Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 36th Book> 快楽上等!3.11以降を生きる

上野千鶴子氏と湯山玲子氏という、パワフルで鮮烈な二人の対談集。

体感として、保守的な日本人が多い村社会バンコクの古本屋で、こんなにも

リベラル満載な本が見つかると思いませんでした。笑

本作を手に取って読んで、古本屋に売った人はどんな人だろうか、まだバンコク

いるだろうか、友達になりたいなあ、とつい思いを馳せてしまいました。

 

「快楽上等!3.11以降を生きる」(幻冬舎文庫

上野千鶴子湯山玲子

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https://www.gentosha.co.jp/book/b8805.html

 

さて、今年も3月11日まであと二週間を切りました。

信じられないことに、あの惨劇から10年になるのですね。。。

本作を読んで、改めて震災に対しての自身の向き合い方を顧みた気がします。

日本フェミニストの本家本元の上野氏と、文化の大御所・湯山氏の対談という

もう超絶刺激的すぎる本作。

初版が2012年10月に発行されているようなので、対談自体は、震災後落ち着いてから

それまでの間に為されたものなのでしょう。

私自身は、フェミニズム含む政治社会のこともまだ勉強中だし、カルチャーなんて

全然未知の分野なので、知らない言葉もたくさん出てくる中、

(編集が為されているとはいえ、基本的に)この二人が口頭で喋っていたことが

載ってるんだよね?世の中への造詣の深さとはこういうことか。

これこそが「対話」「会話」「コミュニケーション」というものだ!

と、もう、二人の発言内容自体は言うまでもなく、大感激。

あの飯屋が美味かった、あのブランドの服が欲しい、この間出会ったイケメンが、、、

等々、もちろん話として面白いし楽しいし好きだけれど、その背景にある物事や構造を

ネタとして、ガハハと笑う彼女たち、会話の真髄ってそういうものだよね、と改めて

思わされてしまいました。

本質的な言葉や会話が、実生活で得られにくい中、こうして本が私にとって必要不可欠

サプリメントになっていくわけです。

とはいえ、じゃあ仮に私が対談の第3人目として参加したら、この二人についていく

なんてことは全くできなかったであろうし、だからといって、いま実生活で本質的な

コミュニケーションを得られる機会は限られているので、なんだか中途半端で、切ない

気分にもなってしまいました。

 

さて、リベラル寄りの私も、もちろん膝を打ちまくり、付箋を貼りまくった本作。

3.11についてもメイントピックのひとつでしたが、文庫題名にもなっている、「快楽」

について、今回は書きたいです。

メインどころとしては、恋愛メンタリティとセックスといったところでしょうか。

 

恋愛については、色々と世間的にこじらせており、従って、私の両親はきっと未だ

私を処女だと思っていることでしょう。笑

私個人的なことをいえば、心と身体は必ずしも恋愛的(性的)に連動しないので、

これまでも別々に作用することが多々でした。

片思いで大好きな人がいても、全く別の人と身体の関係を結ぶことだってできます。

だけど、やはり多くの(周囲の)女性がそうではないことを知っています。

会話や対話の上で、”相互理解”に重きをおき、”共感”は二の次の私ですら、

やはり全く共感を得られないことは、なかなか自信を失くすものです。

「セックスなんてつまるところ、自己愛と自己承認欲求のための行為だよね」

と、しばらく前に、男友達と電話でそんなディープな話をして、その時はすごく

スッキリしたのですが、私の周りの多くの女性の友人が、それに賛同しないことは

わかっているし、だから結局また、自信の無さが戻ってきてしまいました。

 

でも、本作で、ネオリベ女子が陥りやすい優等生シンドロームとして、(個人的には

ネオリベ推奨派では全くありませんが、優等生であったとは自認しています。)

承認欲求が語られていてハッとしました。

大学で学生を教える仕事も持つ彼女たちは、

「学生の幼児化」に言及し、

「褒められたい”子ども”のまま」「子供部屋から出たがらない」大人が増えている

ということを、承認欲求の強さの要因のひとつとして挙げています。

耳が痛いですね。

彼女たちが対談していた2012年前後なんて、まさしく学生していたし。

でも我ながら、それは自分自身にも、正直自分の親世代にすら感じていました。

ネオテニー”という言葉を本作で学びました。

ネオテニーのまんま、子どものまんまでも生きていける社会を作ってしまったのが

戦後日本なの」だ、思考停止社会だ、という上野氏の言葉に、Maturityが日本人から

欠如しているのは、感覚的に感じ取れていて、それを見事に言語化された感じがして、

胸をつかれました。

それが、いい子いい子されたい承認欲求にも繋がっているのだと読み取れ、私の

この欲求は構造的なものにも起因し得るとわかって、いつまでも子どもの自分に焦りは

大いにありますが、それでも必要以上に自分を責めることはやめられる気がします。

 

もう「それそれ!そういうことよ、私が言いたいのは!」と大いに納得したのは

彼女たちがいう「ロマンチックラブ幻想(=オウム(真理教)幻想)」

私はあなたを一生愛するし、あなたも私のまるごと全てを受け止めて...!

という、ちょっと宗教チックなやつです。

でも日本の結婚制度のメインストリーム思想ってこれに基づいていますよね。

言ってみれば、承認欲求の最たるものなのでしょう。

韓国ドラマ含め、フィクションでよくあるのはわかるし、現実で得られないからこそ

妄想とフィクションにそれを求めるしかないのもわかるんだけど、求めれば求めるほど

不毛なやつです。

個人的に映画にしろ何にしろ、コメディ要素のないラブストーリーが苦手なのは、

あり得ないことを、オモシロとか何もはさまず、ピュアに描こうとするのが、なんか

傲慢というか、もはや暴力的に思えるからなんだろうな。

自分で自分のことを受け止め切れないのに、他人に受け止めてもらおうなんて依存性

どっぷりの妄想を、女だけが生き永らえさせている、という上野・湯山の分析は、

それを現時点で求めていない私をとても肯定してくれた気がしてほっとしたのでした。

 

私自身は、相対的には性の会話、性についてオープンであると自認があります。

とはいえ欧米ドラマやら映画に出てくる女性たちのように(現実世界にもいるのかな、

ああいう女性たち。ああいう友人関係が羨ましい)、大人のオモチャをプレゼント

し合えるほどにオープンではありませんが。

それでも、「マスタベーションの頻度は?」に対して

「え~、そんなのしないよ~!したことないよ~///」とか、

「最後にシたのは?」と聞かれて

「...内緒。笑 でもほんと長いことしてないよ」とか

答えてくる女性は、ぶっちゃけマジでlameすぎて、こちらが返答に困ります。

相手のそのつまらなさを知りたくなくて、基本的にそんな質問を女性にすることも

ないですが、まあ物寂しいものですよね。笑

その現象について、このお二人は、

性欲と恋愛は別腹、マスタベーションと他者とのセックスも別腹で認識したほうが

自然なのだが、自分の性欲は男のためにある、マスタベーション=男に選ばれない者の

代用品、惨めなセックスというイメージがまだまだ刷り込まれている

と語っています。

あと、挿入至上主義についても興味深かったですね。

私もアンチ挿入至上主義ですが、「俺を勃たせられないのは女じゃねえ」的刷り込みも

男女双方にあって、それが互いの首を絞めている感はありますよね。

もっと広い視野でセックスを見たほうが明らかに楽しいし幅も広がるのに。

そして、本作には、このセックスの話をきっかけとして、「予測誤差」というのが

キーワードになっています。

マスタベーションでは得られない”予測誤差”があるからこそ、セックスはもちろん、

社会も人生も面白いのではないか、というのが本作の大旨なのですが。

パートナー以外にムラムラする(男性でいえば勃起する、しそうになる)ことは、

(食べ物に例えられていたのがわかりやすかった、食べ慣れたものより、食べたこと

のないものに唾が湧くと書いてありました)予測誤差があるからこそで、それこそが

刺激が強く豊かな人生を構成し得るセックスなのに、それを「結婚」というもはや

制度的に疲弊、破綻した専属契約に自ら縛られる(なぜなら思考停止していて、

人々が子どもだから、複雑な関係性に耐えられない)ことをあえて選んでいるのは

ないか、ともありました。

 

私が日々、感覚的に、そして感情的にセックスと恋愛、男女関係について認知、認識

していたものをここまで気持ちよく言語化してくれるとは。

先述の通り、共感を重視はしなくても、皆無はやはり堪えるもの。

実世界で得られない共感を、本作から得ることができました。

時々、自分の恋愛や男女の人間関係に悩むことがあれば、これから読み返せる本が

できた気がします。

約10年前の作品ですが、(ただ私の勉強が追いついていないだけなのか)、全く

色褪せることのない言葉で、爽快に日本社会について語ってくれています。

フェミニストでなくても、文化人でなくても、ぜひとも読んでほしい一作でした。