Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 52nd Book> モヤる言葉、ヤバイ人 自尊心を削る人から心を守る「言葉の護身術」

ああ、私も人をモヤらせてしまったことある...

私もヤバイ人だったことあるかも...

って、自身を省みるきっかけにめちゃくちゃなります。

 

「モヤる言葉、ヤバイ人  

自尊心を削る人から心を守る『言葉葉の護身術』

(大和書房著:アルテイシア

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www.daiwashobo.co.jp

 

超簡単に言えばデリカシーとコミュ力の問題です。

本人は褒め言葉や助言として言っているつもりでも、「それどういう意味?」

と受け手として聞きたくなる側面は意外と多いもの。

自分のセクハラ、パワハラモラハラに無自覚かつ正当化されて、

ドン引く以外、どう撃退していいかもわからないし。

そんなデリカシーもコミュ力のカケラも感じられない言葉の数々や、

ハラスメントチックな人々への対処法を教えてくれている素敵な教科書です。

しかもまた、トーンが軽くて面白い。

撃退法として、”ゴルゴ返し”とか”エジソン返し”とか、イカす名称で笑えたり、

機知に富みつつ、笑える文章ばかりで読みやすい。

 

「いい奥さんになりそう」

「子供がいるように見えない」

「女子力磨いてこ」

その他多数のモヤ系ワード、さすがに最近は気をつけているつもりですが、

それでも、私も過去にこれらの言葉を、放ってしまったことはあります。

私だって、家父長制の社会に生まれ育って、めちゃくちゃ洗脳されているから

女は可愛くないといけない、良妻賢母にならないといけない、みたいな

価値観に未だ翻弄されています。

必ずしも本書には書いていなくても、家父長制文化や思想に基づいた考え方は

骨の髄まで染み込んじゃってることもあるし、気をつけて口に出さないように

しているけど、気をつけていないとポロっと出てしまうことだってあるし、

そんな夜もう、ドクとデロリアンが迎えに来てくれるよう本気で星に願う。

だって、余計なことは言わなくていいんだよ。

クソバイスも当てつけ系褒め言葉も、余計どころかマイナスにしか作用しない。

 

 

覚えたてのフェミニズムルッキズムに関しての話題が、思いがけず

のぼったりしたときに、

「痩せた?とか太った?とか相手に会った途端に挨拶代わりに開口一番で言うの、余計なお世話すぎて、しかも無神経すぎてマジで無理。」

という私のコメントに

(これは、別に勉強したからそう感じるわけではなく、私は自分が世間で言う

デブだからこそ、他人から自分の体型についてコメントされるのが本当に嫌)

「そんなこと言ったら、何も話せることなくなっちゃうじゃん」

って言われて、唖然としたことがあります。

人の体型に言及することの、一体どういう側面が、コミュニケーション自体や

相手に対して、プラスに働く要素があると思っているの?

太ったり痩せたりしたことが、病気かもしれないとか思わないの?

私の体型が変わることは、何かあなた自身や、私とあなたの関係性に

変化を与える重要事項なわけ?

もう数々の質問が浮いては消えますが、最終的に行きつく答えは

じゃあ何も話さず黙っておけばよろしいではないか。

他人の見たに言及することはあまり望ましくない、というコメントに対して、

「何も言えなくなっちゃう」と言うくらいなのであれば、一度、小学生から

やり直して、人との付き合い方やコミュニケーションの取り方を学び直して

きてください、としか言いようがない。

「そのくらい私はコミュ力も会話力もないです」って自分から言っているような

ものなので、ご自身の能力がその場に見合わないなら、黙っていてください。

思うのは自由。

でも、わざわざ言う必要のない、プラスにならない言葉を発するのは愚行です。

ここまで言い切るけど、それでも私だって、言ってしまうことはあるし、

まだまだ練習中です。

皇室関連で話題の小室氏だってさ、別にポニーテールだろうと何だろうと、

別にいいじゃん...

私のポニーテールとおそろいだよ、私もいまポニーテールしているよ、

取材してよ。笑笑

 

 

本作で書かれていた避けるべき人に、「体育会系の人」というのもあって、

もうペコちゃん人形並みに首を揺らしていたんですが、自称体育会系の人には

申し訳ないですが、もう私も普通に、体育会系、大嫌い。

とはいえ、私が通っていた公立中学は、軍隊のようにしょうもない校則があり、

些細なことをいちいち問題化して取り上げる、不必要な厳しさで溢れる学校でした。

「気合い入れれば何とかなる、気合いが全て!!」みたいな。

アニマル浜口の学校版です。

アニマル親子を批判する気は全くありませんし、可愛らしいと思っていますけど。

その体育会系根性論で、無数の命を亡くし、敗戦したのではなかったでしたか、

としか言いようがない。

ホモソ根性論は、男性同士で自らの首を絞め合い、女は排斥され、誰得論でしか

ないので、もうこれを中学の頃の私に教えてあげて、布教活動するように当時の

私を洗脳したい。

脳みそ筋肉化系教育に、あんなに苦しむ必要はなかったのよ、

当時の私に同情しかない。

 

 

というような、あんな言葉やこんな人に対して、感じ方や考え方も含めて

どう対処するか、ということが、面白おかしく書いてあります。

同時に

あなたはそんな無神経なこと言ってないですよね?まさかね!

と、ちくちく呼び掛けてくれもします。

他人から心無い言葉を投げられたときもそうですが、私は、自分が他人を

傷つけたとわかったときも、相当傷つきます。

その両方に対しての迂回路を教えてくれる、そんな本作です。

<The 51st Book> 一九八四年

私は本作についてはpretendしていません、お恥ずかしながら今更、

初めて読みました。

Books You Pretend You Have Readというコラム記事に必ず掲載されるといっても

過言ではない1949年に刊行されたという本作。

まるで現代社会を予見しているかのような末恐ろしさ、やはり必読です。

 

「一九八四年(新訳版)」(ハヤカワepi文庫)

著:ジョージ・オーウェル   訳:高橋 和久 

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www.hayakawa-online.co.jp

 

オーウェルの作品は、学生の頃、「動物農場」は読んだ記憶があります。

痛烈な社会風刺に称賛の念を抱いた一方で、現代社会や政治に対して暗澹たる気持ちを

植え付けられもしました。

動物農場」は、この「一九八四年」の前段階を描いた作品とも言えるでしょう。

「一九八四年」では、更にそれが概念的部分で発展し、物語の設定や背景が緻密に

設計されています。

詳しい説明は、私には力量不足が過ぎるので、ウィキペディアなどを参照してほしい

のですが(笑)、私が個人的に社会に対して危惧するもの、現代日本の行き先が

描かれているような気がして、戦慄が走ります。

同様に勉強不足も過ぎるため(泣笑)、思想の変遷や、政治社会の潮流なども

私も門外漢でわからないことだらけですが、オーウェル自身が、全体主義

権威主義体制への反論者であり、ヒトラースターリンと同時期に生きていたから

こそ、鬼気迫る想いがあったことが作品からは伝わってきました。

 

 

本作では、改めて、「思考・思想」とそれに伴う「言葉」の重要性が明らかにされて

いるように思います。

それらが与える各人の言動や感情への影響の大きさは、並大抵のものではない。

本作内では政府が、思考や思想、言葉さえも統制しています。

そして、歴史自体も塗り替えられる。

対戦国が常に変わるし、勝利したのか、敗戦したのかの過去の事実も政府によって

書き返られます。

(最近、日本メディアでも、以前にも増して、政府の黒塗り文書が公開されるように

見受けられますが、その場面に遭遇する度に、何となく、どうしても本作が思い

浮かんでしまいます。)

様々な史実、事実の書き換えと、それに基づく思想統制によって、最終的には、

思考のみならず、自らの感情をも、政府に操られることになる。

 

 

最近の日本社会、政治を見ていると、どうしても本作と被る部分が多く、

読みつつ戦慄が走りました。

人々に思考停止が求められている、と感じるのは私だけでしょうか。

現状維持が常に賢く正当な方法で、改善は求められていない。

私はジュリアほど刹那主義でもないけれど、同じくらい奔放でありたいと

思ってしまうし、一見弱そうなのにウィンストンほど自らに忠実に向う見ずにも

なれないけれど、どれだけ拷問にかけられても屈しようとしない意志の強さは

持っていたいと思います。

思考停止するということは、人間の根幹である部分を捨てるということだから。

 

 

サラリーマンとして、日系のそこそこの大企業に勤務していると、

そういった葛藤に悩まされることが往々にしてあります。

たとえば私は今の今、日本に一時帰国をさせられているのですが、

(だから本を読む時間も気力も削られた...!!怒)

その決断、決定ひとつにあたっても、色々と肉体的にも感情的にも、私という

個人は結構に振り回されたので、思うところがたくさんありました。

組織というものは、実体がないくせに意思を持って動きます。

ですが、実体がないから、その意思が常にふわふわ浮ついてしまい、

responsibility も accountability も「責任」というものが曖昧になります。

大組織になればなるほど、社内外ともに個人へ与える影響力が大きいので、

その浮つきをなるべく固定してほしいところなのですが、それをしようとすると

結局は現状維持が最善策だという方向性に向かうことになります。

誰も「責任」なんて、持ちたくないから。

「責任」を持てる立場にいる人たちも、数々のしがらみがあって、言動を

制約されているか、そうでなくても、その言動を取るほうが損である、と

打算的になれるくらいの既得特権があるから。

そうして、組織に所属する多くの人が、泣き寝入りする羽目になる。

でも生きている限り、社会という組織に所属しないで生きることは不可能です。

「置かれた場所で咲きなさい」なんて本がありましたが、(読んでいないのに

文句はあまり言えませんが)あまりセンスのあるタイトルとは思えません。

だから読む気がしなくて、読めていないのですが。

置かれた場所がどんな劣悪な場所でも、本当にそんなこと他人に言える?

自分の置かれた場所が、自分にとってベストではなくても、不快指数が低い、

人権が守られた(もしくは無視しても何も言われない)場所だから、そういう

特権があるから出てくる言葉なんだろうよ、と思ってしまいます。

理不尽な組織に、社会に、「理不尽です」と言ってはいけないのか。

そこから逃げようとしたり、それに変化を求めては、変化させようとしては

いけないのか。

 

 

それを「否」としたファシズム的社会が、本作では描かれています。

そしてどうしても、日本社会は世界から取り残されて、本作の舞台のような

世界に向かって進んでいるのではないかと不安になることが多くなりました。

だからこそ、ぜひ読んでみてください。

現状維持のための戦争や闘争が行われ、考えることも感じることも許されない

本作の舞台を見て、あなたはどう思うでしょう。

<The 50th Book> アウトサイダー

米国ホラー小説の巨匠、スティーヴン・キングの最新作です。

上下巻かつページ構成も上下段になっている、超大作です。

 

アウトサイダー」上・下巻(文藝春秋

著:スティーヴン・キング   訳:白石 朗 

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books.bunshun.jp

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フリントシティという街で起きた、凄惨な男児殺害事件。

その遺体は、身体の肉の多くが削がれ、木の枝でレイプされた悲惨なものでした。

目撃証言から、DNAなどを含む物的証拠は、その犯人が、高校教師であり、

野球のリトルリーグコーチ、善良な市民である地域の有名人のテリー・メイトランドを

指し示していました。

刑事のラルフ・アンダースンは、この凶行を許せず、あえて多くの観衆がいる

野球の試合中に、コーチをしているテリーを逮捕します。

が、テリーには、犯行時刻には鉄壁のアリバイがありました。

友人兼弁護士のハウイー・ゴールドの助けを借りつつ、別の町で英語教師の集会に、

数人の仲間と共に泊りがけで出席していたという話を供述していきます。

ここまでは、まるでジョン・グリシャムの小説を読んでいるかのような感じで、

「あれ?これキングの小説だよね?」みたいな気分。

 ところが、被害者家族が亡くなっていくあたりから、明らかに人外的存在の描写が

ちらほらと出てき始め、「きた、きた、きた、きたぁ!!キング節きたぁ!」

なってくる。笑

下巻からは、ビル・ホッジズ三部作シリーズでおなじみのホリー・ギブニーも

登場し、本作でも大活躍していきます。

 

 

数えきれないほど著作のあるスティーヴン・キング

映画化されたものには「グリーン・マイル」や、「ショーシャンクの空に」「IT」

など、ヒット作も数多くあります。

「IT」は映画は(怖いに決まっているし)観ていませんが、なぜか母が積読本に

していた中から、高校生くらいの頃に読みました。

「分厚っ!!しかも上下巻!?てか中のページも上下段じゃん!文字小っさ!」

くらいにしか最初は思わず、遅々として読み進められなかったのですが、

上巻の半分くらいのところから、徐々に引き込まれ始め、最後はしばらく一人で

トイレやお風呂へ行くのが怖かったくらいには、感化されてしまっていた。笑

 

キングの作品は、特に(超)長編作品を好んで読んでいました。

不眠症」「セル」「11/22/63」「アンダー・ザ・ドーム」などお勧めです。

長ければ長い作品ほど、彼の作品は超自然現象が出てくるのかな。笑

本作で活躍したホリーが登場する、ビル・ホッジズ三部作も、好きでした。

より人間ドラマが描かれている感じもして、最初の二作品は、ザ・キング感はない

気もしますが。

 

娯楽小説なので、正直、本作について感想という感想や回想など今回はないのですが、

キングは読ませるのが上手いです。

それなりの長編なので、読むのに1カ月かかるかなーと思ったら、半分で済んだ。笑

中盤から後半にかけて、ちょっと中だるむ感じと、真相究明から実際の解決までが

若干あっさりしすぎていて、上で紹介した作品たちほど、スリルが思ったより

なかったかな、という感じではありますが。

ページを繰るのが止まらないくらいには、展開が気になるような構成でした。

でもなんかやっぱりちょっと、物足りない感は否めないですかね。

 

なぜキングの小説が好きなのか、新作を手に取らずにはいられないのか、

自分でも未だによくわかりません。

別に、ホラーやSFって、人間ドラマ感が薄れてしまうから、何かを学べたり、

個人的に心に響くものがあるわけではあまりないので、そこまで好きなジャンル

ではないのですが、、、

作品の世界に読者を連れ込むことが技巧に優れている(=読者が現実逃避しやすい)

作品の長さ(書籍重量自体が重いし、文字がぎっしり)による「本読んだ~!」感

が、今のところ思わず触手が伸びてしまう理由かしら。

 

本、読書に没頭したい!!という方には、キングの長編作品、オススメします!!

<The 49th Book> 地球星人

大好き♥!とはならない作品だけれど、友人知人の皆さんに是非とも

読んでみてほしい、そして感想を聞きたい本、ナンバー1かもしれません。

 

「地球星人新潮文庫著:村田 沙耶香

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www.shinchosha.co.jp

 

村田氏の作品は、「丸の内魔法少女ミラクリーナ」「授乳」「マウス」

読んできました。

芥川賞受賞作の「コンビニ人間」も読まなければ。

本作は、読者を引き込む、読ませるのも上手い作品でもあります。

と同時に、何とも現代社会へ挑戦的。

「丸の内魔法少女ミラクリーナ」のときにも感じたのですが、村田氏の想像力、

発想力に瞠目せずにはいられない。

我々が、当然の真理だと思っているもの、覆せない事実、真実だと思い込んでいる

物事に対して、鋭く切り込んできます。

恋愛って?生殖って?人間として、いきものとして生きるって?

エンディングが、個人的に衝撃を受けました。

でも生物としての種を絶やさないという観点からは、腑に落ちる。

あまりの吃驚と、膝を叩くほどの合点具合という、めったに同時進行で感じる

ことのない心地が一度に襲ってきて、何とも言えない(決してネガティブではない)

不思議な読後感でした。

就寝前に読み終わったからか、夢に出てきた。笑

 

奈月と由宇は、小学生の頃、お盆に長野の山奥、秋級の祖父母の家で毎年再会し、

仲の良いいとこ同士でした。

家族からも世間からも、何となく浮いていることを幼心に自認している二人は、

ある夏、密かに結婚の誓いを立てます。

その中には「なにがあってもいきのびること」という約束もありました。

ふたりが行ったあることがきっかけで、親族の大人たちの逆鱗に触れ、

奈月と由宇がそれ以降、お盆に再会することはありませんでした。

家族から監視し続けられつつも、大人になった奈月は、監視網から逃れるためにも

ネットで出会った智臣と結婚しました。

その婚姻関係は、身体的接触は一切ないもの。

幼い頃から、自分は魔法少女であり宇宙人であると思っている奈月は、そのことも

夫に打ち明けており、彼も社会に馴染めずに育ってきて、いたく共感しています。

地球星人の住む「人間工場」では、労働し、新しい命を製造しなければならない。

その「工場」の部品になりきれないこの夫婦は、智臣の七つ目の会社の解雇が

きっかけで、秋級を訪ねることになりました。

そこで居候しており、もうほぼ地球星人と化した由宇と、奈月は子どものころ

以来の再会を果たし、物語が進んでいきます。

 

 

自分が宇宙人だと思うほどの度合いの違和感を感じることは、幸い(?)

ありませんでしたが、何度もこれまでも書いてきているように、自分が

明らかに”マイノリティ”だと感じる側面は多々ありました。

比較的幼い頃から、実体のない権力や権威に惹かれることはなく、むしろ、

嫌悪感のほうが大きかったかもしれません。

あの実体のなさが、私には不思議だったし、気色悪かったんです。

あまりに感覚的すぎる権力や権威が、色々なことを支配していて、誰もそれを

疑わない状態が、理解できなかった。

”何となく”が常態化して、常識化している感じが時々怖かったし、その違和感を

共有できる人がいないことも、心細かったです。

(今では、その”何となく”も構造的に作られてきたものが多数であることを、

フェミニズム含め、少しずつ勉強してわかるようになってきたつもりですが。)

それでも、その実体のない権力や権威があれば、もしくは、それに阿ることが

できれば、社会に「所属」できると思っていた。

「所属感」への憧憬の念が、常にありました。

そういう点では「工場」から洗脳されて、地球星人になって楽になりたがる

奈月と一緒です。

嫌悪しているものが一番手っ取り早い手段で、欲しいものへ導いてくれる。

そのジレンマに常々、板挟みになっていてしんどかったし、未だにそれに

悩まされることが時々あるほど、「工場」と私という「個」の間で揺さぶられます。

 

 

本作は、社会が変わらない「工場」のままだから、人間側が変わろうとした、

というお話でした。

人間という生き物として、もっとも合理的で幸せな形に進化した、というか。

でも私はどうしても、理想論者であることをやめられない。

「工場」が「人間の共同体」へと変化してほしいという願いを捨てきれません。

私の子宮が、人間製造機だという前提にならない社会。

私の価値が、稼いで所持する貨幣で決まらない社会。

「なにがあってもいきのびること」が生きる目標にならない社会。

本当に「工場」になりつつある現社会へ投じられた、センセーショナルな一作です。

<The 48th Book> 乳と卵

この世に生を受けて「生まれる」とは、どういうことでしょう。

 

「乳と卵(文春文庫著:川上 未映子

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books.bunshun.jp

 

ああ、日本文学読んでる、って読みながら実感してしまうような作品。

内容やストーリーは確かに、とても現代的だし、芥川賞受賞作な上、もちろん

英訳本も出されて、ハリウッドセレブにも読まれているような作品です。

登場人物の発言や心の機微について、読者に行間を読ませる感じ。

作者と読者の距離感、読者と登場人物のそれ、登場人物同士間のそれが

しっかり保たれている感じというか。

余すところなく言語化されているのではなく、感情と見解の余地が残っている。

(めちゃくちゃ言語化、論理化されていた部分は、「わたし」こと夏子がどこかで聞いたような覚えのある、女性二人の胸や化粧についての、THEフェミニズム議論の部分のみでした。)

それって、とても日本文学ぽくないですか?

それとも私が、言語化されないと気になる性質だから、語られなかった言葉や、

無言で行われる動作に敏感すぎるだけでしょうか。

どうやって英訳したんだろう、読んでみたくなりました。

 

関西弁で、句読点も少ないため一文が長い、特徴的な文体で、夏子が垂れ流した

思考や、彼女視点での説明がそのまま語られている感じです。

緑子が書き溜めていると思われる、日々のノートに書かれた彼女の考えや感情も

挟まりながら。

不思議と全く読みにくくない。

大阪の場末のスナックで働く姉の巻子と、その思春期の娘で、この半年、全く

喋らず筆談のみの緑子が、東京に住む夏子を訪ねてきたときの、たった3日間を

つづったお話。

巻子の目的は、豊胸手術を受けるため、というのもあります。

ストーリーテラーは「わたし」である夏子ですが、主役は緑子かしら。

人体の、特に女性の身体の在り方とそれに付随する「生まれる」ということと、

それへの単純な疑問や自身の感情を描いている。

あとは、またそこから派生する、巻子との母娘関係のすれ違い。

思春期ならではの悩みや、もやつきだけれど、看過してはいけないもので、

読者(特に女性の読者になってしまうのかしら)に初心を思い出させるものです。

 

 

私自身も、日本で一度、タイでも一度、卵巣周辺の手術をしています。

お陰様と言っていいのか、未だに私の中で整理がつきませんが、まだ卵巣は、

両方とも残っています。

正直なところ、毎月の生理が煩わしくて仕方がない。

妊娠出産は今の時点では希望していないので、その気持ちは増長されます。

年齢もあるかもしれませんが、一カ月の間で快調な日は、一日あればいいほう。

排卵日前はなんだか体温が上がる気がして暑くてだるいし、排卵前後はおりものが

多くて不快。

生理の一週間前くらいから徐々に体調が下降気味、生理が来る三日前くらいには、

もう眠くて仕方なくて、忙しくても仕事が手につかない。

生理が来るまでの間、そして来てからのニ、三日目までは、軽い時は常に腹部違和感、

もしくはちょっとした腹痛、重い時は起き上がれないほどの眩暈や頭痛、腹痛。

年々、症状は重くなってきています。

もちろん主治医には相談していますが、これらのPMSや生理痛軽減のためのピルを

服用するという判断には至っておりません。

学生の頃も生理不順で飲んでいたのですが、数年前に一度、低容量ピルを試した

ところ、副作用が酷すぎて、とてもではないが、服用を続けられなかった。

何が良くて毎月毎月、股に何か挟んで、どろどろと自分から流れ出る血を感じて、

それが夜中にシーツに漏れやしないか心配して、運動や入浴を制限したり、

あの一週間弱は、毎月不快極まりないし、それに伴う少なくとも二週間程度の

身体の不調も不便で仕方がない。

症状が重い月は、卵巣両方取ってくれればよかったのに、って思ったこともある。

生まれる予定のない胎児のベッドを、自らしんどい思いをして作り出して、

使われないから毎月捨てるなんて、合理性のカケラもないです。

だからこそ、生命の神秘的に語られることもありますが、「血の穢れ」とかいって、

女性が土俵に上がれず、調理場に入れない、訳の分からない慣習も生理から来ている。

こんなの、望んでもらった機能じゃないのに。

こんな機能のせいで、”女は人間の出来損ない”扱いを受ける。

機能自体も、それに基づく社会的対応も、全くもってナンセンスにしか思えない。

毎月、下着に血がつく度に、私はあと20年前後、生理用品にいくらお金をかけて、

何回こんな不快で不便極まりない経験をするのだろうと、陰鬱な気持ちになります。

 

初潮はまだ迎えていない(緑子いわく、「勝手にくる」、正しい。笑)であろう

緑子は、生理が何なのか、それが来ることでどうなるのか、を既にちゃんと自ら

勉強していました。

母親が、場末のスナックで、せきどめシロップを飲み(やせ細っていきながら)

自らを奮い立たせて働いているのを見ています。

母娘ふたり、「食べて行かなあかんねんから」

緑子は、止めることのできない生理が来て、そもそも受精ができてしまうと、

またひとり、食べて、稼いで、考えて、、生きていかないといけない身体が

生まれてしまう、それが恐ろしい、と。

薬物に手を出してまで、自分に鞭打って生きていかないといけない、

「食べていかなあかん」人間が増えることが、絶望的に思える、と。

巻子も緑子も、自分の責任で生まれてきたのではないのに、生きないといけない。

 

結局、私がいま出産を望まないのも、ここに帰結するからです。

出産したら、その子が生きなければいけない状況に陥った責任は、私にあるから。

私が生まれてきたのは私の責任ではないけれど、その子が生まれてくるのは私の責任。

一人の人間の「(人)生」が自分にかかるなんて、正直、私には抱えきれないから。

巻子の豊胸手術の話は、緑子のそんな思春期の状態を更に不安定にさせました。

わたしが乳を吸ってしぼんだというなら、わたしを生まなければよかっただろ、と。

私自身も、昔、両親と喧嘩すると、よく「生んでなんて頼んでない」と言っていた。

母と数カ月前、久々に話した時に、私の将来の話になって、全く感情的になっては

いなかったものの、つい普段の考えが、口をついて出てしまった。

「子供を産むっていうのは、親のエゴなんだから。」

私の本音だけれど、一人娘の私から母に言うには、あの喧嘩の時の言葉よりずっと

酷かっただろうか、と未だに後悔しています。

 

 

文学としてもとても秀逸ですし、内容もぜひ、特に男性には読んでほしい。

生を受けて、生まれたこの身体が、何を意味するのか、考えさせられます。

 

<The 47th Book> ボージャングルを待ちながら

珍しくラブストーリーを読んでみました。

コミカルで軽いタッチなのに、何とも切ないフランスの愛の物語です。

 

ボージャングルを待ちながら集英社

著:オリヴィエ・ブルドー  訳:金子 ゆき子

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www.bungei.shueisha.co.jp

 

息子の「ぼく」が語る、両親のラブストーリーです。

ママを毎日違う名前で呼ぶ食わせ者のパパと、パパの作り話が大好きな

(というより信じ込んでいて現実を見ない)ママ。

ママは「ぼく」に学校であったその日の出来事を、悲しかったりつまらない現実より

「ぼく」なりの面白い(嘘の)ストーリーで聞かせるのをせがむほど。

そんな「ぼく」は小学校を自主退学しています。

アネハヅルのマドモアゼル・ツケタシも家族の一員です。

パパのお友達の元老院議員の「クズ」もしょっちゅう一家の輪の中にいます。

時には自宅で、時にはスペインにある別邸で、あらゆるお客を招いて、

朝から晩までカクテル片手に、パーティー三昧の一家。

ママのお気に入りの一曲は、ニーナ・シモンの「Mr. Borjangles」です。

如何なる時もこの一曲と、曲の中にでてくるボージャングルは常にママと共に。

夜通し踊る楽しい日々も束の間、ある日を境に、家族を悲しい末路へ導いていきます。

ママの狂気に満ちた愛と、いつか幸せな日々に終わりが来ると知っていながら、

ママと会った瞬間から惹かれ続けるパパ。

全てが嘘のようなフワフワした現実。

楽しさの中に、常に切なさと悲しさが同居している、そんなラブストーリーと

なっています。

 

 

私は映画の作品もそうなのですが、精神的病気に係る作品が好きです。

本作で私が魅了されたのは、パパが、ママの狂気をわかっていて、むしろ

そこに惹かれたということ。

大抵は煙たがられるであろう、そんな特徴に魅力を感じたからこそ始まる

恋愛物語だったことです。

(精神の病を軽視しているつもりは全くないのです。

実際に病名や症状は違えど、苦しんでいる人は知っています。

逆にそれが魅力になり得るよ!とか言ったら、マイクロアグレッションでしか

ないのはそうで、すごく言語化が難しいのですが、、、)

それが病であろうとなかろうと、その人のある種、突出した(そして大衆から歓迎

されない)特徴に魅力を感じる人がいるということが前提になっていることに、

何となく励まされてしまいました。

 

 

毎日パーティー三昧で、朝はマドモアゼルがぐでんぐでんの来客を起こして回る、

朝からサングラスをかけて頭痛を抱えながら迎え酒を買いに行く、そんな親が

いる一家なんて、それだけでクレイジーすぎるといえばそうなのですが、

ああ、こういう生き方もありだよね。そんな人もいるよね。

って、(少なくとも私は)自然と受け入れられるくらいに、それが当然のもの

として描かれています。

視点が息子の「ぼく」だからなのかもしれません。

そう考えると、常識的にはちょっと痛ましくもありますが。

なぜなら、ネタバレになるので書きませんが、ストーリー自体は、現実であれば

とんだ悲劇でしかないから。

それでも読了して心が軽くなったのは、何が起こっても常に突飛で愉快なユーモアな

日々を送ろうとしていたからなのかしら。

”現実を直視しない”生き方をしている人を、私は直接的に知りません。

ですが、現実を直視してばかり、それを求められてばかりの今の世の中です。

仮に私がママみたいな人物に出会ったら、私も惹かれてしまうかもしれない。

それか、すごく嫉妬してしまうのかもしれない。

(ああ、これもマイクロアグレッションになってしまうだろうか。。)

空想の中で生き続けることを選ぶ、という無責任甚だしい選択に、私は拍手喝采

したい思いでもありました。

 

 

本作の中心ともなっているニーナ・シモンの「Mr. Bojangles」聴いてみました。

open.spotify.com

もう、この小説にぴったりの、なんとなく寂寥感を感じさせる、だけど全く

暗さのない曲調と歌詞でした。

 

 

一家に限らず、登場人物みんなが、互いに寛容で、愛に満ちていました。

とんでもない悲劇なのに、それに涙を流しながらも、なぜだか顔には笑みが

浮かんでしまう作風になっているのでしょう。

空想の、夢の世界で生き抜こうとする。

だけど、満ち満ちて止まない愛は、空想の世界にも現実世界にもまたいで存在します。

そこに「ぼく」の両親の苦しみがあったのでしょうか。

おかしいのに、ほろ苦い、そんなたくさんの感情を体感させてくれる、

純愛物語でした。

<The 46th Book> 踊る彼女のシルエット

30代女性が必ず悩みもだえ、葛藤するであろう自分の生き方についての数々の議題を、

ぎゅっと凝縮して、女性の爽快な友情の物語にしてくれています。

 

「踊る彼女のシルエット双葉文庫

著:柚木 麻子

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honto.jp

 

またも柚木氏の作品。

「BUTTTER」「その手をにぎりたい」「ナイルパーチの女子会」に続く4作品目。

2021年4月が初版の最新作のようです。

つい手に取ってしまいました。

柚木氏の作品はとても好き。

 

現代を生きる女性の考えや感情を、ここまで豊かに言語化してくれているとは。

 

本作は、これまで読んできた作品に比べて、物語自体は単調に進みます。

とある商店街の義母が運営する喫茶店「ミツ」で、妊活をしながら働く35歳の佐知子。

学生来の佐知子の親友で、美貌の持ち主の実花は、かつて夢だったアイドルになる

ことはとうに諦め、「デートクレンジング」というアイドルグループのマネージャー

として、メンバーが小学生の頃から10年にわたり働いていましたが、グループ解散と

なったことをきっかけに、婚活に精を出し始めます。

「私には時間がない」と、近所の奈美枝さんの形見として寄贈された鳩時計に、

まるで追い立てられているかのように。

そこから少しずつ、ずれていく二人の友情の歯車。

切なく歯がゆい場面もありつつ、その登場人物各人の想いが身に染みます。

物語自体は、他の柚木氏の作品に比べて、アップダウン少なめで淡々と進むのに、

どうしてか涙ぐんでしまう局面がちらほら。

女性はどの世代でも、同世代であれば、男女問わず、共感しやすい作品かと。

 

 

佐知子の視点でストーリーは進むのですが、主役はむしろ実花じゃないかな。

私が実花に共感してしまいやすかっただけかしら。

 

 

私は考え方が非常に古いのか、

芸能人たるもの、人並外れた美貌もしくは曲芸なしに、人前に出て稼ぐな!

というような凝り固まった理想があります。

本作を読んで思ったのですが、これは私がオタクの対極にいるからなのかも。

ないんですよ、ハマれる物事も人も。

もう世が屈服するほどの造形美か力量で、圧倒するくらいでないと、私には良さを

見出せる人たちがいないんです。

もうネズミ算的にアイドルグループにしろ、タレントにしろ、俳優にしろ、

たくさん出てきますけど、その辺を歩いているような人、路上パフォーマンスと

(むしろ路上パフォーマンスのほうが感動したりするけど)大して変わらない人

とか、なんでメディアに出てきて騒がれるのか、全くわからないんです。

自然と、10代半ばから日本のメディアにはあまり触れなくなり、完全に

テレビ離れ化してしまいました。

これだけ「推し」が騒がれていて、もはや日本文化として当然のものとして浸透

しているのに、私には推しがない、いない。

映画俳優のDenzel Washingtonくらいかな、唯一推しといえそうなのは。笑

とはいえ、別に毎日、彼の映画に触れたい、その時間を作りたいとか全くない。

何にも詳しくないし、何事に対しても熱量がそこまでない。

それが最近の新たなコンプレックスとなっているわけですが。

かつて亜流だったオタクが主流になり、無趣味で非オタな私が亜流となってしまった。 

 

 

そしてそんな熱狂的なオタクに支えられているであろうアイドルたち。

本当に恋愛禁止であったりすることが多いそうで、人権無いなあ、とか思ったり

するわけですが。

本作に出てくる「デートクレンジング」というアイドルの解散のきっかけも

たまたま恋愛スキャンダルでした。

そもそも実花が造り出そうとしていたアイドル像は通例のものと異なり、

恋愛禁止でもなく媚びない疑似彼女的側面を持たないアイドルグループでした。

実花は、女性らしい女性が嫌いな父親の元で、男兄弟と父親が喜ぶような

言動をしながら育ちました。

女性らしい自分の母親に、素直になれない少女時代を過ごしてきています。

男らしく振舞うことが上位であると潜在的に認識しているからこその、

その振る舞いなのに、自分の担当するアイドルグループには女の味方であること、

男に媚びない、期待に応えなくてもいいと伝え続ける。

「日本ではどんなに演技が上手くて美しい女優でも、理想の恋人やお嫁さん像から外れたら、トップには立てない。わかるでしょ?」

親友でありながら、実花の一番のオタクである佐知子が、婚活に必死になる

実花を何とか彼女らしさを取り戻してほしいと、婚活会場まで駆けつけて、

話しに行った場面で、実花が佐知子に放った言葉の一部です。

(私、決してオタクになれないな、とも思った。笑)

恋愛スキャンダルで解散の運びとなったからには、結局、アイドルたるもの

疑似彼女的側面は持ち合わせるものなのだ、その風潮を変えることができず

無念で仕方がない実花は、失意のうちに、自分が男性の期待に応える婚活を

始めることになったわけです。

 

 

この矛盾、痛いほど、私は手に取るようにわかります。

ここ1年少しで、フェミニズムに関して読み漁るとまでは言いませんが、

何冊も目を通してきて、勉強してきたわけです。

ですが、学べば学ぶほど、どうしてもこの矛盾の板挟みになる感覚があります。

以前も書きましたが、私は人気だとかモテだとかに異様なコンプレックスが

あります。

そして、それをうまく得られない反発心もあります。

その二つが未だに拮抗している。

自分らしさの中に、女性らしさ(媚びられる、愛嬌がある)があまりないって、

それだけでとても欠陥があるように思えました。

”女性らしさ”が少ないからと言って、ゼロではありません。

人より(他の女性より)少しだけ”男性らしさ”が多かったのかもしれない。

別に、だからといって、強いわけでも、可愛いものよりかっこいいものが

好きなわけでもないのに。

それでも、女性らしさが少ないから、男性的な言動に寄せていって、そちらに

取り入ろうとする自分がいたことに、本作を読んで気付きました。

男性優位社会なのだから、男性側に自分を寄せていって、女性を見下す、

そんなミソジニー的思考が、私の中にまだ強く根付いてしまっています。

そこまでしても、どうしても、得られたことが未だかつてない、所属感

というものを得たかった。

だけど結局、何が本当の自分らしさなのかも見失う羽目になってしまいました。

その自分らしさを救うために、私はここまでフェミニズムに傾倒していた、

ということを気付かせてくれた本作でした。

 

 

あと、女性の友情も、アップデートしていけるという希望もこめられた一作。

男性は、結婚しようが子供ができようが、社会生活が変わらないけれど、

今の日本社会では、女性はどうしてもそうはいきません。

結婚したり、子どものいる女友達とは、私もどうしても疎遠になってしまった。

自然な流れだと思い込んでいるし、そんなもんだ、と言われればそれまで

だけれど、どうしてもそれをそうだと言いたくない。

佐知子の妊娠が発覚した時、佐知子の夫が、「見えない差別」と解釈して

説明していた言葉です。

(ああ、なんてデキた夫だろう。私も仮に結婚するならこんな人がいい。)

先日、ご飯屋さんでで、私のかつての親友とのエピソードを話した時に、

(詳しくはこちら。笑)

kanaebookjournal.hatenablog.com

「切ないね。だけど大人になっていく、友達ってそんなもんだよ。」

というような感想と助言をもらったのですが、

そうなんだけど、そうじゃないんだよう!!!

って私が思っていたことも、この本がうまく言葉にしてくれた気がします。

 

 

こんなにも多岐にわたるトピックが、可愛くもあり、リアルでもあり、

爽やかでもあり、示唆に富んでいる、素敵な物語でした。