Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 42nd Book> 男らしさの終焉

現社会を生きる男性に向けて、有害な男性性をから解放されよう、と呼び掛けている

本書ですが、女性として、人間としても、自分を大切にしようと改めて振り返ることが

でき、それがより良い社会に繋がるはずだという強いメッセージを感じる著作です。

 

「男らしさの終焉(フィルムアート社

著:グレイソン・ペリー  訳:小磯 洋光

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filmart.co.jp

 

本作の著者は英国の"白人紳士"アーティストだそうです。

よく存じ上げなかったので、画像検索したところ、何とも色鮮やかな画像の数々が

画面に広がりました。

私個人的には、あくまでイメージですが、音楽家エルトン・ジョンを彷彿と

させられた印象です。

今回またトランスヴェスタイトという新しい言葉を学びました。

異性の服装をする人々、またそれにより気分が高揚する人々のことを指すそうです。

英国人それも白人であり、男性であるペリー氏はまさしくトランスヴェスタイト

性的指向とはまた別物なので、氏はヘテロセクシュアルです。)

 社会的既得特権がを持ちながら、世の男性の「規範」から外れる職業と嗜好がある氏が

語る男性からの視点で、男性が男性のために作った社会を考察し、それに対して疑義を

唱え、男性へ向けて語りかけている言葉の数々には、大変説得力があります。

(女性だから説得力がないと言いたいのではないですが、女性の言葉が軽視され得る

中、そして女性が女性に向けての女性性解放を唱える場面は数多ある中で、男性が

男性に向けて男性性解放を説いているのは、画期的に感じます。

本作では「権力(男性が世界を支配する様子)、パフォーマンス(男性の服装と

振る舞い)、暴力(男性が犯罪や暴力に手を出す様子)、感情(男性の感情)」

四視点から構成されていました。

無自覚にも構造的にセクシストと化してしまうことが往々にしてある男性たちが、

実際に強いられている(自らに強いている)不要な苦しみや足かせを、自分たちで

外していきましょう、ということが、数々のケースや例示を元に、わかりやすく

説明されています。

 

本書では、デフォルトマン(default man)という言葉をよく目にします。

ペリー氏が、「白人、ミドルクラス、中年、ヘテロセクシュアル、男性」という

社会の価値観(を人々に押し付けた上で)基準となっている人々のことを指すために

名付けた言葉だそうです。

よく初期設定というような意味で日本語でも使われたりしていますね。

作品内でも書かれていますが、defaultには債務不履行等の意味もあるので、まさしく

こういった男性たちの描写をするのに打ってつけのあだ名でしょう、とのこと。

そしてデフォルトマンたちは、得てして”アイデンティティ”について意識することは

ない、との記述が心に響きました。

自分のアイデンティティがうまくいっているときに、それを意識することはない、と。

自らの権利をあえて声高に叫ぶ必要もなく、ただ呑気にいればいいのだ、と。

世の客観はデフォルトマンの主観となっており、デフォルトマンでいる限りは、

それが世界の中心であり、世界であると思い込んでいる、既得特権に無自覚なことが

ほとんどだ、と。

 

 

幼い頃から、どうしてもクラスや周囲の集団に馴染むことができませんでした。

自分の感情や意見を偽ってまで周囲に合わせることは、馴染めないことよりも、

私にとって精神的コストが大きかった。

だからといって、幼く傷つきやすい時期や、多感な年齢であったときに、所属できない

感覚は、もちろんとても寂しかったし、心もとなさ、時にはひとりでいる恥ずかしさ、

将来への不安などが常にセットで、自分を奮起させるために強がることを学んだり、

ふと自分の前に現れるそれらの感情を見て見ぬふりをすることを覚えました。

スキルを得て、紆余曲折、試行錯誤しながらも、成長するにつれて経験を経て、

自分も周囲の価値観も多様なものを受容できるようになり、年々、息がしやすく

なっていきました。

 

ところが、バンコクに来てから、また息苦しくなっていることに気付きました。

この街の日本人社会は、まるで小中高時代の教室を彷彿とさせる部分があります。

ヒエラルキーがあり、その地位に基づいて、自身の価値と自信に直結する。

些細なことでマウントを取り合いながら、そのヒエラルキーに基づく価値観を確固たる

ものにしていく。

そもそも、そのヒエラルキーにすら所属できなかった私は、またも異様な孤独感が

このバンコクでフラッシュバックしていることに気付きました。

「所属感」への憧憬の念

どうしてもニュートラル(=ここでは、大衆に迎合できて多くの人から好かれる)への

嫉妬と羨望から逃れられられず、所属感への狂おしいほどの憧れと、それを得られない

自分との狭間で、身もだえしているわけです。

 

そのようなことを、先日、日本の友人と電話で話したりしていたのですが、そこで

私は意外な事実を知らされます。

その友人も、どちらかといえば、昔は人気者タイプで私が常に感じていた疎外感とは

無縁であったろうと想像されるタイプの人です。

「多くの人たちにとっては、自分の感情や考えに思考を巡らさずに流される、流されていれば周囲に馴染めて、馴染めたほうがそれっぽく物事は流れていくのだから、楽な方を選択しているだけだよ。違和感があっても、それについて立ち止まって考えて、それをあえて周囲に提示するよりは、気付かなかったふりをして、自分のその違和感や、ちょっとした悲しみや怒りとかは無視していくほうが、その場はうまくやり過ごせて、楽だからそうしていただけだよ。決してそれはいいことではないと思うけれど、多くの人が、心の底から馴染んでいるわけではなくて、馴染むために自分を犠牲にしていることにすら無自覚なだけ。子供のころから、それに自覚的でいられたということは、辛かっただろうけど、大いなる学びだと思うよ」

というような旨のことを、そんな彼が会話の中で教えてくれて、 目から鱗でした。

あんなに共同体のような得体の知れない空気感を築き、まるでイワシの大群のように

言動を共にしていたを人たちも、何かしら自分を、個を犠牲にしていたのか、と。

そんなこと、自分が傷に気を取られ、恥ずかしながら、気付きもしなければ、

思い至ったこともなかった。

 

私は自分の意見や感情を常に重要視し、周囲の理解を得るためにそれを言葉を尽くして

説明しようとするタイプだったので、馴染めないのは当然、煙たがられもしました。

「私もあなたが正しいと思うよ」「かっこよかったよ」「憧れるよ」と、それを後から

(当時流行っていたので)手紙をこそこそ渡してくれる人たちもいました。

たしかに、そういう人たちは、自分の声を押し殺していたのだろう、と、今回、友人

との会話で気づいたのです。

それでも私は、その人たちへの怒りを消化できませんが。

後から手紙を個人的にくれるくらいなら、私が心細い思いをして苦心しながら、周囲の

理解を得ようとしているときに、「私もそう思うよ」と、一緒に声をあげてくれても

よかったじゃないか、と、もう15年以上前のことでも、未だに思ってしまいます。

 

長々と書きましたが、私が幼い頃からずっと憧れてきた「所属感」というものは、

そもそも存在しないものだったのでした。

かりそめの所属感を”ホンモノ”の所属感だと、勘違いして生きてきていました。

私はピュアな、本物の所属感をずっと求め続けてきていたのですが、友人の彼には

そんなものあるはずない、と失笑と一蹴されてしまいました。

多くの人々がうまく社会に受け入れられ、所属していて、何の違和感もなく、

ありのままの自分が受け入れられていると思っているのだ、と思っていたのです。

それこそが私がずっと得たくて仕方がなくて、得られなかった「所属感」だと。

でも実際は、各々が自分を何かしら折り曲げて、その事実にすら気付かぬまま、

得体の知れぬ所属感を造り上げ、その誰が走らせているのかもわからない共同体を、

その脱退の仕方や解散させる方法はもちろん、その共同体の存在意義や善悪すら

わからないまま、とりあえず無責任に走らせていたのです。

私は、日本社会のデフォルトマンの作り上げた世界が「ホンモノ」だと思い込み、

それに焦がれ続け、そしてそこに所属できない自分を責めてきたわけです。

デフォルトマンになることが、社会への所属と帰依になると信じて。

多くの現デフォルトマンたちが、デフォルトマンになるために犠牲にしてきたものが

あり、それに無自覚でいることによって、自ら自分たちの首を絞めてきていたことを

想像だにせず。

 

 

本書は、特に男性に向けての呼びかけ的要素が多い作品ですが、男性が作った現社会に

悩まされる多くの人を啓蒙しています。

私は女性ですが、デフォルトマン的要素を基準に生きてきた苦しみを、こうして

本書(と友人との会話)によって気付くことができました。

社会構造を様々な側面から説明し、男性に向けて、「こうでなければならない」では

なく、「こうあってもいい」という在り方を説いている作品ではありますが、自らを

顧みることのできる、とてもパーソナルな作品となり得ることもお伝えしておきます。

そして、少しでも多くの人が、「ホンモノの所属感」を感じられる社会となることを

願ってやみません。

 

<The 41st Book> 私たちにはことばが必要だ ~フェミニストは黙らない~

フェミニズムとは何か、勉強すればするほど、その上で人とコミュニケーションを

取れば取るほど、自身の内外に葛藤が生まれていました。

その息苦しさへの対処の仕方を教えてくれる教科書でした。

 

「私たちにはことばが必要だ 

~フェミニストは黙らない~(タバブックス

著:イ・ミンギョン  訳:すんみ・小山内 園子

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tababooks.com

 

韓流ドラマが流行り始めた約20年弱前、韓国の家父長制は、日本よりも強固なものだと

知りましたが、いつからか、女性の人権に対しての注目が大いに為されるようになり、

ジェンダーギャップ指数からしても、日本は大幅に遅れを取ってしまいました。

そんな韓国からまた素晴らしいフェミニズム著作です。 

 

ほぼ全頁に付箋を貼り付けてしまう羽目になりました。笑

そのくらい、平易な言葉でわかりやすく、大事なことがたくさん書かれていた。

最初から、多くの人に読んでほしいために書いた本じゃないから、セクシストで

ありたい人は読んでくれるな!という注意書きがあるのは大変斬新でした。

世の中にはセクシスト(=性差別主義者)で溢れています。

フェミニストであるあなたが、そうで無い人とどのように接していくか、反対に、

フェミニストでありたいあなたが、セクシストからどう脱却するかを学ぶのに

非常に良い教科書だと思います。

私なりに、また概要をまとめました。

 

*その人たちと、そもそも会話をするか否か。会話に応じる必要はない。

片側だけに相手の意図を汲み取る忍耐や配慮を求められるような対話は対話ではない。セクシストと話をする義務は必ずしもないということ、断固たる態度で断る訓練が必要ということが、繰り返し述べられていました。

 

*会話をするとしたら、自分と相手のスタンスは何か。

セクシストなのか、フェミニストなのか、選択肢はひとつだけ。

世の中に性差別が存在しないという主張をする自由がないということは、ここできっぱり書かれており、性差別前提でそれを放置する(=認める)か正したいか、いずれかの姿勢で、どのような対話が進められそうか、ということになります。

 

女性嫌悪とは何か。女性嫌悪と男性嫌悪は断じて同等ではない。家父長制に起因。

女性性を劣っているものとする見方、「女のくせに」と思う場面、女が女でいるべき枠から飛び出そうとしていることを咎めることは、女性嫌悪です。一例で言えば、政治家の森氏の「女性がいると会議に時間がかかるけど、うちの委員会の女性たちはわきまえているから」という趣旨の数カ月前の発言は、完全なる女性嫌悪ですね。そして女性嫌悪に対して、耐えかねた女性が(わきまえずに)声を上げ始めると、男性嫌悪もあるじゃないか、と男性側がピーピー言うわけです。女性側がどれだけ長くの間、虐げられていても無視を決め込んでいた男性が、俺達だって辛い、とヘイトにだけ反応する。そもそも差別が前提になっていないし、女性に矛先を向けることは間違っています。その男性たちにも”つらーい”制度、家父長制を作り、是としてきたのは、男性なのだから、まずそこから見直さないといけません。「どっちもどっち」はありえません。

 

こうした基礎的内容から、いざセクシストと会話を進めるとしたら、どのように

会話ができるか、実践的な内容も説明してくれています。

 

以前、フェミニストではないであろう男女数人に、私はフェミニスト宣言をした経験を

「存在しない女たち」のレビューで書きました。

①自分の理解・経験不足 ②周囲と私の興味の違い の二点により、結局、女性嫌悪的な

話の流れを助長したり、それをうまく否定できなかったことに、後悔した体験でした。

本作に触れて、あの時に既にこの本を読めていたら!!!!と思わずにいられません。

 

私はあのとき、周囲に忖度しすぎていた。

一応、会話の流れでフェミニズムとは何か、というような概要説明的部分もあった

にも関わらず、それを私は、教えてあげる立場ではなく、聞いてもらう立場で話して

しまっていました

感情的にならずに丁寧に説明してあげないといけない、と思い込んでいたのです。

自分から宣言してしまったから、というのもありますが、感情的になっても、

丁寧でなくても、相手が聞く耳を持たないのなら、私はそこまで配慮する必要は

なかったのです。

そこまで配慮しても、「どうしてそんなに尖っちゃってるの?」なんてコメントを

頂戴してしまいました。

私の女性としての経験とフェミニズムの学習は軽視されており、彼らにとっては、

女性差別があることに特に問題は無いという意思表示だったのです。

私はそれ以上、うまく話すことができなくて、あまり話せませんでしたが、私の経験を

軽視される流れに引き続きなっていたのであれば、話せなかった結果は悪くなかったの

かもしれません。

私がまだまだ勉強不足、というのはそうですが、そのうまく話せないメカニズムと、

必ずしも話す必要がないということを教えてくれたのが本書でした。

 

「だって、失礼だけど、男好きでしょ?男好きなのにフェミニストなんだ」

とのコメントもありました。

これに関しては、フェミニズムが主ですが、それでも個人的な感情や葛藤が絡んでくる

部分もあるので、まだ自分の中で消化できていませんが、これもやはり、フェミニスト

であるからこその、男性嫌悪は一部あると思います。

男性の女性嫌悪、つまり、女体好きの女嫌い、の逆バージョンですね。

本作にも、ヘイトをヘイトで返すべきか、というような議論があり、私個人的には

あまり好ましい方法ではないのですが、実際にやってしまっているのかもしれない。

 

今回、多少心無いコメントをされたし、ひょっとしたらセクシストだからといって

彼らを嫌いになるわけではありません。

むしろ、好きだからこそ、分かり合いたいし、私のスタンスは分かってほしい。

なかなか切ない一場面で、まだまだ本作に基づいて勉強と実践をしていかなければ、

と感じました。

 

私自身、いま、セクシストからフェミニストに華麗に変身すべく勉強中。

そもそも、世の多くの人間が、自分がセクシストであることを自覚していません。

そのくらい、性差別は私たちの生活の細部にまで根付いています。

特に女性である私がしてしまう女性嫌悪なんて、まさしく必読!としつこく言っている

「男尊女子」思想です。

本書でも書かれていますが、女性嫌悪的考えや感覚を持たない人間は、男女問わず

いますし、それに自覚的であるか、無自覚かでは大違いです。

フェミニストでありたい、と思い始めてから、生きづらくなった、と感じます。

だけど、この思想に触れてから、それでも不思議と、セクシストとして生きていきたい

と思うことは一切ありません

 

<The 40th Book> キングコング・セオリー

こんなにも爽快な読み味のフェミニズム著作はないでしょう。

レイプや売春などの実体験を元に、良くも悪くも飾り気ない、ちょっとぶっきらぼう

パンクな言葉で語られる、超絶アバンギャルドな本エッセイ。

現社会の波に乗れている人々には、耳障りなのかもしれない。

 

キングコング・セオリー柏書房

著:ヴィルジニー・デパント  訳:相川 千尋

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http://www.kashiwashobo.co.jp/book/b553055.html

 

「私はブスの側から書いている。ブスのために、ババアのために、男みたいな女のために、不感症の女、欲求不満の女、セックスの対象にならない女、ヒステリーの女、バカな女、『いい女』市場から排除されたすべての女たちのために。」

 

写真にも付けたのですが、本の帯に書いてあるフレーズ。本作の一番最初の文章です。

もう飛び上がらんばかりに、はいはーい私のことね!!と手を挙げたくなるこの私。

SNSでこの文章を見かけて本作を知り、読まないわけにはいかないと心に決めていた。

本作を読めば、私の惨めなコンプレックスが慰められると安易に思ったからです。

「よーしよしよし、デブで、ブスで、男みたいで、男に相手にされない、哀れな

かなえちゃん。かわいそうに。でもそのままでいいんだよ、よしよし」的な。笑

でも実際は、どちらかといえば

「デブ上等!ブス上等!男勝り?実際に有能なんだよ!男の基準で成立している

社会も資本主義も糞くらえ!”いい女”になれなくらいでめそめそしてんじゃねぇ!」

的な感じでした。笑

これだけ読むとすごく誤解が生まれそうなのですが(笑)、文章自体や語り口は

(訳者の方の文体の影響も大いにあるだろうが)淡々としています。

これまで学んできたことのおさらいといえばそうなのですが、それでも、今回の

切り口は、レイプや売春、ポルノグラフィなど、特に性的な事象にまつわる側面からの

視点が主眼となっており、実体験が如実に語られているからか、その切り口から

為される政治や社会への、デパント氏の考察が非常に深淵。

復習しているだけのはずなのに、切り口や表現が違うだけで目から鱗のような。

 

安易だけれど、感銘を受けた学びが今回もたくさんあったので、その概要をシェア。

 

 女性が「モノ化された女」を自ら演じるのは、男性たちを怖がらせないため。男性の持つ権力に近づくことは、男性を怯えさせ、自分たちにその報復が必ずや来るであろう、そうならせないためにも、セクシーな服を着て、女性らしく振舞わないと、という強迫観念がある。

(=要はお互いに怖がり合っているという不毛な牽制なのだと私は読み取りました。)

 

母性礼賛はファシズムへの道。資本主義は男女全員を抑圧する「宗教」。

(詳しくは、本書を読んでください。笑)

 

「客を取った」と「娼婦を買った」の差の大きさ。前者は社会から逸脱した被害者カテゴリーに入れられ、後者は軽く扱われる。

が、前者が被害者であれば、後者は、家庭があるのにも関わらず、自らの生々しい欲望を金で満たすことはみじめであるといった後ろめたい烙印が押される。

本当に売春がモラルを乱すのは、本来家庭にいるべき女性が家の外に出て、自分自身で金を稼ぎ、街を自分のものにしていくから。

政治権力が何がふさわしく、何がそうでないか管理していることのほうが、明らかに暴力的である。

(これに関しては後述。)

 

自分が女だったら、相手の男を興奮、満足させられるようになりたいと男は思っている。

(真偽はもちろん定かじゃないが、これを考えれば、現在のホモソーシャル的関係性による影響は大いに納得。)

 

レイプ被害にあっても、正しい被害者は、口を閉ざせる被害者だと女同士のアドバイスが為されるが、それで心の安寧が被害者自身に得られるのか?なぜ男は世界は君のものだ、権利を欲せと育てられるのに、女は常に何をされても耐えるように教えられなければならない?

(レイプではないけれど、私が記憶にある中で初めての性被害で、被害者は私なのに、母に「騒ぎすぎよ、恥ずかしい」と言われたことが忘れられません。)

 

女の中で一番高い位置を占められるのは、最も権力を持った男たちと同盟を結んだ女たち。愛嬌があり、バカにされても怒らず、男の自尊心をくすぐる、コンプレックスを持っていて、男に服従する方法を知っている女。

(私が人生で関わってきた多くの女性が元から性質として備わっていてうまくでき、私ができない、スキルとして得ようとしてきた特徴が山ほど書いてありました。)

 

女性について語るのは、たいてい男たちと男たちの協力者の女たち。男たちは、自らのことを考えず、話さずに済むから、女について語る。そして女を介して、愛し合っている男たち同士でセックスしている。女について語るという媒体を通して、互いを認め合い、褒め合い、励まし合い、自らの有能さの幻想を抱く。

ホモソーシャルの仕組みが本文ではより赤裸々に。笑)

 

※ここからは主観的な内容となっており、事実の根拠もまだこれから勉強です

私が今、一時的に住んでいるタイも性産業が盛んな国です。

統計的に他国と比較してそうかはわかりませんが、少なくとも(日本人に)そういう

イメージが根強く定着していることは確かですし、実際に生活をしていても、日々

それを感じさせる場面に遭遇することは頻繁です。

以前も書いたかもしれませんが、平気で焼肉屋などご飯屋さんに、男性陣が、タイ人の

”お店”の女性たちを同伴で呼んでワイワイ騒いぎ、バーに行けば、それこそアフター

なのか何なのか、男性一人に対して、タイ人女性たちが群がっている光景などは、

あちこちで目に入る環境です。

 

自らを「モノ化」して、男性の金や権力に媚びているように見える女性たち、

そして、明らかに女性たちへのリスペクトを完全に欠いて自己陶酔に浸る

女性たちが隣にいるのに、全く彼女たちのことは人間として見ていない。

見ているのは、「こんなに女の子に囲まれてチヤホヤされている俺、それをできちゃう

金と権力のある俺」)男性たちを見て、何とも苦々しい気持ちにさせられます。

いかにも(日本も欧米その他も含め)本国で女性に相手にされないであろう男性たち

が、だからこそ金で何とかしようという魂胆が、もうpatheticとしか言いようがないと

思っていました。

 

性産業に対して、ここまでネガティブな想いを持っていた私も、やはり経験せずして

批判はできまいと、ゴーゴーボーイ(男性のストリップ劇場的なところ)に誘われて、

断らずについて行ったことがあります。

彼らがなぜ、ゴーゴーボーイで働いているのかは知りません。

ただ、何人もの番号付けされた男性がステージで、自らの鍛え上げた体を、観客

(想定されているのは、女性もしくはホモセクシュアル男性)に披露し、客は中から

気に入った人を見つけて、いくらか払って隣に座らせることができる。

お持ち帰りも可能で、もちろんそれは、人気度によって金額が変わる。

私は、ショーは最後まで見ていましたが、友人たちがいざ、各人のお気に入りを

座席に呼んでからは、「楽しくない」と言って、すぐ帰路につきました。

 

本書の作者のデパント氏は、自らの選択で売春をしたとのこと。

少し前までは、売春などに対して社会悪だ、と私自身も結構に否定的な考えを持って

いたのですが、色々と見聞きするにあたって、最近は考えが少し変わってきており、

本作で語られている内容、すなわち、デパント氏が自らの意志で、自らの身体を

使って、お金を稼いだことは、むしろ合理的で理解のできる選択だとも思いました。

私だって、自分が物理的、生理的に嫌だ、気持ち悪い、そんなことはできない、

と思ってしまう男性があまりいないと言いきれれば、サラリーマンでいるよりも、

短時間で何倍も稼げる性産業を、視野に入れていたかもしれない、とも。

お金もたくさんもらえて、自分の快楽も満たせるかもしれないのだから。

世の中が決めつけた根拠のない価値は下がっても、自分の価値は下がらない、

なぜなら、他の誰でもなく、自分で決めて、自分で選んだ職業選択なのだから。

何となく後ろめたい気持ちにさせられることはあっても(そのメカニズムは本書で

うまく説明されています)、性産業の存在自体をあってはならないものだ、とは

考えていません。

 

私は、キャバクラで働いたこともなければ、売春をしたことも、ポルノグラフィに出た

こともないので、そのような仕事をしたことがある人は、知り合いや、知り合いの

知り合いにいたりしても、その人たちがどのような経緯で、その仕事に就いたかまで

は、経験としても、人から聞く話でも、あまり知らないので、語る資格は無いのかも

しれません。

が、少なくとも、タイでは、背景に人身売買が行われている可能性があること、必要な

教育や資金があれば、性産業に従事していない可能性がある人も多いかもしれないこと

を聞いたことがあります。

 

きっと、私も先入観と偏見にまみれていたのかもしれません。

ひょっとしたら、彼ら自身の、自らの自由意思で選んだ職業だったのかもしれない。

ひょっとしたら、他にも同じくらい、もしくはもっと稼げる手段が、彼らの中に選択肢

として既にある(それを許している社会である)中で、選択したのかもしれない。

それでも、ゴーゴーボーイの彼らに、番号付けして、何人も並ばせて、客が値踏みする

という、その店のビジネスモデルが気に入りませんでした。

(たまたま行った店がそういうやる気のないだけだったのかもしれませんが)踊りは

おまけだよ、という店側の意図があけすけな、ショー自体の出来がお粗末だったのも

それを助長しました。

(反対にいえば、会話やサービスが根幹となっているキャバクラやホストクラブなど、

コミュニケーション基盤のお店についての需要は理解ができます。それでも、そこで

働いている人々が、必要に迫られてではなく、自らの自由意思で働いていることが前提

となりますが。)

その人自身ですらない、単なる器で、人間オークションと変わらないじゃないか、

人間動物園ふれあい広場なの?(どっちが動物なのだろう...)これは人身売買と何が

違うの?と私は憤り、悲しくなりました。

自由意思での職業選択の上に成立しているビジネスでなければ、それは単なる、

社会的強者による社会的弱者の性的搾取です。

私が行ったお店の「売り物」がたまたま男性だっただけで、女性のお店はきっともっと

たくさんあるのでしょう。

お店によって、コンセプトなど多少なりとも違えど、大枠は変わらないと仮定すると、

その先にお持ち帰りされるか否かに関わらず、自由意思を持つ人間が、自らを(単なる

見た目で)値踏みされる職業に就くだろうか 。

あるとすれば、一体どういう感情、どういう経緯でそうなるのだろう。

世間知らずの私は、未だその解を自分で見つけることはできていません。

 

デパント氏は、フランスという、(欧米至上主義の抜けない私個人の勝手な見立てに

よると)ただ単に伝統的というよりは一周回って保守的な、いわば複雑かつ繊細な

概念や思想を、生まれながらにして身に付ける環境で育っています。

だから、氏の本作が非常に画期的なのもわかりますし、私もまたも開眼の嵐で、

心の中で拍手喝采であったことは言うまでもありません。

 

そして氏は、(またしても私の主観ですが)思想的にも政治的にも社会的にも、

少なくとも日本よりは、何百倍も発達している自国を、まだまだだと詰る。

日本に育つ私には、理解が追いつかない部分もありましたし、これを多くの日本人が

仮に読んだとしても、きっと理解もできなければ、共感もできないのではないか、

と余計な邪推をしてしまうほどのより葛藤を生みだすほどに、先駆的に感じられる

本作なのでした。

<The 39th Book> 存在しない女たち ~男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く~

開眼とはこのこと。

世界が男性優位社会のであることのエビデンスと言っても過言ではないでしょう。 

「客観的」とは?「常識」とは?「普遍」とは?

全てが男性の特性によってデザインされていたら、それらは文字通りのそれなのか。

 

「存在しない女たち 

~男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く~

河出書房新社

著:キャロライン・クリアド=ペレス 訳:神崎 朗子

f:id:kanaebookjournal:20210424213024j:plain

https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309249834/

 

公共交通機関・道路が、自動車自体の設計さえ、男性の身体的特徴や、有償労働のみ

を主眼にデザインされていることを知っていましたか??

ホルモンバランスによって日々の状態が変わる女性の身体のメカニズムが煩雑すぎる、

という理由で、医療技術や薬の開発治験から外されていることはどうでしょう?

歴史的偉人のほとんどが男性であることに気付いていましたか?

(そのほとんどが女性の無償ケア、無償労働の元に成立している。)

「優秀な人材」とされるのは多くが男性で、”優秀な”男性と同様の言動を女性が行った

場合、老若男女から問わず、女性はネガティブな評価を付けられやすいことは?

あなたが参照しているそのウェブサイトページのアルゴリズムが、無視されている

データ(すなわち女性に関するデータ)セットを学び続けていることによって、

どんどん不平等化を促進していることは?

感覚的に知っていることもあれば、そうでないこともあるでしょう。

上述した以外にも山ほど、もうそれは山のようにたくさんの事例、データがあります。

そして、必要なデータが無い。

上述事例からわかるものもありますが、データ収集方法自体があるバイアスに基づいた

ものとなっており、対象に偏り(男性のみ)がある状態となっている事例もたくさん

紹介されていました。

仮にデータ自体があっても、それが正しく着目され、活用されていない事例も。

本作額面通り、まさしく、女性が存在しないものとして社会が構成されているのです。

正直、これまで、女性の企業役員、女性政治家の存在の重要性、影響力の大きさを、

本作に触れるまで、しっかり理解していませんでした。

リーダーとなるところ、何かを牽引していくポジションに、女性が相当数いなければ、

いつまでも女性の声が聞かれることはなく、女性は無きものにされてしまう。

それが、各章の数多くの事例、データで示されていて、言葉を失いました。

 

 

この1年以上、フェミニズムについて学んだり、考えたりしてきましたが、

まだまだ、まだまだまだまだ、私の中でも男尊女卑的思考や慣習に気付かない、看過

してしまうくらい、それはもう強力な洗脳、刷り込みが30年間で為されています。

ぜひ読んでほしい 「男尊女子」の感想でも書きましたが、そもそも男尊女卑的思考を

当然のものとしてあまり持ち合わせていなかった私は、社会ではそれがもう大文字の

”是”であることに苦しんでおり、かつ、そのルールにうまく追随できない自分に嫌気

が差すことばかりでした。

だけど、私の生活の基盤を為す社会では、そのルールは紛うことなく”適正”であり、

そこにうまく乗れない限りは、光り輝く将来なんて、想像できるものではありません

でした。

この文脈における”女性”としての優等生にはなれませんでしたし、なれる気も全く

しないし、フェミニズムを勉強し始めたのだから、なりたいとも、もはや思いません。

でもだからこそ、その「ルール」が本当に「適正」であるのか、と疑う視点を、

もっと早く、子どもの頃からとは言わずとも、あと数年でも早く持つことができて

いれば、という無念さを、本作を読んだからこそ、感じずにはいられない。

 

 

ついこの間、初めて、明らかにフェミニストではないであろう男女複数人に対して、

「私、フェミニストなんです」宣言を会話の流れでしてみたんです。

そもそも男性に対してそれを宣言するのは初めてだし、何人も男性がいたし、

普段からそういう話は一切しない人たちだったから、ちょっとそわついて、妙な緊張感

を持ちながら。

 

クリアド=ペレス氏の経験談フェミニズムというイデオロギーに目がくらんで、

世の中を客観的、理性的に見ることができない、客観的な常識の見方ができないのだ、

と一時付き合っていた男性から言われた)にもありますが、特に日本人社会では、

均一化、同一化、つまり同調圧力が強いため、その狭い範囲の「常識」を共有している

前提で会話が進みます。

要するに、日本人間で共有している感覚として、この彼の言う、「客観的な常識の

見方」が、より絶対的で強固なものになり得る、ということです。

日本人間で繰り広げられる多くの会話が、イデオロギーは既にその均一化、同一化の

洗脳によって”絶対的に共有されているもの(=常識)”という前提で進むので、

会話のトピックとして話題に上ることがまずなく、抽象的な内容にはなりにくい。

もちろん、(ここが私の苦しみですが)その「絶対的普遍的イデオロギー(=常識)」

に共感、同調せずとも、共有はしています。

(個人的には「イデオロギー(笑)」「常識www」って感じですが。笑)

従って、元から空気を読んで会話を進めることに価値観を見出せない私は、幼少期から

必死で得てきたスキルにより、その場の空気を壊さないように会話を進めることも、

可能ではあります。

ですが、宣言をした私に対して「議論好きなんだね」という感想があったことも、

普段はあまり社会生活を送る上での利害から不特定多数には見せないようにしている

ということ、また何より、会話が(議論となり得る)抽象的なトピックには基本的に

ならないものである、ということを象徴しています。

 

多くの日本人活動家が声高に主張をし続けてくれていながらも、フェミニズム自体が

その「絶対的普遍的イデオロギー(=常識)」に包含されず、認知や理解が浅いことは

感覚的に察知していたので、フェミニストが何かわかっていないという反応も、認知や

理解がある人には、多少煙たがられるものである(もしくはそう認識されているという

反応がある)という、想定はしていました。

(言うまでもなく、クリアド=ペレス氏がフェミニストについての知識がある当時の

パートナーと議論になった内容より、明らかに数段下層部分の議論にしかならない。)

 私がフェミニストであるという事実は、「絶対的普遍的イデオロギー(=常識)」枠

から外れるということになりますね。

 

幼い頃から女性としての生きづらさを感じ、1年以上フェミニズムに対して遅々とした

歩みながらも勉強してきた私と、これまで自分の優位性、もしくは劣位性に無自覚で

生きてきた人たちのギャップを埋めるのに、「私はフェミニストです」の一言で

伝えられるものなんて、これっぽっちもありませんから、それが何なのか、本来

あってほしい公平な社会はどんなものか、ということを、感情的にならない、

ならせないようにしつつ、説明しなければなりません。

可能であれば、私がなぜフェミニストであり、どのような立場のそれなのかも併せて。

言ってみれば、突如自分で作り上げてしまった、研究発表会でしょうか。笑

 

そのできは如何に、と問われれば、散々でした。。。

 

第一に、インプットしてきた内容が自らにしっかり定着していなくて、アウトプットが

上手くいかなかったため。

知っている。理解している。けど、心からわかっていないんです。

30年の刷り込みが消されないし、上書きされない。

だから、彼らとの会話の中で、私が抱えている女性性についての葛藤が更に明らかに

なり、自分が普段やっていることや、密かに抱いている希望や欲望は、(自覚的、

無自覚的問わず)ミソジニーの男性が女性に対して日々思い、行っていることの、

単なる逆バージョンなのではないか、男性に対して私は人間としての敬意なく接して

しまっているのでは、と疑心暗鬼モードに入りつつあります。

 

第二に、周囲と私の興味の範囲の違い、としか言えないですかね。笑

私が東南アジアにいながらゴルフに全く興味が持てないように、これまでの社会構造に

よるジェンダーロールに、違和感も苦しみも感じずに生きてこられた人たちには、

煙たがりはしても、興味の持てる話ではないので、私がゴルフの話をされるのと

同じくらい会話が上滑りするのは仕方がない。

ゴルフにおいてのマイ・ルールとか主義とかを、語られたり、聞かれたりしても

困ってしまいますからね。。。

(とはいえ、ゴルフは人権問題ではないから、私が興味を持つ必要はないけど、

ジェンダー問題含め、現在、政治的、社会的に語られている問題は、人々が生きる上で

人権に係るもので、今を生きる者は、後世に悪い慣習を残さないようにすることが

生きる意味のひとつだとすると、軽視すべきではないということは、あえて主張させて

ください。

 

だから、会話が滑りに滑って、キャッチボールなんてとてもじゃないけどならなくて、

ルッキズムミソジニー的流れになってしまった(もちろんそれを指摘できるものは

その場でしましたが)ので、うまく言語化して会話をできなかった自分への苛立ちしか

出てきませんでした。

 

今までフェミニズム作品に多く触れてきて、それこそ古代ギリシア・ローマ時代

から培われてきてしまっている”社会構造”がおかしいことは、もう自明の事実です。

本作では、それこそ今の社会構造枠で言えば、いかにも”男性が好きで得意分野”で

あろうデータで、それが気持ちが良いほどに証明されています。

ただ、本作の著者が女性であるために、これらは軽視されてしまうのだろうか、、、

という懸念が拭えないほど、この男性優位社会は欺瞞に溢れていることがわかります。

もはやミイラのミイラ取り的議論に発展しそうですが。。。

論文に近い作品ですので、必ずしも読みやすいわけではないですが、少しでも、

たった1章の1部でも読んでみれば、驚きのデータ、事例に遭遇します。

ぜひ読んでみてください。 

<The 38th Book> ナイルパーチの女子会

女友達がいたことのない女性同士が出会い、各人の抱える問題も相まって、

それぞれの人生の歯車が狂いかけていくお話。

自分らしい人間関係の構築とその維持について、改めて熟考してしまいました。

 

ナイルパーチの女子会」(文春文庫)著:柚木 麻子

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https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167910129

 

結局、お気に入りの作家さんの本を手に取ってしまうものですね。

柚木氏の作品は昨年、「BUTTER」でいたく感激して、本ブログで取り上げるのも

「その手をにぎりたい」に続き、おそらく三作目。

本作は、どうやら水川あさみさん主演でごく最近、日本でドラマ化されたとか。

「BUTTER」との出会いから、柚木氏の作品は何作か読んでいます。

本作はこれまで本ブログで紹介した作品ほどの感銘は個人的にはなかったけれど、

否が応にも、自分の他人との関わり方を自省させられる作品でした。

 

大手商社でナイルパーチ(欧州やヨーロッパでスズキ等白身魚の代替として食される

アフリカの巨大淡水魚)を商材として扱う美人キャリアウーマンの栄利子。

同商社に勤めた父親と、カフェ経営等を経験した後に家庭に入った母親の元、

世田谷のマンションで30年間暮らしており、おそらく同じ街に住んでいるあろう、

「おひょう」こと翔子のブログにハマっていました。

田園地帯の実家から上京し、アパレル企業に勤めていた翔子は、精神的負担を理由に

退職後、アルバイトしていたスーパーで社員として働いていた現夫に出会い、同じく

世田谷で主婦として、つつましい生活を送っていました。

よくあるキラキラ主婦系、丁寧な暮らし系ではなく、ゆるっとした日常をユーモラスに

綴る翔子のブログに惹かれた栄利子は、翔子がよく出入りしていると思われる、そして

かつて母親が運営していた地元のカフェで念願の邂逅を果たします。

翔子はといえば、ブログの書籍化話や、実家、父親との関係性に葛藤を抱えています。

女友達がまともにいたことのない二人は、始めは意気投合しました。

が、徐々に激化する栄利子のストーカーまがいの言動に恐れをなす翔子と、

拒否されればされるほど、我を忘れて固執していく栄利子。

ナイルパーチは、人間が漁獲のためにビクトリア湖に放流したら、在来種を絶滅させ、

生態系を大いに乱したことから、主として栄利子自身や栄利子の周囲との人間関係に

ついて、折に触れて(栄利子視点からは時にナイルパーチに同情的に)比喩的に

語られています。

そこに翔子の夫、通っているカフェのバイトの男の子、栄利子の男性同僚の杉下や、

杉下の彼女であり派遣社員の真織、栄利子の奇行により関係性に溝ができた幼馴染の

圭子、栄利子や翔子の家族が加わって、ドラマが展開されていく。

あらすじとしては、そんなお話になっています。

 

そのお話の主軸となるのが、人間関係における距離の取り方、構築の仕方について。

栄利子は、優等生として育ってきており、人間関係においても

「(自分の中での)正解」を求める故、周囲からは奇怪に思われます。

「(自分の中での)正解」以外の視点が欠如しているため、他人を思いやる能力が

著しく低い、ない。

その「(自分の中での)正解」、つまり彼女の理想も、何もかも両親から与えられて

恵まれて育ってきたことに無自覚であるという背景に基づくものであるから、設置

されたハードルが異様に高い。

世界から隔絶された心地をずっと味わう羽目になっているわけです。

一方、翔子は、田舎にある実家の父親の陰に怯えています。

決して自ら動かない父親。道化のように振舞ってはいるが、実は怠惰の代名詞、

誰かが自らを生かしてくれるのを、死が訪れるのを、自分は何もせず、ただひたすら

家がゴミ屋敷のようになってしまっても王様かのように待ち続けている父親を、

忌み嫌いつつも、自分も結局その娘だと自認してしまう、せざるを得ない状況となる

ことを恐れています。

 

私が感情移入してしまうのは、どちらかといえば栄利子のほうでした。

翔子のように、家族内で何もなかったわけでもなければ、家族に対して思うところが

ないわけではないですが、お金に困ることはなく、得たい教育も与えてもらい、一流と

は言わずとも、そこそこの企業に勤めて、良くも悪くもレールに乗ってはいるという

バックグラウンドもありますが、私は、おそらく人間関係において、翔子のように

怠惰となり得ることはないので。

だから、仮に栄利子のように人間関係に執着するようになってしまった自分を想像

して、翔子の立場となり得るであろう架空の友人を想像したら、鳥肌がたつというか。

 

私は、人間関係において、常に全力で誠実でいたいタイプです。

それを、人間関係を構築している、していくであろう他人にも求めてしまう傾向には

あるのかと思っています、栄利子が翔子に強要したように。

以前、「不実な美女か 貞淑な醜女か」で書いた通り、

自分に誠実でいることが、他者に対しても誠実でいることである、そういう状態で

あるには自分の本質に自覚的であるべきである

というようなことを書きましたが、私はおそらく自分の関わる他人にも、内心でそれを

期待しています。

残念ながら、多くの人が私と同様の価値観を有していないことは感じています。

最近話した友人に言われたのは、

「自分の言動や心情について自覚的でいることって、非効率的だからね」

というようなことでした。

効率的=器用だとすれば、まあ私はとんだ不器用人間なわけです。

多くの人は、器用に生きているのでしょう。

そして、私はそれをどうしても、是とできない。

会社の仕事とか、家事とか、作業化できるような物事、自分自身の根幹に関わらない

部分に関しては、私はおそらくめちゃくちゃ効率的でスピーディーです。

なぜなら、仕事やら家事やら作業に割く時間を減らすことによって、自分について

考えたり感じたりする時間を、最大化したいから。

自分の根幹に関わらないことであれば、決断も作業も他人事になるから、比較的容易。

非効率的なことを行うために、生活のためのお金を稼いだり、住環境を整えたりする

ことは、めちゃくちゃ効率化しようという、ある種の矛盾かもしれません。

 

その非効率的な自分を受け入れてもらえないと感じることが多い今日この頃。

「不器用でいること=面倒くさい人」として認識されてしまうことに、この上ない

孤独を感じます。

家族含め、自分以外の人間は、必ずしも私と同じ価値観を共有しないのだから、

それはそれとして認めるべきだし、認めようと努めています。

全然うまくできないけど。笑

世の多くの人が、自身の言動や心情に無自覚的に、効率的に、器用に生きている

(少なくともそう見える)わけで、その在り方の認め方を、私は未だ模索しています。

社会学的には定義されていないでしょうが、彼らはある種マジョリティなわけです。

マイノリティである不器用な生き方をしている私が、そしてその不器用な生き方こそ

人間として真価があるという信念を持ってしまっている私が、マジョリティ形成する

社会の中で、生き延びるためには、私の最も苦手とする「迎合」をせねばならない。

 

苦手な「迎合」を、特に社会人になってから、そして何よりバンコクで過ごすように

なってから、昔より努めてするようになりました。

不器用な生き方をする(マイノリティでいる)って、この上なく孤独で、

私は根がとても寂しがり屋です。

幸か不幸か、私は見た目や雰囲気で与える第一印象が、いわゆるパリピだの、

陽キャだのと呼ばれる類らしいです。

「迎合」態勢には入りやすい。

意図したりしなかったりしつつ、明るい雰囲気をまき散らしながら、

「私はマイノリティです!不器用なんです~!」

って、主張する。

孤独感がその主張を、激化させることもある。

マイノリティは社会的弱者だから、基本的に主張するというアクティブで強い行為を

マイノリティが取ることは、周囲から想定されていません。

まあそれこそ、ちょっと前の流行りではありませんが、

マイノリティはわきまえているはずだ、と想定されているわけですね。

だが、私は、マイノリティなのに、性格的に驚くほど傲慢。

従って、違和感を覚えられ、余計に面倒くさがられる。

だから、サラリーマンの効率性を求める仮面をかぶって、プライベートでもよく

「迎合」する。

自分を押し殺して、営業スマイルを身に付けて、それでもほんの少し漏れ出てしまった

私自身を感じ取った人から、「我が強い」と言われる。

まあそれは真実だけど。笑

私が自分自身に誠実でいることによって、他人に誠実に接することによって、

ただでさえこの上ない孤独感が余計に増す切なさ、淋しさを感じる側面は、日々

多々あります。

空回り、なんでしょうね。

私は、まだまだ自己愛が強すぎる子供なんでしょう。

傲慢は直らないかもしれないけれど、大人にはならないと、と焦ります。

この感情が募りすぎてしまったら、私だって、「私のことをわかって!共感して!

正解はこれなのよ!!」って他人にかまってもらわないとどうにもならない栄利子

みたいになってしまう気がして、本作は少し怖かったです。

 

本作は、栄利子の働く会社の杉下や、その彼女で派遣社員の真織がフェミニズム満載の

応酬をしていたり、幼馴染の圭子の言葉が人間関係構築についての真理を説いていたり

して、刺さるセリフも多かった気がします。

環境も自分自身の心情も、人間関係もこれからも山あり谷ありなんでしょうが、

私は栄利子を反面教師にして、自分自身と、自分の構築している人間関係をうまく

メンテナンスしながら過ごしていかないとな、と思わされた作品でした。

<The 37th Book> JR上野駅公園口

なぜ世界的に評価されたのか、正直、個人的には全くわからない作品でした。

 

「JR上野駅公園口」(河出文庫)著:柳 美里

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https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309415086/

 

平成天皇と同じ日に生まれた、福島県出身の出稼ぎ労働者、後に3.11震災により、

上野公園に住まうホームレスの一生を回想的に語りつつ現代の上野公園、

上野周辺(=現日本)を描写している本作。

どこが回想シーンで、どこが現代についての描写なのか、読み取るのが簡単では

ありませんでした。

小説なのだけれど、ポエティックすぎるからなのでしょうか。

以前紹介した、ミランダ・ジュライの「最初の悪い男」もそのような感じでしたが、

本作においては、あまりエンターテイメント性もなく、淡々と回想と現代の叙述が

為されています。

印象としては、とにかく暗い。。。

息子も令和天皇と同い年の設定で、天皇、皇室への 述懐も多いのだけれど、果たして

それがどういう意図で描かれているのかも、読み切れない。

手を振る天皇の持つ”威光”への賛辞のようにも取れれば、天皇と同い年である自分たち

自身と息子の不運と不幸を呪っているかのようにも受け取れます。

正直、小説で読み飛ばしながら読んだのも初めてですし、読み飛ばしながら読み進めた

のに、こんなにも読了に時間がかかったのも初めてです。

私が無神経すぎる、短慮すぎるから、読み取れないものが多いのだろうか。

たしかに、私はほぼホームレスとは無縁の人生を送ってきているし、”出稼ぎ”も、

もはや昔話として聞いている世代です。

もはやベッドタウン育ちなので、故郷というほどのものでもないですが、今のところ

それを失わずにはまだ済んでいる。

ある側面からすれば、私がとても幸せで、マジョリティであることは認識している

つもりで、だからこそ、時に無神経になり得る可能性のあることも、恐れながら

生活しています。

正直、あえて、元出稼ぎ労働者のホームレスという経歴の持ち主を主人公にすることに

よって、どんな人にも各人の生きてきた軌跡があり、その人にとっては唯一無二の

人生でドラマであることを伝達するのに、果たして効果的で感動的な方法となったのか

甚だ疑問ではあります。

あえて小説で、このような経歴の人物を主人公にせずとも、各人の人生を尊重し、

どんな人間にも最低限の敬意を払って生活をしていかなければならないことは、

人々は常に意識しているべきであり、できていないことがあれば、自省をする必要が

あると考えてしまう私は、どうしても本作品の「あえて」感を好きになれない。

 

あと、天皇についての記述が多い中で、やはり彼らについては「象徴」としての描写が

多いことに、なんとなくしんみりしました。

憲法で規定されているのだから、もちろんそれは法律上は紛れもない事実なのだろう

けれど、彼らは「象徴」であることによって、憲法で定められている「人権」は

享受できないのだろうか、と。

そもそも、象徴じゃない一般市民の我々の人権についても、日本においては議論の余地

が山ほどありますが、いずれにせよ、皇室の人々の人権は、一般市民の我々よりも

よほど制限されているのではなかろうか、と思う今日この頃です。

たまたまそこに生まれただけなのに。

本作は、故郷を失ったことによる絶望も描いていましたが、そもそも故郷と呼べるもの

がない彼らには、一体生まれた頃から何が残されているというのか、という気持ちに

させられました。

 

さて、今回はあまり考察もできず、感情的に揺さぶられることもなかった作品

でしたので、これ以上書ける感想がありません。

けれど、どんな人間への敬意も尊重も欠いてはいけないという喚起をしてくれていた

作品で、本作を読もうとも読まずとも、私自身も私の周囲にも、それは常に意識して

日々を送っていきたい、送っていってほしいと切に願っています。

 

<The 36th Book> 快楽上等!3.11以降を生きる

上野千鶴子氏と湯山玲子氏という、パワフルで鮮烈な二人の対談集。

体感として、保守的な日本人が多い村社会バンコクの古本屋で、こんなにも

リベラル満載な本が見つかると思いませんでした。笑

本作を手に取って読んで、古本屋に売った人はどんな人だろうか、まだバンコク

いるだろうか、友達になりたいなあ、とつい思いを馳せてしまいました。

 

「快楽上等!3.11以降を生きる」(幻冬舎文庫

上野千鶴子湯山玲子

f:id:kanaebookjournal:20210228144657j:plain

https://www.gentosha.co.jp/book/b8805.html

 

さて、今年も3月11日まであと二週間を切りました。

信じられないことに、あの惨劇から10年になるのですね。。。

本作を読んで、改めて震災に対しての自身の向き合い方を顧みた気がします。

日本フェミニストの本家本元の上野氏と、文化の大御所・湯山氏の対談という

もう超絶刺激的すぎる本作。

初版が2012年10月に発行されているようなので、対談自体は、震災後落ち着いてから

それまでの間に為されたものなのでしょう。

私自身は、フェミニズム含む政治社会のこともまだ勉強中だし、カルチャーなんて

全然未知の分野なので、知らない言葉もたくさん出てくる中、

(編集が為されているとはいえ、基本的に)この二人が口頭で喋っていたことが

載ってるんだよね?世の中への造詣の深さとはこういうことか。

これこそが「対話」「会話」「コミュニケーション」というものだ!

と、もう、二人の発言内容自体は言うまでもなく、大感激。

あの飯屋が美味かった、あのブランドの服が欲しい、この間出会ったイケメンが、、、

等々、もちろん話として面白いし楽しいし好きだけれど、その背景にある物事や構造を

ネタとして、ガハハと笑う彼女たち、会話の真髄ってそういうものだよね、と改めて

思わされてしまいました。

本質的な言葉や会話が、実生活で得られにくい中、こうして本が私にとって必要不可欠

サプリメントになっていくわけです。

とはいえ、じゃあ仮に私が対談の第3人目として参加したら、この二人についていく

なんてことは全くできなかったであろうし、だからといって、いま実生活で本質的な

コミュニケーションを得られる機会は限られているので、なんだか中途半端で、切ない

気分にもなってしまいました。

 

さて、リベラル寄りの私も、もちろん膝を打ちまくり、付箋を貼りまくった本作。

3.11についてもメイントピックのひとつでしたが、文庫題名にもなっている、「快楽」

について、今回は書きたいです。

メインどころとしては、恋愛メンタリティとセックスといったところでしょうか。

 

恋愛については、色々と世間的にこじらせており、従って、私の両親はきっと未だ

私を処女だと思っていることでしょう。笑

私個人的なことをいえば、心と身体は必ずしも恋愛的(性的)に連動しないので、

これまでも別々に作用することが多々でした。

片思いで大好きな人がいても、全く別の人と身体の関係を結ぶことだってできます。

だけど、やはり多くの(周囲の)女性がそうではないことを知っています。

会話や対話の上で、”相互理解”に重きをおき、”共感”は二の次の私ですら、

やはり全く共感を得られないことは、なかなか自信を失くすものです。

「セックスなんてつまるところ、自己愛と自己承認欲求のための行為だよね」

と、しばらく前に、男友達と電話でそんなディープな話をして、その時はすごく

スッキリしたのですが、私の周りの多くの女性の友人が、それに賛同しないことは

わかっているし、だから結局また、自信の無さが戻ってきてしまいました。

 

でも、本作で、ネオリベ女子が陥りやすい優等生シンドロームとして、(個人的には

ネオリベ推奨派では全くありませんが、優等生であったとは自認しています。)

承認欲求が語られていてハッとしました。

大学で学生を教える仕事も持つ彼女たちは、

「学生の幼児化」に言及し、

「褒められたい”子ども”のまま」「子供部屋から出たがらない」大人が増えている

ということを、承認欲求の強さの要因のひとつとして挙げています。

耳が痛いですね。

彼女たちが対談していた2012年前後なんて、まさしく学生していたし。

でも我ながら、それは自分自身にも、正直自分の親世代にすら感じていました。

ネオテニー”という言葉を本作で学びました。

ネオテニーのまんま、子どものまんまでも生きていける社会を作ってしまったのが

戦後日本なの」だ、思考停止社会だ、という上野氏の言葉に、Maturityが日本人から

欠如しているのは、感覚的に感じ取れていて、それを見事に言語化された感じがして、

胸をつかれました。

それが、いい子いい子されたい承認欲求にも繋がっているのだと読み取れ、私の

この欲求は構造的なものにも起因し得るとわかって、いつまでも子どもの自分に焦りは

大いにありますが、それでも必要以上に自分を責めることはやめられる気がします。

 

もう「それそれ!そういうことよ、私が言いたいのは!」と大いに納得したのは

彼女たちがいう「ロマンチックラブ幻想(=オウム(真理教)幻想)」

私はあなたを一生愛するし、あなたも私のまるごと全てを受け止めて...!

という、ちょっと宗教チックなやつです。

でも日本の結婚制度のメインストリーム思想ってこれに基づいていますよね。

言ってみれば、承認欲求の最たるものなのでしょう。

韓国ドラマ含め、フィクションでよくあるのはわかるし、現実で得られないからこそ

妄想とフィクションにそれを求めるしかないのもわかるんだけど、求めれば求めるほど

不毛なやつです。

個人的に映画にしろ何にしろ、コメディ要素のないラブストーリーが苦手なのは、

あり得ないことを、オモシロとか何もはさまず、ピュアに描こうとするのが、なんか

傲慢というか、もはや暴力的に思えるからなんだろうな。

自分で自分のことを受け止め切れないのに、他人に受け止めてもらおうなんて依存性

どっぷりの妄想を、女だけが生き永らえさせている、という上野・湯山の分析は、

それを現時点で求めていない私をとても肯定してくれた気がしてほっとしたのでした。

 

私自身は、相対的には性の会話、性についてオープンであると自認があります。

とはいえ欧米ドラマやら映画に出てくる女性たちのように(現実世界にもいるのかな、

ああいう女性たち。ああいう友人関係が羨ましい)、大人のオモチャをプレゼント

し合えるほどにオープンではありませんが。

それでも、「マスタベーションの頻度は?」に対して

「え~、そんなのしないよ~!したことないよ~///」とか、

「最後にシたのは?」と聞かれて

「...内緒。笑 でもほんと長いことしてないよ」とか

答えてくる女性は、ぶっちゃけマジでlameすぎて、こちらが返答に困ります。

相手のそのつまらなさを知りたくなくて、基本的にそんな質問を女性にすることも

ないですが、まあ物寂しいものですよね。笑

その現象について、このお二人は、

性欲と恋愛は別腹、マスタベーションと他者とのセックスも別腹で認識したほうが

自然なのだが、自分の性欲は男のためにある、マスタベーション=男に選ばれない者の

代用品、惨めなセックスというイメージがまだまだ刷り込まれている

と語っています。

あと、挿入至上主義についても興味深かったですね。

私もアンチ挿入至上主義ですが、「俺を勃たせられないのは女じゃねえ」的刷り込みも

男女双方にあって、それが互いの首を絞めている感はありますよね。

もっと広い視野でセックスを見たほうが明らかに楽しいし幅も広がるのに。

そして、本作には、このセックスの話をきっかけとして、「予測誤差」というのが

キーワードになっています。

マスタベーションでは得られない”予測誤差”があるからこそ、セックスはもちろん、

社会も人生も面白いのではないか、というのが本作の大旨なのですが。

パートナー以外にムラムラする(男性でいえば勃起する、しそうになる)ことは、

(食べ物に例えられていたのがわかりやすかった、食べ慣れたものより、食べたこと

のないものに唾が湧くと書いてありました)予測誤差があるからこそで、それこそが

刺激が強く豊かな人生を構成し得るセックスなのに、それを「結婚」というもはや

制度的に疲弊、破綻した専属契約に自ら縛られる(なぜなら思考停止していて、

人々が子どもだから、複雑な関係性に耐えられない)ことをあえて選んでいるのは

ないか、ともありました。

 

私が日々、感覚的に、そして感情的にセックスと恋愛、男女関係について認知、認識

していたものをここまで気持ちよく言語化してくれるとは。

先述の通り、共感を重視はしなくても、皆無はやはり堪えるもの。

実世界で得られない共感を、本作から得ることができました。

時々、自分の恋愛や男女の人間関係に悩むことがあれば、これから読み返せる本が

できた気がします。

約10年前の作品ですが、(ただ私の勉強が追いついていないだけなのか)、全く

色褪せることのない言葉で、爽快に日本社会について語ってくれています。

フェミニストでなくても、文化人でなくても、ぜひとも読んでほしい一作でした。