Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 34th & 35th Book> 授乳 & マウス

本年の読書活動の調子はイマイチの滑り出しです。

 個人的には絶望を感じざるを得ない二作品でした。

 

「授乳」「マウス」(講談社文庫著:村田 沙耶香

f:id:kanaebookjournal:20210221181020j:plain

 https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000205352

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000184375

 

初めて読んだ作品は、おそらく彼女の最新作の「丸の内魔法少女ミラクリーナ」

村田氏の発想と、描写に衝撃を受けたものでした。

今回、この二冊、短編集の「授乳」と長編の「マウス」を読んでの感想は、

THE現代文学

娯楽というよりは、村田氏の作品は、文学的小説であるように感じました。

彼女の描写を頭の中で想像すると、何とも言えない、気持ち悪い気分になるような、

それでいて頭の奥が快感で僅かに麻痺するような。

人物描写がとても曖昧で、感覚的で、アーティスティックでありながら、情景描写が

緻密だから、その場面が目の前にあるかのように浮かびます。

登場人物の多くが、自分の世界観を強く持っており、そこに住まおうとしたりしている

ので、浮世離れしたような、ちょっとinsaneな感じの人が多いのですが、その各人に

根付いた強固な価値観が、とても魅惑的なのです。

 

「授乳」の解説に瀧井朝世氏も書いていましたが、村田氏の作品には、ことごとく

女性性を排除しているものが多いようです。

「丸の内魔法少女ミラクリーナ」の各作品も、男性性、女性性をトピックとして、

それを否定しているものもあり、感激したものでした。

私がフェミニストである、そうありたいと思いながらも、日々悶々と心のうちに

抱える葛藤は、ぜひ読んでほしいと押しまくった「男尊女子」でも書きましたが、

村田氏の作品は、性別を超越するものが多く、私が抱える葛藤があほらしく思える

ほど痛快だったりします。

自分の母親を嫌悪し、母性を全否定する「授乳」、恋愛感情も、性的魅力も対人間に

ならない小学生と大学生を描いた「コイビト」、くるみ割り人形のマリーになりきって

現実世界を生きる瀬里奈と、現実世界での”無難”を演じきる律の友情を描く「マウス」

いずれも女性が主人公でありながら、決して現代をとりまく構造に媚びない、それに

飲まれない。

各人とも、冷静に現代の状況を観察した上で全否定するか、現実を見ることすらせず

逃避するかのいずれかの選択を取っているのです。

私が未だに克服することのできない葛藤は、あほらしいかもしれないけれど、真っ当だ

とも実感させられます。

ここまで拒絶するか、逃避するかをしないと、女性として生まれてしまった私は、

「女性性」から解き放たれることはないのか、と。

全否定するか、狂気の中で生きるか、いずれかの道しか、私が単なる”女性”から解放

され、”人間”として生きていくことはできないのか、と。

常々私が思っている、「私は女性である前に人間だ」という方程式は、実は全く

解もなければ、前提が誤っているのではなかろうか、と。

”女性”と”人間”は、現在我々の生きる現実世界では、構造的にもはやパラレルワールド

に住まう別々の存在なのか、とさえ思えて、若干の絶望すら感じてしまいました。

ジェンダーロールが、もはや宇宙人と地球人並みに異なる人種を作ってしまっている

のではないか、と非常に危惧していますし、そのジェンダーロールにうまくはまれない

私は、あほらしくもあり、不器用でもあり、そして正しい危機感も持っており、

正直、本二作品を読んで、とても混乱しましたし、心がかき乱されました。

それでも、現代社会に生きる私は、自らがほんの僅か持ち合わせる女性性でなんとか

やりくりして、現実に迎合しようとしているんです。

 

現状況を否定して生きることもできない、変えていくパワーもない、だからといって

迎合もうまくしきることができない。

そんな現実を本書を読んで突き付けられた気がして、学びがあったとともに、

小さな絶望が心を満たしていったような気がします。

 

<The 33rd Book> 彼女の名前は

次年含め、今後も声をあげよう、このブログを続けていこう、と思わせてくれる、

今年最後に読了するにふさわしい作品でした。

 

「彼女の名前は」(筑摩書房著:チョ・ナムジュ   訳:小山内 園子、すんみ 

f:id:kanaebookjournal:20201230224952j:plain

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480832153/

 

以前も本ブログにて紹介した、フェミニズムの代表作のひとつとも言える

「82年生まれ、キム・ジヨン」著者のチョ・ナムジュ氏が書いた短編集です。

上述作品は、映画化もされ、日本での公開時には、日本版の映画ポスターや、

映画に関してのワイドショーコメンテーターらの意見や反応が波紋を呼んでいた

記憶があり、それらに対して、ため息が出た記憶があります。

著者が多くの女性に取材をし、おそらくそれらの実話を元に書かれた本作。

行き過ぎた家父長制。過剰に求められる性的役割。性暴力。生理用品も買えない貧困。

読み進めるのが簡単ではないエピソードも少なからずありましたが、

韓国の女性たちのひたむきでありながら、揺るがない強さを目の当たりにしました。

自分たちの置かれている現状、現況を客観的に把握し、それがいかに人道的、合理的に

考えて理不尽であることかを実感し、逆境に負けじと声をあげている。

韓国の政治には明るくありませんが、よほど日本の民主主義よりしっかりしている

(もはや比較するのは韓国に失礼かもしれません)ように感じられました。

読んでいて、デモが多い印象を受けましたが、決してそれは悪いことではありません。

少なくとも、事なかれ主義でもなければ、なおざりにしない、不正には異議を示し、

人権や自らの権利に関わることについては主張を辞さない姿勢は、怠慢からは程遠い

ものです。

自らの世代で必ずしも変わるとも言えない、自らがその権利を享受できなかったと

しても、後世にそれを残したくはない、という当事者意識の強い韓国の女性たちの

明確な意志がひしひしと伝わってくる作品です。

15~20年前くらいから、韓国ドラマが日本で流行り始めましたね。

フィクションであるそれらのドラマで描かれていた多くの韓国人男性は、亭主関白で、

家父長制が日本以上に強く根付いているという印象でした。

そんな韓国におけるフェミニズムの昨今の台頭は目を見張るものです。

今年の日本のジェンダーギャップ指数は世界121位、言うまでもなく韓国より下位、

G7国の中では圧倒的下位です。

おかしいことを「おかしい」と言える。欲しいものを「欲しい」と言える。

そして、それらのために実際に自ら活動する韓国の女性たちに感銘を受けました。

本当は、男性にも気付いてほしい。男性にも言ってほしい。男性にも動いてほしい

それでこそ、後世に繋げられる何かであるはずなのです。

韓国はもう一歩、もう二歩なのかもしれません。

日本は、あと何歩?気付いていますか?言えますか?動かないんですか?

私はいつも、まず不利益を被っている女性で気付けるはずの人たちにもどかしさを

覚えてしまい、その不利益を当然のものとして男性が享受しているこの構造に、

どうしても我慢がならない。

隣国で踏ん張り、頑張っている女性たちにエールを送りつつも、自分の育った日本の

置かれている状況に、如何せんひどい焦りを感じてしまう本作なのでした。

 

先日、業務秘書がいる日系企業の方とプライベートながらお酒の席を共にしました。

みな同世代です。

社長の傍をつかず離れず、いわば社長業務を代行する業務秘書。

出世頭でもありながら、あまりの責任重大さと、出張の多さ等の物理的体力的負担

から、長年は勤務させないというような裏話も聞きました。

女性の業務秘書の方はいらっしゃったことがあるのですか、と思わず口をついて

出てしまいました。

「さすがにいませんね。総務秘書(多くの人が想像する秘書)はみんな女性ですけど。

業務秘書では、あらぬ疑いをかけられることもあるから、上司側(社長)も部下側も、

希望する人もあまりいないんじゃないかな」とのこと。

あらぬ疑いってなんだよ、と思っていたのですが、つまりは、社内で枕営業をして

いるのではないか、実は業務上どこにでもついて回ることになる業務秘書と社長

(もしくは人事影響力のある人物)でデキているのではないか等、そういう疑いを

社内からかけられ得かねない、ということだったのです。

もう、あまりに色々と私の感覚からかけ離れていて、思わず、

「いやいや、もう意味がわからないでしょう。それは明らかにその社内マインドが

おかしくないですか」

と、他社のお話なのに思わず声を荒げてしまいました。

頭の中にいくつものハテナマークが浮かんできたんですね。

ーそもそも、性自認性的指向に関しての配慮が皆無。

 社長にしろ業務秘書にしろ、なぜシスジェンダーヘテロだと言える?

ーデキていたとしても、本人たちの問題で、その会社で必要とされる責任が各役割で

 しっかり果たされているのであれば、周囲がとやかく言うものではなくない?

ー周囲がとやかく言うことがあったとしても、それを理由に、性別問わず、優秀で

 適任だと思われる人材を、その場に配置しないという感情的な決断って会社として

 頭おかしくない?

ーてか、総務秘書に男性はいないのかよ!?なんで???そもそも社長も歴代男しか

 いなくて、今後のことについても男性社長であることが前提でお話されています

 よね(笑)

などなどなどなど、もう私の頭の中はハテナだらけでした。

私の声を荒げてしまった発言に対して、その場にいた人たちは、

「...いやいや、でも(そういう周囲の邪推)あるって(苦笑)」

って感じでしたが、もう私からしたら

いやいやいやいや、それ支離滅裂、単純なものを複雑にしているだけでしょ!?!?

その無駄で不毛な複雑さが伝統として踏襲されてきたという理由以外に、特に

その選択肢を選ぶ理由なんてないんだろ!?!?!?

と、もう疑問と怒りでいっぱいです。

苦笑されて、その場をそれで流してしまったことに後悔をしています。

そのままでいいの?

世の中そういうもんだから、って笑って流せることがオトナなの?

その世の中に欠陥があるとは思わないわけ?

流すことができる人が面倒くさくないヤツ、話のわかるヤツなわけ?

こうして書いているだけで、悔しくて、悲しくて、怖くて、涙が出そうです。

日系大企業に勤めてらっしゃる方々なんだから、日本の学歴社会であることを鑑みれば

勉強ができるのであろうことはもちろんのこと、頭も良いのでしょう。

歴史ある会社で、これまでの日本経済を牽引してきたと言っても過言ではない会社の

同世代の方々からのこの完全なる思考停止発言、看過できませんでした。

これからもきっと、日本社会を、経済を引っ張っていくんですよね?

なのに、そこで勤める若手~中堅社員のマインドセットがこれか、と。

バブル世代からのアップデートが為されていないのか、と。

その会社だけではない、おそらく未だに新自由主義で突っ走ろうとしている日本社会

では、多くの日系企業が同様でしょう、私が勤める会社も言うまでもなく同様です。

学ばないことが良しとされる、推奨される社会となっているように思えて、最近は

恐怖を覚えるようにもなってきています。

本作の勇気ある女性たちの数あるエピソードに触れて、その焦燥感、不安感、恐怖感が

更に増しました。

励まされるというよりは、それを通り越して、急かされている気分にもなりました。

 

上司だから、お客さんだから、そんな私の利己的な理由で、声をあげるべきときに、

言うべきことを言わなかった場面が、本当はもっとたくさんあります。

ジェンダーは、社会を構成する数ある概念のひとつです。

本作は、そのジェンダーの観点から、女性が主役の作品です。

本当は、ジェンダー関係なく、どのような社会が理想的か、社会を構成する各人が

考えて、発言して、行動していけるような世の中になってほしい。

今は、その余裕がない人が多すぎる。

余裕がなくなるように、諮られているようにさえ感じる。

今は、私は考える余裕があります。

というか、思考が趣味のようなものですので、思考しないことはありません。

今年一年、少なくともジェンダーについては、昨年より学び、考えてきたので、

私の中で、ジェンダーの観点から望ましいと思われる社会の姿が見えてきました。

来年は、その学びからの信念に基づいて、相手が誰であろうと、言うべきことを

その場で、少なくとも今よりは言えるようになりたい。

そして、ジェンダー含め、本から得た学びを、こうしてまた読書記録として綴って

いきたい。

多くの人に影響や共感を与えたりするものではないかもしれないけれど、それが私の今

できること、やっていきたいことだ、と本作の女性たちが気づかせてくれました。

<The 32nd Book> ガーデン

少年時代に過ごした、とある南国の自宅の庭にずっと恋焦がれる雑誌編集者が、

周囲の女性たちとの様々な関係から、自分を見つめなおしていく物語。

自我がない、自我をなくして、溺愛している植物のように生きようとしている主人公。

植物の描写も、人物描写も、まるで絵画を見ているかのような作品です。

 

「ガーデン」文春文庫著:千早 茜

f:id:kanaebookjournal:20201213165735j:plain

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167915407

 

とある貧しい南国で少年時代を過ごした、雑誌編集者の羽野。

当時の自宅には、美しい庭があり、そこが彼の世界の全てで、彼の楽園でした。

モデルのマリ、バイトのミカミさん、最近結婚した契約社員の女性、同期のタナハシ、

高津副編集長、行きつけのバーの緋奈など、必ずしも深い関係とは言えないながらも、

周囲の女性陣たちの変化を感じつつも、ただひたすらに植物を愛する主人公。

帰国子女であることを隠し、誰とも深い人間関係を築こうとしていませんでしたが、

取材相手の建築家の愛人であり、ニューヨーク育ちの理沙子と知り合い、自分の世界観

が揺らいでいきます。

 

千早氏の作品は、以前、「魚神」を読んだ記憶があります。

文字を追う度に、脳裏に浮かぶ映像が、「魚神」も本作も、まるで絵巻物を見ているか

のように美しいのです。

色の描写がエッセンスになっているからかもしれません。

私は普段、コミュニケーション自体もローコンテキストを好むので、言うまでもなく

言葉で物語が紡がれている小説も同様に、定義づけや意味の付与が為されている作品、

それをうまくできる作者のものが好きです。

千早氏は、言葉や文章で絵を描いているかのような表現をしますが、これはこれで、

何となく自分の感受性に共鳴するものがある気がして、とても好きです。

言葉ってすごいな、と改めて思います。

言葉で表現できるものって、理念や概念だけではないんですね。

言葉で絵も描けるんだなあ、と本作を読んで感じました。

 

これと言って、それ以外に感激ポイントは個人的にはない作品だったのですが(笑)

この羽野という主人公、むかつくことにモテるんですよ。

スマートでミステリアスという印象も与えるのかもしれないが、私からしたら、

すぐに植物に逃避しようとするへたれで、好きになれない。

自分は逃避するし、そうできる場所を作っておいて、公然とした真理を、女性陣たちに

心なくつきつける場面がいくつかあります。

「ねえ、羽野さんって、ちょっと人を見下してない?」

とモデルのマリから言われ、

「見下す以前に、人は平等じゃないよ。そんなこと小学生でも知ってる」

と返し、喋りすぎたと自省する羽野。

基本的に築く人間関係において、「面倒だから」に基づく、守りと逃避の姿勢しか

ないんです。

守るのも逃げるのも、いけないことでは全くないですし、時に必要ですが、それしか

ない、それを最重要視するコミュニケーションスタイルは納得できない。

なぜならそれは、より誠実な人を傷つけます。

自分自身は、自分のコンフォートゾーンから絶対足を踏み出さないで静観していて、

普段は適当に笑って会話を流しているくせに、重要な局面で、その人が言われたくない

真実をずけずけと言ってのけるんです。

私もどちらかといえば、必ずしも人が欲しいと思っている言葉を与える人間では

ありません。

むしろ、褒め言葉の搾取は許さない、という確固たる意志があります。

私は、私の言葉で相手と対話したいから、そうやすやすと耳障りのいい言葉ばかり

与えることはありません。

私もそんな都合のいい言葉ばかりいらないし。

コミュニケーションを取る際、立場とか社会的地位とは別に、常に人として対等な状態

でないと、実のある対話はできませんし、私は常にそれを意識しながら話しています。

対等でない場合は、視線を合わせる、前提を合わせる作業が必要です。

それをしない、できない相手とは、私はコミュニケーションを取るつもりはない。

私が傷つきますから。

だけど、この羽野という主人公は、植物に囲まれた自分のお城から決して足を

踏み出さずして、達観したような視点でわかったようなことを言うんです。

挑戦もしないで最初から諦めて、ずるくて弱い人。

そこが作品趣旨でもあると思っているのですが。

 

数日前、早速また手術を終わらせてきました。

タイに入院手術をしにきたかのような、この1年の怒涛の病院通い、入院履歴と

なってしまっています。

それなりに仕事もしているつもりだし、元気な時は楽しんでもいますが。

タイの医療技術は観光医療実施国だけあって、やはり優れています。

今回お世話になった婦人科の先生も、今までかかったどの国の先生よりも良い先生に

当たったなあ、と思っています。

おかげさまで、本調子とは必ずしも言えないものの、ほぼ普通の生活を明日より再開。

何度も言うほど全く好きになれないタイですが、医療に関しては、心から感謝。

<The 31st Book> PACHINKO (パチンコ)

オバマ元大統領も推薦しているという宣伝文句に手を取った本作。

在日コリアンの壮大な家族ドラマとなっています。

コリアンが英語で執筆した本作ですが、在コリアンの小説です。

ぜひとも日本人の多くに読んでほしい。

知らないことも、考えたこともないことがたくさんあって、恥ずかしくなりました。

 

「PACHINKO(パチンコ)」上・下巻(文藝春秋

著:ミン・ジン・リー   訳:池田 真紀子 

f:id:kanaebookjournal:20201115150654j:plain

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163912257

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163912264

 

1910年代の朝鮮半島を舞台に始まる、コリアン4世代にわたるお話です。

その当時、朝鮮半島は、日本の統治下にありました。

釜山にほど近い影島で下宿屋を営む夫婦の元に生まれたソンジャ。

父親は身体も五体満足とはいえず、風采の上がらない男でしたが、その分、妻と娘を

心から愛しており、3人と下宿人たちとで、決して裕福ではないながらも幸せな

生活を送っていました。

父親亡きあとも、母娘で同様に下宿屋を営みながら、つつましく生活をしていました。

近くに商売をしに来ていた、済州島出身の裕福な(後ろ暗いビジネスをしている)

コ・ハンスと恋に落ち、ソンジャは子供を身ごもりますが、彼には日本に妻と娘がいる

ことが判明し、彼との関係を金輪際断とうとします。

当時のコリアでは、シングルマザーも父無し子も、人間扱いされない、途方に暮れて

いた中、当時下宿屋に客として駐留していた、平壌出身でキリスト教宣教師のイサクが

ソンジャと結婚して、お腹の子供の父親となることを名乗り出ます。

大阪で働く兄夫妻の元への旅中であったイサク、ソンジャも夫とともに日本へ渡る

ことになり、在日一世となります。

渡日から、戦中戦後に及ぶ生活苦、そして在日二世、三世まで続く在日コリアの

アイデンティティにおける煩悶を描いた、超大作の物語です。

 

知らないことばかりでした。

祖母は幼少期からある程度の年齢になるまで、平壌で生活していたと話された記憶が

あります。

乳母がいて、お手伝いさんがいて、それは裕福な暮らしをしていたとのこと。

日本が敗戦したときには、コリアンやロシア人から、(祖母は朝鮮人やら露助やら、

差別用語満載で私に話していました)命からがら逃げだして、釜山へ向かい、

ようやく九州向けの船に乗り、船内で大流行していたコレラにも何とかかからずに

済み、日本へ到着したと言っていました。

平壌から九州への道のりで、どれだけの人が命を落とすのを見たか、それが日常と

なっていたというようなことを話された記憶があります。

その後の彼女の日本での人生も苦労の連続ですが、朝鮮半島にて暮らす日本人という

特権の元、お嬢様育ちであったであろう彼女にとっては、その日本への帰国の旅が、

どれだけ衝撃的であったものでしょう。

また年代も、状況も、ソンジャが日本へ渡った時とは異なりますが、日本人である

彼女がそこまでの苦労をしたのであれば、戦中戦後下に在日コリアンとして日本で

生活するなんて、私には想像もつきません。

 

高校大学の同級生にも、コリアンの友人たちがいました。

在日の人もいれば、留学生もいましたが、日本が加害者であるからなのか、

だからこそしっかりとした歴史教育を受けていないからなのか、何も知らない私は

ただのクラスメートとして接していましたし、他の子たちも同様だったと思います。

でもきっと、彼らは戦前からの日韓日朝関係の歴史を知っています。

ひょっとしたら、その無知であったことが、彼らを傷つけていたのではないか、と

思うと、鳥肌が立つというか、いたたまれない気持ちになります。

この小説を通して、非常に浅いながらも日韓日朝関係の歴史概要を学べたことは

大きかったです。

パチンコ業界はコリアンが強いなんて、恥ずかしながら私は知らなかった。

在日何世かのクラスメートの彼らが、どんな気持ちで生活しているかも知らなかった。

無知は、無神経とほぼ同義であることを改めて思い知らされました。

 

日本が外国人にとって生活しづらい国であることは、日本人である私ですが、

何となくは感じ取っていました。

そもそも、言葉の壁が大きい。街中はほとんどが日本語での看板ばかり。

英語で話しかけても、通じにくいでしょう。

あとは人種。明らかに見た目や肌の色が大多数いる日本人と違えば、それだけで

異質なものとして認識される、差別体質が根付いています。

そもそもが同調や調和が基盤となって社会やコミュニティが形成されており、

その空気感が共有されていますから、その和を乱すものに対しては、排他的な姿勢と

なっていますから、一見して肌や目、髪の色が違えば、言うまでもなく差別されます。

最近、NIKEのCMが話題になっていましたが、日本に人種差別がないなんて、

あり得ません。

数あるNIKEのCMへのコメントをいくらか読みましたが、あまりにデリカシーのない

発言も散見されて、胸が痛くなりました。

人間はそこまで無神経になり得るのか、と。

同調や形式美を重要視するあまり、人種に関わらず、差別体質ができあがっています。

そしてそのような社会に生まれ育った私たちは、自分が差別しているかもしれない

ことを、常に自覚しようとし、意識しなければなりません。

話がそれましたが、在日二世のノアやモーザス、モーザスの息子のソロモンは、

日本に生まれ育っているのにもかかわらず、「日本人」になれない現実を生きていく

ことになります。

朝鮮半島分断前に親が渡日してきているのだもの、自分のルーツである国すら、

よくわからない混沌とした状態になっているわけです。

この地球上に人間として生きていくことは、必ずどこかの国に所属して、何かしらの

言語を母語とし、それらをツールとして意思疎通を他者と図っていくことです。

ある国に生まれ育って、その国の言葉を話し生活していることが、自分の

アイデンティティとして、意思疎通を図っている他者から認知されない、受容されない

場合、一体、その人は何を拠り所にして、自分というものを認知し、理解していけば

いいのでしょう。

31年の人生で、現時点で通算約7年間を私も海外で生活しています。

「今はいいかもしれないけど、日本でそれやったらちょっとアウトだね」と

こちらの日本人の人たちから、服装なり言動なり、今タイで生活していても言外に

匂わせられたり、そのまま言われたりすることはしょっちゅうあります。

私は誰にも迷惑もかけていなければ、傷つけようとしていることもないのに。

それだけで、私は「日本人」失格なのか、じゃあ私は「なに人」なの?

海外で生まれたとはいえ、日本での教育は全て始めから終わりまで修了し、

日本で育った私ですら、ステレオタイプから少し外れるだけで釘を刺されます。

在日外国人、ミックスルーツの人たちは、どんなに肩身の狭い、不快な想いを

していることか。

帰化すれば、日本のパスポートは手に入ります。

法律上は日本人でも、「日本人」にはなれない。

そんな残酷な排他性が、日本には悲しいことに根付いています。

 

「日本人は一致団結して世の中が何一つ変わらないようにしてる。しょうがない、しょうがないと口をそろえて。もう聞き飽きましたよ」

本作の中のとある在日コリアンの発言です。

的確すぎて、読んだ瞬間に胸をつかれました。

しょうがいない、仕方ないマインドというものが、日本人の根底にはあります。

泣き寝入りすることが、求められています。

何かが起きても、改善するのではなく、現状維持することをまず考える。

その現状が明らかに異常であっても、見なかったふりをする。

見えていたとしても、「仕方ない」といって変えることを拒む。

今の日本政治も、変わらないことに固執する権威主義体制にしか見えません。

この言葉は、如実に今も続く日本の現実を、如実に表現しており、耳も心も痛く

なりました。

 

余談ですが、訳者の池田さんは、私の大学の学部学科ともに先輩であることを知って

妙に親近感がわき、キャリアも含め、色々と考えさせられました。

こうして、愛する母校の卒業生が活躍していることはとても励みになりますね。

 

さて、またも本作を読み終わったのはしばらく前なのに、ブログ更新に時間が

かかってしまいました。

先月はお誕生日があって、お祝いしてもらえる友人たちがいて忙しく過ごし、

今年の誕生日は入院することもなくほっとしつつも有難く思っていたら、

なんとまた明後日から、入院手術です。

約6年前に手術した後遺症のような嚢胞が卵巣にできていることが発覚しました。

つい3か月前に別部位の手術をしたばかりなのに、また手術か、とさすがに気が

滅入って、涙した日もありましたが、こればかりは「しょうがない」。

日本の今後の未来を考えるなら、現思想、体制にメスを入れるのは必至かと。

母国のためにも、改善のための「しょうがない」を言っていきたいものです。

<The 30th Book> 不実な美女か 貞淑な醜女(ブス)か

通訳という仕事について書かれているエッセイの本作ですが、書いてあることのほぼ

全てが私の思考、コミュニケーションスタイルのエッセンスにまつわるものでした。

感銘を受ける、といことを久々に体感した本かもしれません。

とにかく内容が濃い。

一字一句として無駄は無く、だからこそ一文一文の理解を確かにするために

意味を噛みしめながら読んでいった作品です。

筆者のような通訳として有名で、頭脳明晰な人物が、私が日々思考していることに

ついて、ここまで余すところなく言語化してくれていることが嬉しくもありました。

日本人が日本語で書いたエッセイですが、読むのに大変な時間がかかってしまった。

 

「不実な美女か 貞淑な醜女(ブス)か」新潮文庫

著:米原万里

f:id:kanaebookjournal:20201023194247j:plain

https://www.shinchosha.co.jp/book/146521/

本作題名自体は何とも刺激が強いものですが、読んでいけば、つまりは筆者が

通訳という職業についてどう向き合っていくかという姿勢の話です。

原文(つまり原発言者の発言)への忠実性と、訳出文の美しさのバランスについての

葛藤が、通訳の対峙する、し続けるジレンマのひとつであるということでした。

サラっと書いてしまうとそれまでですが、それも本作の一部のお話で、もちろん

その他、彼女の本業である通訳という職業を通して、言語というものに向き合うこと

によって、物事の本質についてを考え、それをまた言語化してくれている作品でも

あります。

写真でおわかりになるかもしれませんが、思わず付箋をぺたぺた貼り付けてしまった、

文庫本に付箋を貼るなんて初めてかもしれません。

米原万里氏の作品は、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」が初めて読んだもので、

出会いは中学生の頃だったでしょうか。

あれは初めて感銘を受けた作品といっても過言ではないかもしれません。

彼女が少女時代に過ごしたチェコソビエト学校で、仲良しの友人たち、特にアーニャ

と過ごした日々、大人になって再会したときのエピソードなどが綴られていますが、

東欧、ソ連にとって激動の時代であったこともあり、国とは、社会とは、そこに

属する自分とは、ということが語られている話であったと記憶しています。

そして、本作は通訳という仕事を通して、それを語ってくれている作品であり、

意図せずして(していたかもしれませんが)読者にも考えさせてくれるものに

なっています。

 

とりあえず、まずフェミニストとして書いておきたいのは、本作の題名についてですが

米原万里のような、グローバル人間(本作を読了後に、彼女を表現するのにこのような

陳腐な言い回ししかできない自分の語彙力の無さを呪いたくなりますが)が、

女性の見た目を、しかも美醜について堂々と作品名とするなんて!と目を疑いました。

ですが、さすが米原氏、訳文について女性の容貌をたとえとすることについても

しっかり解説してくれていました。

仮にこのタイトルを男に置き換えても、しっくりこないですよね。

それだけ女性がルッキズムの餌食となっている、というようにも解釈されて、氏が

言うように大変癪ではありますし、得心はいきませんが。

 

私は日本語以外に話せるのは、アメリカ(風)英語です。

ですが、多くの日本人より少しだけ得意、というくらいで、英語母語話者と同等という

わけにはもちろんいきませんし、通訳翻訳なんてもってのほかです。

(今回は書きませんが、米原氏は本作で、通訳と翻訳の性質の違いも多分に説明

してくれており、それらも人間の思考プロセス全般を鑑みると、変興味深いです。)

(そして、私が少し英語が人より得意なのは、何より日本語の習得に力を入れてきて

いるからなのかもしれない、とも学びました。第二以上言語の習得度合いが、母語

習得度合いに勝ることはないとの解説もありました。)

そんな私ですが、本作を以てまず感じたことがあります。

私は日々通訳をしている

 

どういことかといえば、私は思考が趣味のようなものですので、それをこのブログも

然り、他人との会話などで、アウトプットすることが、必要かつストレス解消かつ

私の思考活動に必要なプロセスです。

私は日々外界から見て聞いて感じ得たものを、自身の内側に取り込み思考し、私風に

仕上がった見解を外界へフィードバックするという、サラリーマン風にいえば、そんな

PDCAができあがっています。

そのプロセスは全くもって、通訳と共通するものであることを本作で知り、衝撃を

受けました。

 

A. 外界から「あまおう」という概念、刺激を受ける。

B. 「すごく甘くて美味しいいちご」として私は認知する。

C. あくまで私が認識している限りでの受信者の、総合的な知識経験、物事の考え方に

 基づいて、ある言葉を得たときに、「あまおう」という概念(≒私の認知)を、

 私と限りなく近い認知(B)を得られる言葉を考える。

D. 「〇〇〇〇ないちご」として発信する。

 (〇〇〇〇は私が考える受信者の知識経験人間性に基づいて変わる。

たとえば、「ハイブランドで高価ないちご」とかになったりする。)

 

もちろん通訳では、多言語同士のコミュニケーションなわけで、更に米原氏が

(様々な通訳の例や小噺を織り交ぜながら)説いているように、その言語というのは

国や民族の文化に密接にかかわっており、その文化無しに言語の習得というのは無理で

あるため、より複雑なプロセスを呈しているのは言うまでもありません。

が、こうは言えないでしょうか。

私は、私という民族が背負っている、私色の文化を所持しており、

私という人物それ自体を

あなたという民族が背負っている、あなた色の文化を所持している、あなたに

「言葉」を通して伝えようとしている。

これって通訳なんだと思うのです。

 

そしてこれが私のコミュニケーションスタイルです。

言語化したい。言語化してほしい。

あなたの思考を、あなたという概念を、あなたの本質を私に教えてほしい。

会話をする人、会話をすることになるであろう全ての人に全力投球です。

従って、その人の名前や住まいなど、記号的なものは、その人自身のことをより深く

知り、私自身の中でその人への興味が深くなってから、自ずと情報として入ってくる

ものであるため、私にとって重要事項ではない故、なかなか覚えることができません。

その人自身の概念を探ろうとするがため、記号的なものに脳みそを割く余力はもちろん

なく、興味を失った対象に対しても同様です。

 

相手の人生経験や知識などに基づいてフィルターされた視点から見たときに、

私は、私という人間を、私が見ている私とほぼ同じ状態(私の本質)で見てほしい。

いかにそれを適正で的確な言葉で伝えられるか。

物心がつき、そして言葉(日本語)に興味を持ち始めてから、常にそこに注力を

しており、全力で臨んでいます。

 

そうなると、否が応にも言葉が多くなる。

米原氏は、以下のような述懐を本作でしています。

「すでに分かりきっていることをくどくど言うような人は教養がないとか、出しゃばりとか、余韻がないというふうに受け取られる。要するに日本式の美学に反する。(中略)いつの頃からか、日本人は、その苦い失敗の経験から自らに対して『非論理的』という烙印を押してしまった。」

つまり、私は、大変教養がなく、出しゃばりで、余韻がない人間ということです。

そして、その「非論理性」について米原氏はいくつか要因を挙げてくれていますが、

そのうちのふたつに、

「『至近距離の』人間関係を損なうことを恐れるあまり、白黒をはっきりさせることを嫌い、因果関係をあからさまにせず、なるべくぼかして表現し、論理性をできるだけ目立たないように隠すか、少なくとも前面に押し出さないように努める傾向が言語習慣の中に根付いているせいである」

「身内コミュニケーション特有の、肝要なところは暗黙の了解ありという習性で、『至近距離のこく微妙なニュアンス』にこだわりすぎて、むやみに枝葉末節に分け入り、全体が見えない話し方をするせいである。」

とあります。

 

私自身のこれまでの人間関係やコミュニケーションの葛藤の要因が明白になりました。

私は、おそらく、「私」という人間以外に「身内」として認識することがほとんどなく

従って、白黒はっきりさせたところでその人間関係が崩れる可能性を否定し続けて

きていたのですから。

(それで崩れる人間関係なんて、所詮人間関係とも呼べない代物だ、という諦観。)

未だに、その考えを改めることは、正直なところ難しいです。

 

私は私自身に誠実でいることが、他者に対して誠実であるという信念があります。

自身に誠実でいられない、自身の本質を理解しようとしない、その状態で一体、

どうやって他者を理解しようとできる?他者に誠実でいられる?

この信念は変わりませんし、変える気もありませんし、それに基づく

コミュニケーションスタイルも、私が満身創痍になって、投げ出さない限りは

変わらないでしょう。

 

そして、私は対話相手にも同様のスタンダードを期待してしまっています。

それが、私の今の苦しみです。

なぜなら、日本人である私は、論理的かつ主張的であることによって、マイノリティ

だからです。

主張的であるということは、行動様式としては強い印象ですが、その性質自体が、

権威者(=マジョリティ)に良しとされないマイノリティに属しているという、

何とも居心地の悪い複雑さがあります。

対話をできると期待しても、出会う人の多くがでもマジョリティ(ここでの文脈では、

権威者かつ大多数)に属する人であった場合、やはり私は苦しみ続けることになる。

期待をしないか、私と似たコミュニケーションスタイルや人間関係の考え方が

マジョリティであるところへ身を置くか。

 

米原氏が本作でも、そして「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」でも述べていたように、

自分の国や民族、その文化背景というものは、その人自身につきまといます。

日本語を母語として話し、意思疎通を取ろうとする限り、それから逃れることは

できないですし、それ自体は私を私たらしめるものでもあります。

今、私が抱いているこの葛藤自体が、私を私たらしめているものなのであろうと、

溜飲を下げつつも、それが解明されたことに対して手放しで喜べることはできない

心情となっています。

<The 29th Book> フラニーとズーイ

やはりもっと若い頃に読んでいればよかったなあと思った作品でした。

とはいえ、今読んでも、日々感じていることが、テンポよく言語化されている気がして

また数年後に読んでも、何かしら発見があるかもしれない可能性も感じられました。

 

「フラニ―とズーイ」(新潮文庫

著:J.D.サリンジャー  訳:村上 春樹 f:id:kanaebookjournal:20200926190827j:plain

https://www.shinchosha.co.jp/fz/

新入社員だった頃でしょうか、「The Catcher in the Rye」は日本文英文両方で

読みましたが、特に私には感情的に響くものもありませんでした。

従って、サリンジャー作品はあまり手が伸びなかったのですが、しばらく前に

Netflixで観ていたく気に入った「Carrie Pilby」(邦題:「マイ・プレシャス・リスト」)

という映画の主人公、Carrieの一番のお気に入りの小説が、本作であったことから、

手に取った作品です。

Carrie Pilby」もめちゃくちゃいい映画です。

Carrieが繊細で、でも頑固で、18歳で既にハーバードを卒業するくらいに頭が良いのに

だからこそ家族や恋愛などの人付き合い含め、色々な葛藤を抱えていて、可愛らしい

と同時に、私に似ているような気もして、何度もリプレイしています。

 

本題から逸れましたが、もういくつか本題から逸れた話をさせてください。

英語の原題だと「Franny and Zooey」で、おそらくこの "Zooey"部分を日本語訳すると

なると、きっと翻訳者泣かせなんだろうなあ、という気もしています。

実際、今回の訳者の村上氏もこれを「ゾーイ」とするか、「ズーイ」とするかを

悩んだというようなことを書いていました。

私的には、あえてカタカナで書くとすれば「ズゥォーィイ」なんだろうな、と

思っています。笑

 

そしてこれが最後の本題から逸れた話ですが、ファンの方には申し訳ないけれど、

ノーベル文学賞に毎度のようにノミネートされる、本作訳者の村上春樹氏は、

私は好きではありません。

稀に出てくる、「この人の本、ダメだ、、、」のうちのひとりです。

食わず嫌いではないんです。ちゃんと読んだんです。

最初は高校生の現代文の教科書に掲載されていた随筆で、授業で取り上げられました。

内容は全く覚えていないけれど、とにかく好きになれなかった。

俺って色々考えてるだろ?これってこういうことなんだぜ!こんな発見した俺、

結構すごくね?みたいな感じがね、文体から滲み出ちゃっている気がして、

考えている内容やら気付きやらに、読者は目もいかなければ、頭も回らないよ、

みたいな感じがしてしまってね。笑

でも食わず嫌いも良くないなあと思って、大学生の頃に代表作の「ノルウェイの森」を

読みました。

内容は全くもって覚えていませんが、とにかく、本当に胃の腑が病気になったのでは

ないか、と思うくらい、物理的に気持ちが悪くなりました。

それ以来、一人称で書かれている文体が苦手なんだとしばらく思っていたのですが、

(まあ確かに好きな文体ではないですけれど)読んでいて気分が悪くなるような

話にはあれ以来出くわしたことがありません。

ネットで調べると、性描写が云々とか書いてありますが、あんまりそこも記憶が無く、

とにかく内容も面白くなければ、すごく無神経な物語だと思った記憶があります。

無神経な話を、緻密で繊細な言葉と情景で飾り立てて、それらしく見せている、

みたいな。

もうそれ以来、村上氏の作品は随筆、小説問わず、読むのはやめると心に決めました。

今回はでも、もう一度挑戦してみよう、訳本ならまだ何とかなるであろう、と思い、

古い別訳者のほうではなく、新しい村上氏の訳本を手に取ったわけです。

英語力維持のために英語で読むのが一番いいのでしょうがね。笑

でも今回は、そんなに気になりませんでした。訳本ならこれからも読めるかも。

 

「フラニ―」と「ゾーイ」としてそれぞれ発表された、短中編小説集といえる本作。

それぞれの主人公の名前が、そのままタイトルとなっているわけです。

7人兄弟の末娘で見目麗しいフラニ―は、自身も名門大学に通いながら、別の名門大学

に通う恋人レーンを、週末を共に過ごすべく訪ねます。

少し前まで熱かったレーンへの恋心も、演技への熱も、何もかも失ったように見え、

とある宗教書に執着しているように見えるフラニ―を、レーンは心配します。

ラニ―は、そんなレーンのエゴの塊と見なし、世の中の多くの人々、物事が、

レーンと同様、エゴとそれを守るための瞞着であることに気付き、絶望しています。

その絶望から逃れるため、救われるための、小さな宗教書なのでした。

気を病んで身体的にも影響が及び、倒れたフラニ―が戻ってきたニューヨークの

グラス家では、フラニ―の次に年若く、容姿端麗で俳優をしているズーイが、

自殺した長兄からの長きにわたる手紙を、入浴しつつ読んでいた中、母親のベッシー

ことミセス・グラスがフラニ―をいたく心配し、ズーイへああでもない、こうでもない

と相談しに来ます。

(グラス家の兄弟の全員がかつて、そのIQの異様な高さに神童として出演していた

ラジオ番組があったほどに、頭脳明晰です。)

一通りの親子の会話を終え、ズーイが、鬱々とし、現世を生きるに生きられない妹に

対して、彼自身の抱える葛藤を含め、切実な想いを伝えていきます。

この本作のメインどころは、このズーイのフラニ―へのあらゆるお説教でしょう。

メッセージ自体は単純に、世間が、社会がどれだけ欺瞞に満ちていようと、それに

ついて社会自体がどう考えていようと考えていなかろうと、そして自分自身が

どう思っていようと、やることはただひとつ、自分自身の完全を目指すこと、

それに集中して生きていけばよろしい、といったところでしょうか。

 

もちろん、そのメッセージも心に響くものではあるのですが、私はズーイが

途中で語っていた、ある言葉に感銘を受けました。

「自分のエゴを、本物のエゴをしっかり使っている人間には、趣味のために割く時間なんてありゃしないよ。」

以前、友人に私には熱中できる趣味が無いことを相談したことがあります。

映画も読書も好きだけれど、それ自体に熱中するということが感覚としてありませんし

何となく何をしていても常に上の空な感じなのです。

常に何かが頭の中を駆け巡って、自分の思考に結びついてしまう。

旅行も好き、読書も映画も大好き、泳いだりウォーキングもしている、だけど、

「ああ、楽しい!!こうしているときの私が好き!!楽しい!リフレッシュ!!」

みたいな感覚とか、本当になくて、悩んでいました。

私にも趣味が欲しい。可能であれば、人と共有できる趣味がいい。

ずっとそれが悩みで、望んでも得られないものでした。

その友人には、

「趣味って、自分から逃げるための手段なんだと思うよ。それをしないでいられるほどに、あなたは自分に常に向き合っているんじゃない?」

と言われて、その時は半分納得しつつも、それでもやっぱり、趣味が欲しいの欲望の

呪縛から逃げられないでいました。

でも、今回、ズーイのこの言葉が後押しとなって、友人の言っていた言葉が、

胃の腑にストンと落ちました。

私、たぶん本当に、誰よりもすっごくエゴイスティックな人間なんだ、と。

別の友人からは

「あなたは自分のことを大事にしているよね」

と言われたこともあります。

そのときは、

「理解しようとしているけれど、大事にしているかはわからない」

と答えましたが、やはり私は、とても自分を大事にしているのだと思います。

大事にするようになりました、とても。

海外で一人で生活するようになってから、そうなるようになりました。

日本社会生活を営むにあたって失ったものは多いけれど、人間的な成長は我ながら

実感しています。

まだまだだけれど、一歩一歩進んでいる感覚はあります。

日本社会においては、”自分を大事にする(≒本書で言うエゴイスティックである)”

ことが、明らかに悪として認識されてしまいがちであるのが痛いところで、

日本にいる限りは、その概念に常に脅かされて、きっと本来「自分を大事に」

したい自分の想いがくすぶって、悶々としていたことでしょう。

海外で、初めて一人暮らしをして、まだまだ自分のことでわからないことは多いけれど

前よりもずっと、向き合う時間も増えたし、向き合うことから逃げなくなってきたと

思っています。

逃げる言い訳もなくなったし、趣味という逃げ方もそもそも知らなかったのが、

逆に幸運だったのかもしれません。

そして、趣味のために使う時間なんかありゃしない私の一面も、結構好きになれそうな

気がしています。

 

既に読んだことがある人も、まだ読んだことが無い人も、いかなる年代でも、

何かしらの発見がありそうな作品だと思います。

あらゆる宗教色は濃いけれど、自分と向き合う必要があるときには持ってこいの

作品かもしれません。

<The 28th Book> あのこは貴族

東京って世界の大都市トップ3にはおそらく入っていそうだけれど、

そんな大都市で生活しても、見えるものは、人によって全然異なるのでしょう。

東京に生きるアラサー女性たちの物語です。

「東京」がたくさん描かれている作品で、少し恋しくなりました。

 

「あのこは貴族」(集英社文庫著:山内 マリコ

f:id:kanaebookjournal:20200915220646j:plain

http://bunko.shueisha.co.jp/tokyonoblegirl/

 

本作は、多少ネタバレになるし、芸もありませんが、主要登場人物を紹介するのが

一番わかりやすいでしょう。

榛原華子:東京生まれ、三姉妹の末っ子で、実家は松濤で整形外科医院を代々

経営している。祖母の母校であるミッション系私立女子学校に小学校から姉妹とも

通うような家庭に育つ。通二十代後半になり、仕事を辞め、結婚に焦り様々な活動を

する中で、青木幸一郎に出会う。

青木幸一郎:同じく東京生まれ東京育ち。弁護士。実家は神谷町のお屋敷で、倉庫業

を経営。親戚が政治家。卒業した慶応大学は幼稚舎から通っていた。

時岡美紀:青木幸一郎の「友達」。地方都市の港町出身。慶応大学合格とともに上京

するが、家庭の事情で卒業せず、三十を過ぎた今は、IT関連の企業で働いている。

相楽逸子:小中高と華子と一緒の学校に通った友人。大学からドイツに音楽留学

し、ドイツと日本を行き来して生活している。

 

作品としては、女性同士の友情がメインとして描かれている気がしました。

だから爽快感があって、とても好き。

女の敵は女、とかいうけれど、結局それは男の都合で作り上げられた幻想なんだよね、

そんなご都合主義に構ってられない、やっぱり女同士手を取り合ってやっていかない

とね!と励まされました。

そう、今の時代、まだ、女性の一番の味方は女性です。

どうしても女性が女性を敵視しがちになってしまうのはわかる、私もまだそういう

感情を抱いてしまうこともあるし、何かしらの敵視を女性から感じたら遣る瀬無くも

なります。

(たとえば、海外にいると、駐在女子、現地採用女子、駐妻というような枠組みが

あるらしく、各カテゴリーに所属する者同士が、なんとなく嫌厭する、というような

話があるそうです。私は幸いなことに直接的に、私自身が感じることはありませんが)

ですが、今はまだ、男性は女性の完全なる味方になってくれていません。

本当の意味で味方だったら、こんなにも男女格差がある世の中にはなっていない。

女性が自分たちが品定めされることに自発的で、それであるが故に、女性同士が

いがみ合っていたほうが、男性たちに取っては都合よく、その場に鎮座できるのです。

だからといって、男性を敵視しているわけではありません。

敵意や敵視は、同じ社会に住む者同士にとって、全くもって悲しいものです。

なぜならそれは、理解の姿勢を拒否するものだから。

まずは女性同士から、理解の姿勢を深めていければ、そしてそれを広めていければ、

性別年齢問わず、自分らしい生き方を真の意味で模索できるようになるのではないか、

と私はどうしてもその夢を諦めきることはできない、理想主義者なのでしょう。

女性ならではの、男性が作り上げた男性優位社会であるからこそ抱く葛藤や懊悩を、

現代女性の生きる社会構造も併せて、漏れなくこの登場人物の女性3名が、程よい距離

感の友情を以て語ってくれていて、各人進む道は違えど、果たして私はどう生きて

いこうかと、あらゆる選択肢があるのかもしれない、と少し勇気づけられる思いも

するような作品でした。

 

私、これまであまりはっきりとは意識してきていなかったのですが、「東京の人」にも

少なくとも二種類ある、というのが今回はっきりしました。

先天的東京人と、後天的東京人というのだろうか。

前者が華子や幸一郎、逸子で、後者が美紀になるのでしょうが。

あらゆる東京人(東京に今住んでいる人、昔から住んでいた人、働いている人)と

話してなんとなく感じていた空気というのかな。

生活エリアや、出入りする店、言葉遣いや、所作で何となく感じ取れる、

その人の持つ「東京度合い」。

世界有数の大都市なのに、多様性に乏しい日本的な風情も相まって、独特な空気感が

「東京人」には漂っている気がしています。

ひょっとしたらニューヨークとかロンドンとか、大都市に住まう人にも似たような

空気感が流れているのかしら。

いずれも訪れたことがないからわからないけれど、都市、Cityは画一化されがち

ですよね。

どこの大都市に行っても、あまり変わり映えがしないイメージはあります。

話がそれましたが、先天的東京人は、東京の人口から鑑みれば、相当希少なのでは

ないでしょうか。

華子たちのようないわゆるハイソな社交界に入るような人々と、てやんでぃの

江戸っ子と、先天的東京人にもきっと色々あるのでしょう。

そして、「東京」という街はおそらく、後天的東京人が、「東京」を日々夢想し、

破壊し、そして築いているものなのだろうとも思います。

 

私自身は、きっと美紀と逸子のハイブリッドかしら。

今もまだ垢ぬけたとは言えませんが、ほんの5年くらい前まで、私は相当に

野暮ったかった自覚があります。

首都圏で育ちましたし、大学から東京に通学、通勤していますが、なんだか

おぼこさがあったように思います。

それはおそらく精神的な人間としての成長が未熟だったことが大きく起因しているのも

そうなのですが、「東京」を自分の中で、単なる場所として以外、認識していなかった

からなのかもしれません。

いつからか、私はシティガールになりました。

日本で仲良くしている友人二人によると、私はシティガールなんだそうです。

その二人はそれこそ東京生まれ、どちらかというとハイソな世界の東京育ち

(ふたりとも、私同様、人生の一部は海外に触れていますが)なのにも関わらず、

私が一番シティガール。

帝国ホテルのラウンジが一番落ち着いてしまう華子に対して、有楽町の忙しないお洒落

なイタリアンレストランで、キラキラした東京が好きだ、というようなことを、美紀が

言う場面があります。

華子の知っている世界(東京)は、とても狭くて、限られていたけれど、美紀が

上京して見てきた東京は、華子の知らない世界。

反対に、美紀も華子や幸一郎のの生まれ育った世界に憧れを抱きつつも、絶対に

超えられない一線があることを、肌身に感じてきました。

いつからか私もキラキラしたものを「東京」に見るようになり、それを追い求める

ようになっていました。

いるだけで幻想的な気分にさせてくれる空気感があったりするんですよね。

自分のしっぽを追いかける犬みたいな、馬鹿なんだけど、入り込まない限りは

無害な夢想感というのかしら。

「東京」には、大都市には、そんな不思議な力とムードがある気がしています。

シティガールといえるほど、今もあか抜けてもいませんし、結局、他の日本人から

見たら、”海外かぶれ”感が否めない、私のファッションや言動から、東京に戻っても、

あの独特な「東京」の空気に馴染めるかわからないですけれど、それでもやはり

恋しいと思うほどに、東京は好きな街です。

バンコクより断然好きです。

初めて本当の首都、それなりの都会に住んでいますが、それでもやっぱり、東京に

比べたらバンコクなんて、、、と思ってしまうくらいには、東京が恋しくなることは

時々あります。

そういえば、華子と幸一郎の出会いは、紀尾井町のオーバカナルだった。

ああ、なんて懐かしい!

学生時代、何度行ったことか、社会人になっても度々利用したなあ。

 

きっと東京は今も、日々破壊されては築かれているのでしょう。

そう遠くない未来に戻る予定ですが、どれくらい様変わりしているのか、寂しい気持ち

も抱くであろうことを予想しつつも、楽しみでもあります。