Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 5th Book> 白い人・黄色い人

スタートダッシュしすぎたのか、最後の更新から間が開いてしまいました。

「白い人・黄色い人」(新潮文庫 著:遠藤周作


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https://www.shinchosha.co.jp/book/112301/

 

時々はこうした、純文学というのでしょうか、近現代文学を読むようにしています。

本当はもっとたくさん読みたいし、祖母宅から少しずつ許可を取って盗んできている

筑摩書房の各文人の全集も手元にあるのに、なかなか手が伸びません。

読むのに時間もかかるし、気合いが要りますからね。

やはり娯楽性のある小説、読みやすい内容に目移りしてしまうものですね。

 

何半世紀からそれ以前の人種差別がテーマなのだと思い込んで手に取りました。

が、どちらかというと宗教的要素が強いものでした。

「白い人」と「黄色い人」、全く別々の作品です。

考えてみれば、恥ずかしながら、遠藤周作の作品は初めて読んだ気がします。

彼自身が、当時では比較的稀なのでしょう(当時に限らず今の日本でもでしょうか)、

カトリック教徒だったのですね。

 

ミッション系の大学を卒業したのですが、またもお恥ずかしいことに、未だに聖書も

読んだことはありません。

宗教書も純文学同様、教養のために、と手を伸ばしては、後回しにしている積読本と

化してしまっています。

映画を観るのも好きだし、こうして海外で生活し、外国人と関わる機会も多いので、

宗教とその背景にまつわる話がわかれば、会話の理解も深まり、更にに言えば、

笑える冗談の幅も広がるのでしょうが、日本人として育った私としては、どうしても

唯一神の信仰というものに、何とも形容し難い感情を抱いてしまいます。

 

本作品は、そうした日本の宗教観を、著者が日本人(黄色人)のカトリック教徒

である視点から描いたもののように感じられました。

「白い人」にも「黄色い人」にも、もう異端者といっても過言ではないでしょう、

が主人公(「白い人」では仏人、「黄色い人」では日本人と仏人)として登場します。

そして彼らの周りにいる神に仕え、神に忠実な人物たち。

宗教的設定が無ければ、本作品は成り立たなかったとはいえ、それでも主人公たちの

ヘドロのように生臭く醜い感情の描写には、真に迫るものがありました。

そしてそれは洗礼を受けている者としての設定だからこそ、彼らの言動の醜悪度合いが

余計に際立っていたように思えます。

それがまた、生きている人間としての躍動感を与えているようにも読めるのです。

人間は葛藤するために生まれてきているのだろうか、とさえ思わされるのです。

 

そのように懊悩している主人公の周りにいた、「黄色い人」の日本人の描写が大変

興味深い。

元神父である異端の主人公が、町中の日本人たちを眺めて、神を信じていない人々が

屈託なく生活をしていることに最後に気付いたのです。

彼ら(白人)が思い描く神は、白人の唯一神

その信仰の洗礼を受けた自分は、神の思し召しに沿うも沿わぬも、その意図の存在を

否定して生きることはできない。

その枠に嵌まることなき日本人(黄色人)への羨望の念とも取れる描写がありました。

日本人であり、カトリック教徒であった著者だからこその発想、視点だったのかも

しれません。

 

私はむしろ唯一神への信仰に(もちろん畏怖もありますが)憧れがあります。

人生の、考え方の軸が最初から与えられているのではないか、と思うのです。

何かに悩み、迷ったら、立ち戻って考え直す場所が確保されているということは、

(このようなことを言ったら信者の方々から批判を食らうかもしれませんが)

とても生きやすいように思われるのです。

宗教ってそういうものなのかな、とも思うこともあるのです。

 

日本人として生まれ育つと、宗教の話題に必要以上に敏感になる気がします。

たとえば、めちゃくちゃ世俗的ですけど、マッチングアプリとかでさえ、

宗教を聞いてくる。

外国で暮らしていると、信仰の話に触れる機会も多く、宗教を聞かれると、正解が

わからなくて戸惑います。

私は何?仏教?神道無宗教?スピリチュアル?その他?え、その他って何よ?

みたいな。

日々の星座占いは信じないよ、とかいう見当違いのことを言い出しかねないくらい

頭の中がハテナだらけになるのです。

結婚式はチャペルでやる人もいれば、お寺や神社で執り行う人もいる。

どの儀式が真っ当かより、何を着たいかによって、場所を決めているように見える。

お葬式も、お寺が多いのかもしれないけれど、宗派が何かはわかっていれど、

その具体的な違いなんてわからないですし。

神仏分離なんて、結構迷惑な政策だったんじゃないかとさえ思えてしまう。

だって、私、現代の仏教と神道の違いなんてそんなにはっきりわかんないです。

仏教よりは神道のほうが神話とかたくさんあって面白そうだな、とかそんな稚拙な

イメージしか浮かびません。

この曖昧さ、白黒つけたがりの私にとっては、とても厄介です。

宗教という軸があれば、自分の中の軸ができるだなんて調子のいいことは思いませんが

自分を構成する要素になり得るものが決定的に欠けているようにも感じられるのです。

様々なSNSや、マッチングアプリ、その他アンケートなどで一番時間がかかる回答は、

宗教についての質問で、どれに答えても自分の中で「正解!」とは言えないんだよな。

 

だから、唯一神の信仰へ憧れると同時に、やはり何となく恐れも感じるのです。

目に見えないものを無条件に信じる、触れないもの、会えない人へ無条件の愛と

忠誠を誓うってどんな感じなのでしょうね。

目の前にいる人でも私は信じられないし、物理的に可能でも触りたくない人もいるし、

愛するなんて決断も覚悟も、自分に対してすら難しいのに。

「私はキリスト教徒です」「ムスリムです」などなど聞く度に、私にはできない何か、

私が得てこなかった何かを、成し遂げている人々に聞こえるんですよね。

そしてそれって、努力とかで得られるものではなくて、遺伝子とか出自とか、もう

生まれながらに得ているものと近い感じがするんです。

だからその人たち自体がみんな、私にとって神格化されるような妙な感覚を抱きます。

これが異端というものなのでしょうか。

 

とてもデリケートな話だから、宗教について書くのは難しいですね。

自分の中で「よくわからないもの」にカテゴライズされているから、感情的に書く

こともできないし、知識経験も無さすぎて、思考を深めることもできない。

 

ところで、先日、日本にいる友人と話していて、私の性格・人格は、かつての

文豪たち(誰に近いのかはまだわかりません)のようだ、という話になりました。

そりゃあ彼らに会ったこともなければ、彼らの作品はまだまだ読まなければならない

と思っているので、一概には言えませんが、つまるところ、私は生真面目で煩悩を

抱えて悩むのが趣味だからで、それがいわゆる文豪たちに対して世の持つイメージと

似ているということなのだろう。

どうせ文豪っぽいなら文学作品のひとつでも書ければいいんだけど、人生、そうは

問屋が卸さないってやつなんだろうな。笑

自らの欲望にある程度忠実で、きっぱりさっぱりした明るい性格からは程遠いのです。

だからなかなか器用になれず、不器用でどんくさい。

とはいえ、さすがにそんなヘドロのドロドロを、いきなり目の前でドバドバと出さない

くらいの技能はマナーとして身に付けているつもりです。サラリーマンだし。

知り合って間もない人からはサバサバしているなんて、よく言われるけれど、それは

あくまで他人事だからそういった話し方なり言動なりをすることができるのです。

自分事になればもう大変。

ああでもない、こうでもない、なんであの人はあの時に私に対してこういう発言を

したのだ、その発言の源はあの時の私のこの言動か、それに対して私は今どういう

感情を抱いているのだろう、、、と、自分にとって嬉しいことであろうと、反対に

好ましくないことであろうと、頭は常にフル回転、疑問と回答で枚挙に暇が無くなる

次第です。

別に私の周りも世の中も、私のことなんて大して気にしちゃいないのもわかってるの

だけど、止められない止まらない。

自己愛が強いんだよな。自分のことで頭がいっぱい。

だけど、私が気にしなければ、誰が私のことをここまで気にしてくれるの?

私は、かまってちゃんが過ぎる私自身を構うのに精いっぱいです。

それって、現代を生きるにはとても面倒だし、むしろ現代人としては全く魅力的

ではないのではないか、とまたも文豪たちがしてきたであろう(と想像する)ように、

悩んでも仕方ないことで悩んだりしています。

くよくよしたり、溜息をつきながら考えることも時にはあるけれど、それよりはむしろ

無意味な探求という作業のほうが多い。

生産性については聞かないでくれ。野暮です。そんなものは存在しない。

それで幸せになるかも聞かないでくれ。幸せになるための行動ではない。

合理性のないことを、合理的に考えようとする矛盾を楽しんでいるのであって、

それがまたいわゆる中二っぽいというか、文豪っぽいというか。

仕方ないですよね、性格だから。