Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 9th Book> The Time Keeper

バンコクでは、大気汚染がマシになり、やっと外を歩けると思ったら、酷暑の季節が

やってきたとのこと、、、

しかもどうやら嵐(スコール)が来そうな天気で、しばらく今いるカフェに

足止めされそうな予感がしています。

 

「The Time Keeper」(Little, Brown Book Group)

著:Mitch Albom

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https://www.littlebrown.co.uk/titles/mitch-albom/the-time-keeper/9781405517379/

 

米国交換留学中に高校の国語(英語)の授業で読まされた彼の作品。

「Tuesdays with Morrie」は、今も本自体は実家にあると思います。

彼の英文は非常に簡素で、使われている単語も平易なものが多い(かつスラング

swear wordsが少ない)ので、英語学習者には打ってつけかもしれません。

私も今回、日本語の本を読むよりすいすい読めてしまったくらいです。

日本では全国模試の数学で、200点満点中16点しか取れなかった私が、留学中は

AlgebraやStatisticsでは、いつも95点以上のStraight A studentでした。

あのパソコンみたいなグラフも出てくる200ドルもする電卓の使い方を、ただ習得した

だけだったのだけれど。

言葉ではなく記号で話が進む数学や生物学では、geek並みにsmartだと言われ、

日本では苦手分野で理数系はちっともだ、と伝えると、「やっぱJapaneseは違うな」

とのコメントを周囲のイケイケ男女から得ていましたが、今の日本政治を傍から

チラ見していると、(あくまでチラ見ね、真面目になんて恥ずかしくて辛くて

見ていられない、、)逆の意味でそのコメントは正しい気がしますね。

話はそれましたが。

相対的に、英語や米国史など言葉で学んでいく教科が苦手となって、嫌いなものが得意

となり、とても複雑な気分でしたし、勉学においてはfrustrtationが溜まったことを

覚えています。

(なんだか今回は英語の本だからか、普段は好ましいと思えないルー大柴語、

海外かぶれの文章になってしまいます。。。会社のメールでは漢文に見えてもいい

くらい、カタカナ避けているのに。 本ブログでもなるべく日本語で全てを書きたいと

思っていたのに。。。)

「なんで英語ネイティブのクラスの子たちは、一瞬で宿題の1章分なんて読めるのに

読んでこないのかマジで意味わかんない!!私なんて2時間もかけて読んで、そこから

要約書いたりessay書かなきゃいけないのに!?あの子たちは私よりずーっと少ない

時間で宿題終わらせられるのになんで!?!?不公平よ!!」

といつもホストファミリーにグチグチ言いながら、犬の高い体温をブランケット代わり

にして夜遅くまで「Tuesdays with Morrie」やら、「The Great Gatsby」やらを読んで

いた記憶があります。

今回は、そんな『時間』についてのお話でした。

 

私は、かの有名なミヒャエル・エンデの「モモ」より好きだったかな。 

バベルの塔時代に「時」の概念を考えついたDor、too smartでtoo fat でtoo weird to

date withな自分にようやく希望を抱けていたSarah、物事に執着しすぎないことを

モットーに世界長者番付14番目にまで昇りつめた”成功者”のVictor。

時に見捨てられ、追い追われている各々が出会い、学んでいきます。

「時」を発明したDorでさえも。

 

自分がいつかは死ぬ、と知った瞬間のことを覚えていますか?

私は7歳の頃、自分がいつか死ぬことに思い至って、大泣きしたことがあります。

仲良しで大好きな祖母が亡くなって少ししてから、考えてわかったのでしょうね。

死なない人間はいないことが。だから私も死ぬんだって。びっくりしましたね。

両親の寝室であまりに辛気臭く泣く私に、母がイラついて辟易しながらテレビを

観ていたのも覚えています。克明に今でもその図がはっきり浮かびます。

その時までは自分の中で無限にあった時間が、その日から有限になりました。

 

年齢を重ねるにつれて、その有限性を自他ともに意識させられるようになります。

5時までには○○ちゃんの家から帰ってきなさいよ。

運動会まであと2週間。

もう高校卒業か~、と思ったら就職!?

明日までにこの見積書作らなきゃ。

いつから自分の生活が、自分自身ではなく時刻に支配されるようになったのでしょう。

前回の中野信子さんではありませんが、社会性を身に付けて、集団生活をするという

生存戦略のツールとしては、「時間とその感覚」は必須のものなのかもしれません。

ですが、そのツールが人間社会を支配しているように感じることはありませんか。

 

東南アジアへ移住して、約1.5年となりました。

マレーシアで生活を始めたときは、それこそfrustrationだらけでした。

私の性格上、週末などひとりで行動するときは特に、いかに効率的にその自由時間を

満喫できるかを常に考えながら行動します。

モールの中の回り方(映画の時間に合わせて、どこの店でランチを食べ、特定の店で

買い物をしたければ、どのルートで映画館まで行くのが最適か。それにかかる時間は

このくらいだから、運転して駐車場所を見つける時間も鑑みると、明日の朝は何時に

起きて、何時には家を出よう)を考え、その後家に帰ってから完全リラックスする

ための時間(何時にはお茶飲みながらNetflix観られるように、ジムに何時までに

行って、夕飯作ると大体何時になるから買い物は今日の間にしておこう。

23時には寝たいなあ)などを移住してからしばらくは、前日の間からいつも考えて

いました。

モール内の具体的な回り方などはちょっと極端すぎる例ですが、そういったプラン

めいたことを瞬時に頭の中で組み立てて、行動していました。癖ですね。

東京にいたときもそうで、大体その通りに事を進めることができました。

もちろん、気分によって予定変更はするのですが、変更してもしなくても、自分だけの

プランですから、うまくいかないことがないんですね。

でもマレーシアでは違いました。

基本的に、時刻に基づく生活はできません。

時刻はあくまで「目安」でしかなく、客観的基準ではあれど「絶対的基準」ではない。

交通手段が基本的に自動車であることも理由のひとつでしょうし、そもそも、人と時を

というより、時刻を「共有している」感覚があまりないのかもしれません。

悪い意味で言えば、他人の時間をないがしろにしがち。

飲食店の接客なども、気が付かない、急がない。

分刻みの東京生活に浸っていたわけですから、最初の数カ月は本当に常にイライラ

しっぱなしでした。

自分自身の時間の使い方、つぶし方を知っているので、友人の遅刻待ちは苦にならず、

元から比較的寛容なのですが(3時間くらい遅刻されたこともあります)、自分自身の

プランがうまくいかないと、もう途端にムカムカしてくるのです。

でも、郷に入れば郷に従え、段々と自分がその感覚に調整するようになりますよね。

こんなもんなんだ、と思えるようになると、途端に気が楽になるものです。

一日の時間が東京に比べると倍あるかのような感覚を持つようになり、時を持て余す

ことが多くなるくらいでした。

一体なぜ私はあんなにいつも急いていたのだろう、生き急いでいたのだろう。

時刻ではなく、状況に依拠した生活というものの心地良さを感じることができるように

なったのでした。

それを日本では「怠惰」だとか「だらしない」と言うのかもしれません。

日本で育った私ですから、自身の一部は未だにそう思っています。

ですが、時刻を気にしすぎない生活って、とてもrichなんですね、やっぱり。

時に追われて見過ごしていた色々な感情を、今度は時を持て余すことによって向き合う

時間ができたのです。

「寂しさ」という感覚、感情を心底実感するようになったのも海外へ来てからでした。

月日を逆算しながら農耕をして働かなければ食べていけない北国と、勝手にフルーツ等

が育って食べ物に困らない南国民との違いでしょうが、きっちりしていても慇懃無礼

あるよりは、気付かなくても臨機応変な対応ができるほうが、心が豊かになるように

感じました。

ビジネスの世界では客観的基準として時刻が重宝されるのでしょうが、私自身は、

なるべく時刻ではなく、その時間がどれだけrichであったかを大切にしたいと思う

ようになったマレーシア生活でした。

でもバンコクは街で都市だからなのか、やはり違いますね。

東京ほどでなくとも、ほぼそれに近いくらいの時刻に支配されているように感じること

が度々あります。

せっかく得られた新しい時間の感覚、忘れないようにしていきたいものです。

 

でもそう思えるのも、時間が有限であることがわかっているから。

私も自分の周りもいつか死ぬことがわかっているから。

時間を止めてほしい。

時間がはやく進めばいいのに。

別の人生があれば。

昨日に戻れれば。

Dorは時の発明者(支配者)として、そうした声をたくさん聞くことになりました。

VictorやSarahはそうした声のひとつでした。

誰しもが一度はそういったことを願ったことがあるかと思います。

時刻という時間の基準は、もはや残酷なほどに人々に平等かつ一定です。

だから絶対に、どれだけ真摯に願っても、それが聞き入れられることはない。

その無慈悲なほどの平等で一定な時刻を、いかに自分の時間にできるか、というのが

人生の意味となり得るのかもしれませんね。

壮大な話になってしまったけれども。

そういうことが小説として書いてあるお話だと解釈しています。

いつか死ぬことを知って絶望していた7歳の私は、永遠に生きろと言われたら絶望する

大人になりました。

それは大きな成長のひとつだと思えています。