな設定もおそらく相当近似している

のでしょうが、描かれ方としてはフィクションだから極端なのかもしれない。

読み物として読んだので、あえて詳細に実際の事件を調べませんでした。

 

「東大ブランド」って、やっぱりあると思うし、正直、私も惑わされる。

友達や知り合いに何人かいる東大卒生は、私の中で「東大卒」ではなくなっている。

彼らの「東大卒」は、私の彼らについての印象の中で、最初には挙がらない。

でも、これから出会うかもしれない東大卒の人は、しばらくは「東大卒」の○○さん。

だって、東京大学卒業って、単純にすごいもの。

自己紹介するときに、私なら胸張って言いたくなるよ。言ってもいいと思う。

やっぱり勤勉で頭が良くないと、入学も卒業もできないだろうから。

努力家であることと、賢いことを、一度に紹介できる素敵な肩書きだと思います。

 

でも、学力が高く頭の回転が速いことと、感受性の高さは別物かもしれない。

両方持ち合わせている人もいれば、そうでない人もいて、その程度ももちろん様々。

頭の回転が速ければ社会性含め「スキル」を持つことはできる。

この本で描かれていた東大生5人も、スキルとプライドは異様に高かった。

「東大」で自分全てが色塗られた学生として描かれていた。

実際にここまで極端な東大生がいるかは別として。

ソーシャルスキルは高いのに、感受性が低いってこういうことか、と。

スキルが高ければ、葛藤は生まれにくいのかもしれない、と。

器用であれば、悩もうとしなければ悩まないのかもしれない、感じようとしなければ感じないのかもしれない、と。

 

その優秀さと無神経さを兼ね備えて人生を謳歌している東大男子学生たちが、

女子学生たちに対して、容姿や大学名で評価をくだしている件が多々出てきます。

読んでいて心が痛かった。自分の嫌~な部分を炙り出されたような気がしました。笑

そして、大人になって良かった、海外にいて良かったとも思うのです。

 

フェミニストでありたいとか言いながら、それでも私も「ハンサム」が好きです。

「美人」が好きです。造形美には単純に惹かれるものがあります。

ジェンダー問わず、その造形美に大変魅力を感じています、昔から。

だからといって、造形美以外に魅力を感じないわけでは全くありません。

でも、綺麗なものは好き。整っているものは好き。

本能的にとても魅惑されてしまうのでしょう。

 

だから、女性として整っていない、綺麗ではない自分が私は嫌でした。

幼い頃は、大してそんな風に自己嫌悪に至ることはなかったと思うけれど、

次第にその劣等感は構築されていきました。

容姿を悪し様に言われたことは、少なからずありました。

発言した当人はきっと覚えていない。

だって、当の私もたくさん言ったことはあるけれど、誰の話かは覚えていないもの。

でも言われたほうは一方的に傷つく。私も被害者で、加害者です。

美化される思い出もあるけれど、美化されない忘れられない思い出もある。

その一個一個に囚われることはもう流石にないけれど、それでも自分の中に

確実に蓄積されている。

作品中にも何度も出てきた言葉である、「デブでブス」だと思い知らされることが

たくさんあった。中高生って残酷。

家族親族だからこその、幼い頃からの容姿に対する容赦ない物言いも、とても

悲しかった、未だにあるし、未だに小さく傷つきます。どうしようもない。

それだけが理由で恋することはなくても、綺麗な人、整っている人たちの、

一瞬で目を引く造形美の魅力に抗うことはできません。

小さな痛みと悲しみが蓄積されている私には、それだけで輝いて見えたし、

本気で羨ましかったし、憧れました。

だから、自分で薄々わかっていても、それを他人から「デブでブス」だと、

あえて不要な喚起されることは、都度とても傷ついていましたし、傷つきます。

  

だから学生の頃も、まともに恋愛なんてできなかった。

男子、男性を相対する性別として見るよりは、人間として見ていました。

その姿勢を体得できたことは有難いです。これからも大切にしていきたい。

でも、その視点での恋愛の仕方は、恥ずかしながら、未だに模索中です。

どうしても、恋愛は「性」や「性別」が関わってくるものだと思ってしまうし、

多くの人がそのパラダイムで生きているように見えてしまう。

自分だけ別パラダイムで生きていても素敵な相手など到底見つかるはずないよね、

と打ちひしがれることも時にある。

いい年して。笑

 

この作品での主人公の女性は、「どうせ」が思考の癖でした。

卑屈な「どうせ」ではなく、自分の居場所はここだ、という拠り所のある「どうせ」。

人を過度に羨むわけでもなく、既に自己受容をできつつある「どうせ」。

小さなことから自己満足を得ることが上手な、まっすぐのびのび育ったと印象を

受ける女性が主人公として描かれていました。

確かに田舎臭い。おぼこい。不器用。

でも彼女はそんな自分を受け入れていたし、周りもそんな彼女を愛情を持って

接していました。

日々を大切に過ごすことができるような、可愛らしい女性として描かれていました。

 

私も、知らず知らずのうちに「どうせ」が身についていました。

これは彼女と違って、卑屈な「どうせ」。

どうせ可愛くないから、勉強でもしておかないと。

どうせモテないから、今日もおやつにパン食べちゃおう。

どうせ国公立大学には入れないから。

どうせ良い会社には入れないから。

中高生の間に色々な自信を喪失し、異様な自意識の高さを持ち始めていたのでした。

傷つかないための、過剰な自意識という必死のバリアです。

うまく使いこなせない間は、それもそれでダサかっただろうな。

いったいお前は敵のいないところで、何をそんなに守っているんだよ。

そんな自意識というスキルを持ち始めて早十数年。

昔はスキルであったものが、首を絞め始めた数年前。

スキルは諸刃です。時の流れによって、刃の向きが変わり始めました。

 

年齢を重ねるにつれ、自分も周りも、より多様な価値観に触れるようになりました。

海外で生活することにより、その多様な価値観を更に広げることができそうです。

可愛くないと恋愛ができない。賢くないと馬鹿にされる。

可愛いにも、賢いにも絶対的な基準はないのです。

色んな可愛い、色んな賢いを、私は見てきました。

たぶん私自身も持っている、とようやく思えるようになったここ数年。

絶対的ではないものを、絶対的な価値として勘違いさせられることがあります。

私なんて未だにいっぱい勘違いしていると思います。

でも、自分の好きな自分でいようとすることこそが、絶対的なものなのでしょう。

そういう人が、造形美を持ち合わせる人よりも、魅力的に見えるようになりました。

年々、生きやすくなってきました。海外へ出て、呼吸がしやすくなりました。

やっとですよ。ようやく。三十路近くになって、三十路になって、ようやく。

 

どこの大学卒であるか、どこの会社に勤めているか、役職は何か、それ自体に人や

自分の価値を置くよりは、その人自身、自分自身に価値を見出したいものです。

ある一定の基準にはなり得ても、それがその人自身となるのは悲しすぎる。

ひょっとしたら、この本で描かれていた5人は、それに虚しさを感じることは

なかったかしら。

他人が自分自身ではなく、「東大生」としか見てくれないことを。

造形的美人だったら、他人が自分自身を知るよりも、外見だけで判断しようと

することを。

どうせ東大という名だけだから。

どうせ見た目だけから。

エベレスト山のように高い東大生プライドの裏側には、彼ら自身も見えていない、

こんな卑屈な思いがあったのかもしれません。

それが、悲しく卑しい事件として顕在化してしまったのでしょうか。

 

なんだか全く本の趣旨や、フェミニズムの話とはかけ離れてしまいましたが、

これは男性が女性に対して行ったわいせつ行為であったと同時に、人としての

尊厳を著しく害する事件を描いていた本でした。

それを自分の中に見出せなければ、あっという間に東大生の道場人物たちのように

加害者になり得ます。

単純にこわい。

少なくとも尊厳は肩書きでは得られないことは自明です。

加害者にだけはなりたくない、気を付けなければ、と細心の注意を払っている

つもりでも、簡単なことでもない。

この文章だって、ブログだって、何か加害的なことが無いとも私は言い切れません。

だからといって、何もしない、全く動かないことが人の尊厳を守れる方法でも

ないのだから、人間としての尊厳が何か、日々自問しながら生活したいものです。

  

私はあまり、現代社会が舞台になっている本は読みません。

基本的にフィクション。現代日本の生活を描いていないもの多い傾向にある。

現実逃避にならないから。

読まないようにしてきたけれど、最近はそうもいかない。

思想、思考の成長を楽しみながらやる方法が読書だったのだけれど、成長させたいと

思うと、現実から目を背け続けることも良くないのでしょう。

今回もこうして自省させられることが多くありました。

 

かく言う私は、東大卒でもないけれど、自分が卒業した大学が、むしろ卒業後に

年々好きになっています。

この本とは関係ないけど。

どこの大学卒業かなんて、聞かれない限り言うこともないし、人の卒業大学は大して

興味もないけれど、あえて言いたくなるくらい好き。

同じ大学卒業の人がいたら、年代問わず即座に友達になれそうなくらい好きです。

それは別に偏差値や学力云々の問題ではなく、(でも正直それがゼロとも言えない)

自分に合った学風の大学に通えたなあ、と自分の選択が誇らしいのだろう。

あの大学で知らず知らずに築いていた思想傾向もあると思うし、それも好き。

 それ自体を私自身とは思わないけど、やっぱり私の構成要素なんだよな。

 

毎回こんな脈絡なく長文を書ける気はしないし、書く気もありませんが、

やっぱり書くって楽しいですね。

でも、あんまり上手に書けなかったな。これから書きつつ練習です。