Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 51st Book> 一九八四年

私は本作についてはpretendしていません、お恥ずかしながら今更、

初めて読みました。

Books You Pretend You Have Readというコラム記事に必ず掲載されるといっても

過言ではない1949年に刊行されたという本作。

まるで現代社会を予見しているかのような末恐ろしさ、やはり必読です。

 

「一九八四年(新訳版)」(ハヤカワepi文庫)

著:ジョージ・オーウェル   訳:高橋 和久 

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www.hayakawa-online.co.jp

 

オーウェルの作品は、学生の頃、「動物農場」は読んだ記憶があります。

痛烈な社会風刺に称賛の念を抱いた一方で、現代社会や政治に対して暗澹たる気持ちを

植え付けられもしました。

動物農場」は、この「一九八四年」の前段階を描いた作品とも言えるでしょう。

「一九八四年」では、更にそれが概念的部分で発展し、物語の設定や背景が緻密に

設計されています。

詳しい説明は、私には力量不足が過ぎるので、ウィキペディアなどを参照してほしい

のですが(笑)、私が個人的に社会に対して危惧するもの、現代日本の行き先が

描かれているような気がして、戦慄が走ります。

同様に勉強不足も過ぎるため(泣笑)、思想の変遷や、政治社会の潮流なども

私も門外漢でわからないことだらけですが、オーウェル自身が、全体主義

権威主義体制への反論者であり、ヒトラースターリンと同時期に生きていたから

こそ、鬼気迫る想いがあったことが作品からは伝わってきました。

 

 

本作では、改めて、「思考・思想」とそれに伴う「言葉」の重要性が明らかにされて

いるように思います。

それらが与える各人の言動や感情への影響の大きさは、並大抵のものではない。

本作内では政府が、思考や思想、言葉さえも統制しています。

そして、歴史自体も塗り替えられる。

対戦国が常に変わるし、勝利したのか、敗戦したのかの過去の事実も政府によって

書き返られます。

(最近、日本メディアでも、以前にも増して、政府の黒塗り文書が公開されるように

見受けられますが、その場面に遭遇する度に、何となく、どうしても本作が思い

浮かんでしまいます。)

様々な史実、事実の書き換えと、それに基づく思想統制によって、最終的には、

思考のみならず、自らの感情をも、政府に操られることになる。

 

 

最近の日本社会、政治を見ていると、どうしても本作と被る部分が多く、

読みつつ戦慄が走りました。

人々に思考停止が求められている、と感じるのは私だけでしょうか。

現状維持が常に賢く正当な方法で、改善は求められていない。

私はジュリアほど刹那主義でもないけれど、同じくらい奔放でありたいと

思ってしまうし、一見弱そうなのにウィンストンほど自らに忠実に向う見ずにも

なれないけれど、どれだけ拷問にかけられても屈しようとしない意志の強さは

持っていたいと思います。

思考停止するということは、人間の根幹である部分を捨てるということだから。

 

 

サラリーマンとして、日系のそこそこの大企業に勤務していると、

そういった葛藤に悩まされることが往々にしてあります。

たとえば私は今の今、日本に一時帰国をさせられているのですが、

(だから本を読む時間も気力も削られた...!!怒)

その決断、決定ひとつにあたっても、色々と肉体的にも感情的にも、私という

個人は結構に振り回されたので、思うところがたくさんありました。

組織というものは、実体がないくせに意思を持って動きます。

ですが、実体がないから、その意思が常にふわふわ浮ついてしまい、

responsibility も accountability も「責任」というものが曖昧になります。

大組織になればなるほど、社内外ともに個人へ与える影響力が大きいので、

その浮つきをなるべく固定してほしいところなのですが、それをしようとすると

結局は現状維持が最善策だという方向性に向かうことになります。

誰も「責任」なんて、持ちたくないから。

「責任」を持てる立場にいる人たちも、数々のしがらみがあって、言動を

制約されているか、そうでなくても、その言動を取るほうが損である、と

打算的になれるくらいの既得特権があるから。

そうして、組織に所属する多くの人が、泣き寝入りする羽目になる。

でも生きている限り、社会という組織に所属しないで生きることは不可能です。

「置かれた場所で咲きなさい」なんて本がありましたが、(読んでいないのに

文句はあまり言えませんが)あまりセンスのあるタイトルとは思えません。

だから読む気がしなくて、読めていないのですが。

置かれた場所がどんな劣悪な場所でも、本当にそんなこと他人に言える?

自分の置かれた場所が、自分にとってベストではなくても、不快指数が低い、

人権が守られた(もしくは無視しても何も言われない)場所だから、そういう

特権があるから出てくる言葉なんだろうよ、と思ってしまいます。

理不尽な組織に、社会に、「理不尽です」と言ってはいけないのか。

そこから逃げようとしたり、それに変化を求めては、変化させようとしては

いけないのか。

 

 

それを「否」としたファシズム的社会が、本作では描かれています。

そしてどうしても、日本社会は世界から取り残されて、本作の舞台のような

世界に向かって進んでいるのではないかと不安になることが多くなりました。

だからこそ、ぜひ読んでみてください。

現状維持のための戦争や闘争が行われ、考えることも感じることも許されない

本作の舞台を見て、あなたはどう思うでしょう。