Kanae's Book Journal Occasionally with Movies

読書感想文とときどき映画。

<The 58th Book> ひとまず上出来

立て続けですが、ジェーン・スーさんの短編エッセイ集。

「ていねいな自分観察オブセッション」なんじゃないかな。笑

 

「ひとまず上出来文藝春秋

著:ジェーン・スー

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books.bunshun.jp

 

CREAでの連載を主としたエッセイ集。

これまで読んできた作品の中でも、一遍が短くて、読みやすいものに

なっていました。

「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」が、初めて私が手に取った

彼女の著作でした。

それ以降、雑誌の連載や、ネット記事など、すべてを追うことは

できていないけれど、書籍が出版されると必ず入手し、読んでいます。

そのくらい、「貴様~問題」は当時の私に響いたし、その後も

エッセイだけではなく、対談集なども含めて、毎度、励ましてくれたり、

共感してくれたり、必ず何かしらのポジティブな気付きを与えてくれる

彼女の文章は、大好きです。

このブックレビューでも「これでもいいのだ」で、女友達について

私も書いた気がします。

 

彼女はラジオなどでも活躍されていて、TBSアナウンサー堀井美香さんと

一緒にされているポッドキャスト番組の「Over The Sun」は毎週

聞いていたりするのですが。

意外と私と年齢が離れているのだな、と聞いていて感じることも多く、

その分、色々と学んだり憧れたり。

それもあってなのか、本作は、中年を謳歌している作者の日常と思索が

語られているので、アラサーの私には、共感よりは学びが多い。

早く年取りたいなあ、とまで思ってしまうこともあれば、あと

十数年後も未だ些末なことに悩むこともそりゃあるのか、とちょっと

落胆したり。笑

 

 

ジェーン・スーさんは、推察するに、非常にキャリアマインド、

というかwork-orientedな方なのだと思います。

本作の中に「頑張れたっていいじゃない」という一遍があるのですが、

頑張れることがたしなまれるような風潮になってきたことに、

モヤついていたという話です。

彼女は、頑張りたい人。

でも頑張りたい人が頑張っているだけで、勝手にoffensiveに捉えられて

しまう世の中になってきているよね、頑張れない人が頑張らなくていいよ、

というトレンドになっていると同時に、頑張りたい人が頑張っていい

雰囲気にもなってほしいよね、という話でした。

私は、work-orientedから真逆の人間なので、自分が頑張りたいレベルと、

周囲が私にここまでは頑張ってほしいと思っているレベルの差が大きく、

いまそれが非常に悩みで、ストレスです。

「(最低限のことはやるから)私は頑張らない、頑張りたくない」と

主張し続けているのに、周囲に諦めてもらえないことが、本当、

サラリーマンは辛いよ、な感じなんだけど。笑

 

昔から努力コンプレックスです。

それなりにガリ勉で過ごした中学時代、高校受験に失敗して以降、

鶏頭牛尾が私のモットーでした。

選んだ高校も、大学も(大学は私らしくて居心地よかった)、

選んだ会社も、ぜんぶ、昔ガリ勉したときほど、頑張らなくて済むと

思えた場所を選んだのです。

あれだけ努力したのに、結果が出なかった高校受験を、未だに私は

引きずっています。

努力して結果が出ないなら、(他人に迷惑をかけない範囲で)努力せずとも

出せる結果で満足したい、という選択をするようにしてきました。

努力が苦手だと、未だに思っています。

どうしても、努力が”必ず”成功につながるはずだ、という迷信を信じたくなる。

でも身を以てそうではないことを知っているので、努力しないという

選択をしてきています。

 

そこが今、特に仕事関係において、自らの精神状態に歪んだ緊張感を

生んでしまっていることになっています。

そして、結局そういったストレスから逃れるために、多くの人と会い、

酒を遅くまで飲み、一時的に忘却しようと試みる生活を最近は送っている。

あまり心身ともに健康的ではないのはわかっているのだけれど。

そうでもしていないと、ひとりバスタブで泣き止めなくなっちゃったりするから。

頑張らなくてもいいよ。というか既に充分頑張っているよ。

頑張っていても頑張っていなくても、それがあなただよ。

そんな言葉を自分で自分にかけても、まやかしにしか聞こえない、

そのくらいセルフコンパッションが今はうまくできていないんですね。

自尊心は下がっていくばかり。

自分一人でいると、ネガティブ思考の波に攫われそうになるので、

結局、人と酒を飲んで思考逃避をしているのですよね。

あえて感覚と思考を鈍麻させている状態なのかもしれません。

なんだかただの愚痴で暗くなってしまったけれど、今はこれはこれで

いいと思っています。

たぶん、そういう時期なのだ、と。

元から心身ともに体力も対人力も強くないから、いつまでも連日飲み会続きの

生活が続けられるとは思っていません。

私の逃避に付き合ってくれている友人知人の皆様には感謝しつつ、

潮時かな、と思える時がきたら、頻度を減らして、また別のストレス発散の

方法模索と、self-esteemに取り組むことにします。

 

 

今はそんな生活だから、本当はもっと心に響いたであろうはずの本作が

そんなに入ってこなかったのが残念です。

本作にも、「ていねいな暮らしオブセッション2021」という章があり、

流行りのいかにもな”ていねいな暮らし”はピンとこないけど...という

話なのですが。

”ていねいな暮らし”はジェーン・スーさん向きではないのかもしれないけど、

でも、やはり本作を読んで思ったのは、お仕事柄もあるのだろうが、

ていねいに自分のことを観察しているなぁ、と。

メタ認知能力が素晴らしく発達しているんだな、と。

それは本人の努力の結晶でもあるだろうし、だからこそ、それも

仕事のスキルの一つとして活かせているのでしょう。

広範囲にアンテナを張りながらも、自分のinstinctに従って、

日々の生活の中からトピックを拾い上げられているのもまた素晴らしい。

私もまた、日々のちょっとした会話や、街の風景など、小さな出来事から

気づきが生まれてくるような生活に戻ったら、また本作、再読したいです。

<The 57th Book> 新しい出会いなんて期待できないんだから、誰かの恋観てリハビリするしかない 愛と教養のラブコメ映画講座

映画、ラブコメについての本、そしてジェーン・スーさんが著者。

こんなにも好きなものが揃っていいのだろうか、と思える夢の一作です。

(アラサーだし、正直まだちょっと出会いは期待したいけどね...笑)

 

「新しい出会いなんて期待できないんだから、誰かの恋観てリハビリするしかない 愛と教養のラブコメ映画講座ポプラ社著:ジェーン・スー & 高橋 芳朗

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www.poplar.co.jp

 

時々、オンライン記事で読んでいた、お二人のラブコメ映画講座。

書籍になってしまって、もう大興奮でした。

ご存じの通り、本(読書)大好き。

そして、映画も大好き。

実は、ブコメも相当好き。

そしてジェーン・スーさん、大ファン。

何なの、これ!?私のための本なの!?

とテンションが爆上がりして、即座にアマゾンで注文しました。

海外配送料なんて関係ありません。

しかも見て!表紙(カバー?)が可愛すぎる😭💛

 

 

ブコメなんて、チープな娯楽映画、文化人の観るものじゃないわよ。

とか、10年近く前までは粋っていましたが。笑

(と言いつつ、結構観ていましたけどね。)

本作の"愛と教養"というタイトルの言葉に、今となってはもう、

首が疲労骨折しそうなほど頷いている、成長した私♥

粋っていた当時も、なんだかんだ観ていたのには理由があると思っています。

 

①とっつきやすい。

粋っていた頃に思っていた、”娯楽映画”というのは今でもそうで。

映画って、1本90-120分とかで、年を取るにつれて薄れる集中力には、

しんどいこともしばしば出てきてしまって。

でも、自らの集中力に頼らずとも、(いい作品であれば)何となく

物語にうまく誘導してくれて、小難しい話もなく、さっと手に取りやすい。

それがいい意味で"娯楽映画"の、ラブコメだと思っています。

(時々、ちょっと重いやつもあるけどね。)

 

②登場人物を通して、感情のおさらい、感情デトックスができる。

普段、朝起きて、仕事をして、帰宅して、寝て、、、の繰り返しの

生活だったりすると、感性が、感覚が、感情が麻痺していっていることに

ふと気づくことはありませんか。

もしくは、仕事やその他の利便性のために、麻痺させる術を、

知らぬ間に自分で身に着けていたり。

効率が悪いから、感じることが、怖いんですよね。

Feelings自体を避けてしまうし、Emotionalになることなんて

もってのほか、という場面も多いはず。

そんな時に、ラブコメを観ると、自分だけでは思い起こせない感情を

心が感じてくれることがあります。

気付かぬうちに、微笑んでいたり、涙していたり。

感じることのおさらいをして、凝り固まった心が少しほぐれたりするのです。

 

②意外と恋愛主体(オンリー)じゃない。笑

これは、もう本作を読んでいただきたいですが。

ブコメといいつつ、各作品内の恋や愛の形も様々で、性的指向の違いは

もちろん、恋や愛の対象が家族であったり、仕事であったり、色々あります。

私自身も、恋愛体質ではない(というかむしろ避けているのだろか...)

から、色んな形の恋や愛を疑似体験したりして。

様々な形の恋愛を通して、自分自身と向き合う主人公から、

意外と学びがあったりするのもラブコメのいいところ。

 

そんなこんなで、"愛と教養"に半月板損傷するくらい膝を打っています。

 

 

対談・エッセイ以外に、巻末にも大量におすすめの

ブコメが紹介されています。

メインで語られている作品たちの中では、7割くらい観たことあったかしら。

観たことない作品も、観たくなるものばかり。

私のお気に入りの作品もいくつかあって、それらについては特に、

食い入るように読みました。

著者の二人の、考察、洞察が深い、感激。

あと、やっぱり鑑賞の仕方が繊細だな、とも思いました。

言うまでもなく(というか僭越すぎるけど)表現力が豊かだから、

言葉のチョイスが的確なのはそうなんだけど、映画が表現している

ストーリー自体や、登場人物の感情や感覚を、とあるセリフや場面から、

時代背景とかも含めて、(頭じゃなくて)心が納得するような形で

語ってくれている。

 

 

私はそんなに綺麗に明確に語ることはできないけれど、

好きだから、お気に入りのラブコメを綴っておくことにします。笑

 

🎬You've Got Mail 

www.imdb.com

これは本作でも語られていました。

Meg RyanとTom Hanks が主演です。

もう私、セリフ全部覚えるんじゃないかレベルで何度も観た。

インターネットが普及し始めた頃でAOLの回線を繋げている音も懐かしい。笑

児童書を扱う専門店で母親の跡を継いでいるKathleen (Meg Ryan)と、

大型書店経営の御曹司のJoe (Tom Hanks)のバーチャルと現実の出会いを

描いた、マンハッタンが舞台の映画です。

当地を舞台にした映画やドラマは数あれど、未だ訪れたことのない

ニューヨークへの憧れは、この映画が見せてくれた街なのです。

この映画がきっかけでThe Godfatherも全作、何度も観ちゃったり。笑

出会っているのに出会えないストーリー構成も、もう全てが素敵。

何より、ふたりのメールのやり取り、登場人物たちの言葉の応酬が

ウィットに富んでいて何とも秀逸、かつ愛らしい。

最近(というかもはや常に)デートに飢えている私に響く言葉、

こんな風に誘われたら、口裂け女になりそうなほど笑みがこぼれる

Tom Hanks 演じる Joe の言葉がこれ。

Hey, you want to bump into me on, say, Saturday around lunchtime?

ばったり会う約束ってなに!?

確かに(Joeからしたら意図的に)ばったり会ってきたけど、

ロマンチックすぎない!?

と思って、いつか誰かがこれを言ってくれるのを、初めてこの

映画を観た日からずっと待ち続けている私です。

 

🎬Notting Hill 

www.imdb.com

こちらも本作掲載作品。

最近は、在宅勤務のBack Ground Movieにしていたりして、

これも全セリフ覚えるんじゃないか並みに何度も観た。

著者たちも語っていたけど、Julia Roberts 演じる世界的有名女優の

Annaは、ちょっと傲慢だな、と私も思ってはいたのです。

出会ってすぐに、なんでキスしたの!?喜ばれること前提!?

モテる人って、自分が他人にキスするのは、もはや恩恵だと思っているのね、

みたいな。

著者のふたりは、Hugh Grant演じるWillにAnnaがいつ惹かれたか、という

議題を出していましたが、私個人的にはその反対がずっと疑問。

Willは名声のあるAnnaの美しさ以外のどこに惹かれたのかしら、と

思っています。

だって、Will って、全然冴えないけど、めちゃくちゃ心優しい人として

描かれているんだよ。

そんな人だからこそ、Anna の美貌以外のどこにどの時点で惹かれたのか、

いつintimateな気持ちを持ったのか、わからないんですよね。

それとも、やっぱり名声と美貌が、平々凡々な彼を圧倒したのだろうか。

とかいって、まあそこが"娯楽映画"たるラブコメなのかな。笑

そんなことを思いつつも、私はこの映画が大好きです。

Willの繊細さと、それをわかってくれる周りの友人たちとの友情が、

またこの映画の魅力。

 

🎬Spanglish

www.imdb.com

これは話としては中途半端な感じもある作品ではあるのですが。

メキシコから移住し、英語も話せないFlor (Paz Vega)がClasky一家の

ハウスキーパーとして勤務し始めてからの物語です。

Florと 娘Cristina (Shelbie Bruce)の母娘物語かつアイデンティティ物語でもあり、

Clasky 一家の機能不全一家の様相とFlorの各人との関係性も描写されており、

John (Adam Sandler)とDeborah (Tea Leoni)の夫婦の問題が描かれてもおり、

JohnとFlorに芽生える恋心も、、、

ちょっと内容が盛りだくさんすぎて、まとまりがない感は否めない。

でも、とっつきやすくはあるし、いいお話。(雑w)

ストーリーとしては個人的に好きでもあります。

つめこみすぎて深化させられなかったんだな、って感じだから、

考察を深めようと思えば、色んなきっかけはちりばめられています。

Adam Sandlerが The コメディ俳優としての出演ではなく、男性として、

親として、魅力的な役柄として出ているところも見どころ。

もうでも、何が素敵って、Flor演じるPaz Vega!!

彼女の一挙手一投足、どの表情もチャーミングで美しすぎて、

目が離せないのです。

スペインの女優、モデルさんらしく、他の作品は観ていないのだが、

彼女を一目見るためだけにでも、本作は是非とも観てほしい。

もうこの Flor役の彼女は、ため息が出るほど魅惑的なのです。

 

 

結構山ほどラブコメ映画は観ているつもりなのですが、

意外と、「これ!」ってドンピシャのものはない気もしている。

「誰かの恋観てリハビリする」というより、私は多分まず、

実際に恋愛して喜んだり怒ったり傷ついたりして、リハビリどころか

その前段階の経験が不足すぎるからかもしれませんね。

私が上述した作品たちは古いものばかりだけれど、

直近のラブコメは、人種や性別(ジェンダー)の見識もより幅広くなって、

ポリコレ的に安心して観られるものが増えてきています。

だからこそ、最近のラブコメのほうが共感ポイントはやはり多い。

あり得ないRomatic Comedy的展開だとしても、、より等身大で

描かれている感じがします。

 

 

本日、Christmas Eveですが、特に予定もない私は、それこそ

Christmas Romantic Comedy Movieでも家で観ながら、ほっこり

過ごそうと思います。

 

<The 56th Book> すべて真夜中の恋人たち

一応、恋愛小説だと思うけれど、一概にそれだけとも言い切れない。

まるで俳句のような、詩のような、それでもなんだかとても人間臭くて、

自分を自分に戻してくれるようなそんな作品です。

 

「すべて真夜中の恋人たち講談社文庫

著:川上 未映子

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bookclub.kodansha.co.jp

 

書籍の校閲者である冬子が主人公。

校閲という仕事は向いているけれど、会社が合わなかった彼女は、

今はフリーランスとしてそれなりの仕事をもらい、自宅で働いています。

クリスマスイブの真夜中に、散歩をすることが、毎年の誕生日の恒例行事。

彼女に仕事を与えているのが、出版社の聖です。

容姿も美しく、立場関係なく誰に対しても弁が立ちすぎるほどで、

仕事も抜かりなく、気楽にセックスやデートを楽しめる相手が何人かいる、

冬子とは正反対といえるでしょう。

冬子は、ちょっとした勇気を出すために、飲酒を始めます。

飲酒をして向かったカルチャーセンターで出会った三束と、

とある喫茶店で逢瀬を重ねていきます。

もちろん会うのは、飲酒をしてから。

高校の物理学教師であるという三束とは、よく光の話をするのですが、

不器用で、言葉少なの二人が織りなす会話は、歯がゆくも愛らしくも、

美しくもありました。

高校で仲良くしていた友人の早川典子や、聖を紹介してくれた恭子さんなど、

その他登場人物も含む会話とそれに基づく冬子の回想で、物語が進みます。

これら女性の登場人物がまた、人間臭さを増しているというか、

現代女性の様々な立場を投影してくれてもいます。

 

 

本作のすごいところは、彼女は非常に敏感で、繊細な人間で、

全て冬子の一人称で語られているのに、彼女の感情描写が決して

多くないところ。

もちろんあるのだけれど、それが非常に詩的に描かれているというか、

比喩的であるというか。。。

冬子が何をしたか、冬子が外界で起こった何を目にしたか、

そんな事実の描写が、彼女の目を通して語られることによって、

彼女の心情が描かれている、というのでしょうか。

ある種まどろっこしいのだけれど、それがとてもピュアで美しい。

人間、ここまで自分の感覚と感情に、sensitiveになれるのか、と

(フィクションとはわかりつつ)冬子に感じてしまうほどです。

冬子が語らずして、彼女自身の心情を語らせている技巧は、作者の

類まれなる文才ってことなのでしょうか。

 

 

サラリーマンになったからなのか、バンコクに来たからなのか、

どんどん自分の繊細さや、感受性が鈍麻していっている気がします。

外界からの刺激がどんどん増えていっているように見える今の時代、

それは便利かもしれないけれど、自分が自分でなくなっていくような

感覚もあって、とてもこわい。

真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う。

本作、冒頭の第一文目です。

最近、公私ともにそれなりに忙しく、こんな情緒あふれることを

感じる余裕がなかったのだ、と冒頭から切なくなってしまいました。

 

 

私も中高生の頃くらいから、家族も近所も寝静まった夜中に、

窓から身を乗り出して、よく考え事をしたものでした。

そんな時間が好きで、大切にしていました。

昼間とは違う佇まいのお向かいさんを眺めつつ、静寂の香りをかぐ、みたいな。

今、そこで自分が感じている風や匂い、見ている星や雲、お向かいさんの

家の姿が重なる夜は二度とないんだ、って感傷に浸ったりして。

世界中の、儚さと切なさを、自分だけが独り占めしているようで、

その時間が、一瞬が、狂おしいほど大切で、特別な時間でした。

 

大学生になって、哲学の授業だろうか、キリスト教系だったかな、

ニーチェの話が出てきたのです。

有限の原子と、無限の時間であれば、原子の可能な順列組み合わせの数は

いつか到達せざるを得ないから、宇宙は繰り返す、と彼は説いた、という話。

その時、ふと、私はまた、同じ人物として、同じ両親から生まれて、

また窓の外に身を乗り出して、同じ佇まいのお向かいさんを、同じ位置で星が

照らしているのを、きっと見るのだろうな、と思いました。

私は、私として生まれる運命で、過去にも未来にも、私として存在し得る

運命なのかもしれない、と。

「AMOR FATI - 運命を愛す」という、ニーチェの言葉だそうです。

 

それを学んでからも、やっぱり夜中のその時間は感傷的なものでした。

なぜなら、物理的には同じ私でも、その時に私が感じたこと、

思考したことは、過去や未来に存在するかもしれない私と同じとは限らないから。

現存する今の私が感じていたのは、その時に一緒に存在したその夜だけで、

そこで私が何を思い考えるのかは、きっと過去や未来の私にもわからないから。

ニーチェのその言葉を学んでから、夜中のその時間が、私にとって

更に大切で、更に感傷的な時間になったのでした。

 

 

冬子にとっての三束さんは、私にとってのニーチェだったのかな、

なんて、本作を読んで思い出しました。

冬子と三束さんが、光の話をしたように、私は運命に想いを馳せていた。

ニーチェニーチェ書きながら、彼の哲学書は何度も挫折して、

結局読んでもないし、ぶっちゃけ哲学は全く詳しくないけれど。

そして何より、私はニーチェに恋はしていなかったけれど。笑)

 

 

冬子が誕生日の真夜中の散歩で、その美しさを感じ、光を想起させる

ピアノ曲に浸って、自分をきれいなもので満たす時間を持っているって、

そして、そんな時間を更に大切に思える人と出会えたことって、

本当に素敵なことなのだと思うのです。

そんな感傷的な時間を、もう長らく過ごしていない、と本作を読んで

気付きました。

仕事に追われるのも、脂の乗ったこの時期の青春を謳歌するのも、

悪くはないし、30代ならではだとも思う。

だけど、夜中に窓から身を乗り出して、その一瞬を全身で感じようとしていた

少女の私を忘れたくはない、忘れてはいけない、とも思うのです。

<The 55th Book> 夏物語

生まれてきたこと。生を授けるということ。性欲と生殖。

(女として)生を授けて生きていくこと、または授けずに生きていくこと。

生まれてきて、死んでいくこと。

「乳と卵」の続編ともいえる本作、life-changingな一作かもしれない。

必読です。

 

「夏物語(文春文庫著:川上 未映子

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books.bunshun.jp

 

「乳と卵」では、主人公、夏子の東京の家に、年の離れた姉の巻子、

その娘の緑子が大阪から訪ねてきた数日の話でした。

巻子の豊胸手術をめぐっての各登場人物の思考や、初潮前の緑子の

反出生主義的つぶやきが、controversialな作品でした。

それに伴う、巻子と緑子の母娘(家族)関係も心に響くものがありました。

本作でも、第一部として収録されています。

本作は、それから8年後以降の話で、夏子が小説家としてデビューを果たし、

AID(非配偶者間人工授精)の実行について悩みあぐねるストーリーが

主軸になっています。

夏子の担当編集者の仙川さんは、裕福な家庭に生まれ育ち、未婚のまま、

自然に生きていたら、子どもが生まれてこなかった、それに後悔のない人。

売れっ子小説家の遊佐は、男は最終的に必要なかった、という結論に至った

シングルマザー。

かつてのバイト仲間の紺野さんは、鬱病の旦那と、旦那実家に振り回されて、

ただの「まんこつき労働力」となっていた自分が嫌悪する母親と、同じ道を

歩むことになり、娘もいずれ自分を嫌いになるだろう、と自嘲的。

AIDで生まれたことを知り、AIDについての周知活動を行っている逢沢さんは、

未だに自分の出自が招いた環境と自身の心境に混乱し、苦しんでいる。

逢沢の恋人である善百合子も、AIDで出生しており、血のつながりのない

育ての父親やその周囲に、幾度となくレイプされた過去を持っている。

こういった登場人物たちと夏子が築いていく人間関係と、

大阪の港町から夜逃げして、時に脅威を感じていた父がどこかへ消えた後、

コミばあと、母親と、巻子と、その日食べるものもないながらも、

それなりに楽しく、女4人で暮らしていた、幼少期からの思い出の回想などで

物語が織りなされています。

 

 

自身が無知で考えたこともなかったこともたくさんあって、

ほんの数ページ読んで休憩すると、頭がoverflowすることが度々ありました。

ほんの数ページなのに、その度に自分がemotionalになっていることが多くて、

読むのにひとく時間がかかってしまった。

 

 

私自身は、子どもを積極的に欲しいと思ったことがない(と思っていた)ので、

むしろ私自身も反出生主義的な部分は大いにあると自覚しているつもりで、

そういうスタンスで読み進めていたのです。

でも、なぜか、各人、全く違う考えの持ち主なのに、全ての登場人物に

共感し、彼らの言動に大きく頷いている自分がいました。

AIDを望む主人公の夏子なんて、私と対極のところにいたはずなのに、

私の知らない視点、想いがつづられていて、どうしてもそれに対して、

私自身が気持ちを重ね合わせると、嫌悪感はおろか、なぜかすんなりと

馴染んでいく感覚すら得てしまった。

想像以上に、出生や生殖、それに伴う家族関係について、私は無知で、

考えることを怠ってきたと喚起されました。

またも芸がないけど、心を打たれた言葉、場面をいくつか抜粋させてください。

 

 

「まんこつき労働力」

紺野さんから出たパワーワード

両親の意図はわかりませんが、少なくとも私は、まんこつき労働力に

なるようには育てられませんでした。

私のことを、娘として溺愛しながらも、息子として育てられたような気が

することが時々あります、特に父から。

社会がまだ性役割を求めてくる社会であるからこそ、

そうであれば、男として生まれたかったよ、と思うことが度々あるのは、

そういった育ち方をしたかもしれませんが、これについてはまだ、

自分の中でも整理がつきません。

ただ、まんこつき労働力にならずに済んでいることは、感謝している。

 

「親切さに限らず、だいたいのことってほどほどの濃度じゃないと人にうまく伝わらないようになっているから。共感ってそういうものです。」

共感力と同調力の話にもつながる気がしますが...

繊細であればあるほど、感情や感覚の濃度が濃くなる気がしています。

繊細な人ほど、色々と伝わりにくいのだろう、とはっとさせられた言葉でした。

 

女にとって何が大事か、男と分かり合えないことが何か、という会話において

「女でいることが、どれくらい痛いかだよ」

(中略)

「女がもう子どもを産まなくなって、あるいはそういうのが女の体と切り離される技術ができたらさ、男の女がくっついて家だのなんだのやってたのって、人類のある期間における単なる流行だったってことになるんじゃないの、いずれ」

(中略)

「子どもをつくるのに男の性欲にかかわる必要なんかない。もちろん女の性欲も必要ない。抱きあう必要もない。必要なのはわたしらの意志だけ。女の意志だけだ。女が赤ん坊を、抱きしめたいと思うかどうか、どんなことがあっても一緒に生きていきたいと覚悟を決められるか、それだけだ。いい時代になった」

自らシングルマザーの道を選んだ遊佐の発言です。

男女の苦しみは、社会構造が造り出している。

その家父長制的な社会構造自体は、基本的に男性が構築している。

そこまでは、これまで学んできたことの復習です。

でも、生殖行為や子どもを授かる、ということが、これまで学んできた

フェミニズムに関して、切っても切り離せない話題であることは深く認識

しつつも、自分が妊娠出産などに興味を持ってこなかったからこそ、

どうしても腹落ちしていない部分が多々あったことを再認識。

私自身が男性との婚姻関係や共同生活無しに子どもを欲しい、

と夏子のようにもし仮に思うことがあれば、それは男がいなくても、

少なくとも技術的にできることなのだ、既に夫婦間で行われている

不妊治療と技術的には同様なのだ、と気づかされて開眼です。

 

そう、ふたりが死んでから、私はふたりを見たことがないのだった。会えたことがなかった。そう思うとそれはすごく間違ったことのように感じられて、すごく不当なことであるような気がしはじめた。たった死んだくらいのことで、わたしはコミばあにも母にも、あれからもう、二十年以上も会っていないし、話してもいないのだ。(中略)たった死んだくらいのことで!

昔はよく、死ぬことについてよく考えていました。

7歳くらいのときに、大好きだった祖母が亡くなってしばらくして、

いつか自分も死ぬことに気付いて、大泣きした夜から、死ぬことについて

よく考えた。

インターネットが普及してから、「死 とは」「死生観」とかよく調べていました。

いまは、何だか生きることに忙しくて、考えることがなくなってしまった。

生きているから、生きるのに集中しているのはいいことかもしれないけど、

生があるから死があるということを鑑みれば、もう一度、死について思考の沼に

浸ってもいいかもしれない、と思っています。

ちょっと生き急いでいる、生き急がされている感もあるし。

家族や友人、私の大切な人たちも、たった死んだくらいのことで、

いずれ会えなくなってしまうのだろうか。

それなら、私が「たった死ん」でしまってもいいかもしれない...

なんて、死についてまた深く考えてみたら、思うのでしょうか。

 

「どうしてみんな、子どもを産むことができるんだろうって考えているだけなの。どうしてこんな暴力的なことを、みんな笑顔でつづけることができるんだろうって。生まれてきたいなんて一度も思ったこともない存在を、こんな途方もないことに、自分の思いだけで引きずりこむことができるのか、わたしはそれがわからないだけなんだよ」

夏子の、AIDで子供を産もうとする方法が不自然だという自覚はある、

という話から方法は大した問題ではない、何をしようとしているか自体に

ついて考えているのか、AIDだろうと、どういう出自であろうと、生まれて

くれば一緒だ、という、善百合子の言葉です。

「一度生まれたら、生まれなかったことにはできないのにね」と。

普通にサラリーマンをするにはちょっと繊細過ぎるかな、と我ながら、

今も思うことが時々ありますが、若い頃のvulnerablityはなかなかでした。

学校や家庭内で起こる日々の小さなことが、心に深くささって、それについて

逡巡してしまう性格なので、辛気臭い、心身ともに脆弱な子でした。

一人っ子だし、自分と両親が衝突することがあれば、両親自身に向かって

「産んでなんて頼んでない。生まれてきたくて生まれてきたわけじゃない」

と、小学生の頃から、何度か泣きながら言った記憶はあります。

今だって、幼い頃の私が心の中にいて、その気持ちは多少持ち続けている。

Life is beautiful!!  I am so excited to be alive everyday!!

とか思えること、一生ない気がするし。笑

でも、生まれてきたから、生きなきゃいけないし。

でも、生きるなら、辛いのは嫌だし。

でも、辛いことや苦しいことは絶対起こるし。

でも、その辛いことや苦しいことって、私が生まれてきたからだし。

でも、生まれてきたのって、私のせいじゃないし。

って、「でも」の無限ループになる。

breakthroughすればいい話だけど、そもそも生まれてこなければ、

辛いことも苦しいこともいらないし、自助努力のbreakthroughも不要でしょ?

という、善百合子のスタンスは、心の底からわかる。

それなりに恵まれた環境で育ってきた私が、それを心の底から共感してしまう

事実に、申し訳なさ、悲しさ、切なさ、そんな感情がないまぜになるのが

善百合子との会話の場面では幾度もありました。

「生まれてきたことを肯定したら、わたしはもう一日も、生きてはいけないから」

ここまで強い想いはないけれど、涙せずにはいられない言葉でした。

 

 

夏子が、シングルでパートナーもおらず、子どもを産みたいのは

「子どもに会いたい」からだと言います。

前にも書きましたが、仮に出産したら自分の子どもが生きなければならない、

という責任を、私は抱えられる自信がない。

だけど、自分の子どもに会ってみたいか、と聞かれれば、

会ってみたいかもしれない、と初めて本作で気づきました。

実際に責任を持つことや自信がないことと、欲望は別物だから。

ただ単純に、自分の子どもという、自分ではない他者だけど、自分の体から

出てきた人間に、会えるなら会ってみたいという、その欲望自体は、

否定できない。

そのくらい、mind-blowingで、自身の無自覚の欲望や、人生観や死生観に、

影響を与えるくらい、センセーショナルで深遠な作品です。

<The 54th Book> 選んだ孤独はよい孤独

あー、いるよね、そういう男。

っていう感じの男性たちがメインの短編集。

女性の視点で読むと、「うわ、いるいる、こういうクズ男」ってなるけど、

ニュートラルに読むと、もし自分が男だったら、って読むと

結構しんどい。。。

 

「選んだ孤独はよい孤独」(河出文庫

著:山内 マリコ

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www.kawade.co.jp


地元(の仲間)から抜けられない、冴えない無職アラサー男。

ボールが怖い男子。

彼女から性行為を強要され、尊厳を失いかける男子。

自分で自分の面倒を見ることもできず、4年経って、ようやく

付き合っていた彼女に捨てられたと悟る男。

一見仕事がデキそうに見えて、実はデキないことを見透かされている男。

三菱商事社員でなければ結婚してもらえない男。

無難な人間を自称(自虐?)する男に、救われた男。

知らない間に父親になって、知らぬ間に祖父になる男。

死に魅了される男。

女性が語る男もあれば、男性が語る男も、

詩のような作品もあれば、小説風のものもあり、あっという間に読了。

 

山内マリコ氏の作品は、「あのこは貴族」「メガネと放蕩娘」に続き、

本ブログで紹介するのは3作目でしょうか。

女性同士の話が多い印象の山内氏でしたが、今回は、男ストーリーの寄せ集め。笑

冒頭でも少し書きましたが、「うっわ、男ってマジでクズ...」って思うような

男性も結構描かれているんですよ。

何もしていないのに、子どものこともわからないまま祖父になっていた、とか。

指示待ちでしか家事ができないのに、自分をいい彼氏だと思い込んでるとか。

金さえ稼げばいいだろ、的な態度とか。

金稼いで、指示次第では育児家事して、それで「俺っていいやつ」って

思えるとかどれだけ男ってお気楽なんだよ、本当意味わかんないよ、とか

作品の中に描かれていないストーリーも、色んな”あるある”から引っ張って、

ひとりで怒りそうになっていたんです。笑

だって、女は金も稼いで(出世したいならミスは男以上に許されないし)、

出産家事育児して、ようやく一人前なのに、男は会社でそれっぽく働けば

終わりじゃんかよ、「女はいいよな、最悪結婚すれば逃げられるんだから」って

ちげーよ、「男はいいよな、とりあえず会社行ってればいいんだから」だよ!

とか、もうひとりでイライラむかむかしたりしていたんですけど。笑

(まあ私も「とりあえず会社行ってる女」だから何も言えない。笑)

 

 

話は少しそれますが、私、新入社員の時に、

「ああ、私、甘やかされた死刑囚になってしまった...」

って思ったんですよ。

新入社員は大体、業務(現場)から、なんて会社は多い気がするけど、

私の入社した会社も例にもれずでした。

従って、若手社員が多くて。

そりゃあ最初は多少勉強したり、覚えることもあったけれど、

雰囲気自体が、なんとなく学校の延長みたいな部分もありました。

仕事や業務自体は興味を持てなかったけれど(ていうか、この10年弱、

働いてきて興味も熱意も全く持てたことないわw 仕事ってだけでだめだわw)、

なんか、みんないい人で、本当に当時は楽しかったんですよね。

たまに失敗したり、嫌な案件があったりすると、憂鬱になることも時にあれど、

最初の5-6年くらいは、朝起きて、「今日は誰と何のランチ食べようかな!」

くらいの気持ちで行っていた気がするんですよ。

思い出だから、美化されているだけかもしれないけれど。笑

大企業だから、自分から一生懸命働きかけなくても、仕事は振ってくる。

仕事のできが良かろうと悪かろうと、クビにはならない。

一生懸命働かなくても、生きる分のお金はもらえる、

いぇーーーい、サラリーマンの醍醐味だぜ!みたいなね。

(やりたいこととやる気があれば、さっさと起業しているよ。笑)

とはいえ、ずっと同じ部署で同じ仕事をするなんてことはなくて、

私なんかは異動が人より結構多いから(こんなマインドだから厄介払いかもね)、

全然何も身につかなくて、やりたいことも糞も見つからねぇよ、みたいな

キャリアを積んできて、「飼い殺されているなぁ」って最近思うのだけれど。

最初は甘やかされて、あちこち行かされて、この会社でしか生きていけない

キャリアになってしまった...遠い目、、、みたいな。笑

(たぶん必ずしも、そんなことないんだろうけれど。)

でもね、生活があるから、もう逃げられないのです。

今の仕事、正直しんどい。

興味は前の業務以上にないし、適性も皆無だし、何より感情的に嫌い。

でも、今ある生活より、下のランクの生活も、望んでいないのです。

だから、しがみついていかないといけない。

これ以上落ちないように、あわよくば、今より少し上に上がれるように、

喰らいついていかないといけない。

さあ、これぞ甘やかされた死刑囚の死闘です。

 

 

私は女性だから、わからないけれど、ひょっとしたら男性の人生って、

そんな感じなのかな、って思ったりします。

社会って、男性を優遇するでしょう。

(しない、とは言わせません。男女差別の存在は否定できないのだから。)

男性は、生まれたときから優遇された男の社会しか知らずに生きているんです。

そして、その優遇された男の社会というものは、歴史と伝統によって数千年にも

わたって紡がれているから、大企業を辞めることなんかよりもずっと、

その社会から下りることははるかに難しいんです。

自らその社会から外れることって、もはや死なのではないだろうか、

男性のほうが明らかに自殺率が多い統計があるのはそういうことだろう。

生まれたときに乗らされたレールに、しがみついて、振り落とされないように必死。

家事しなくていいよ。育児もしなくていい。自分の面倒も自分で見られなくてOK。

でも弱弱しいのはダメ。女におごらないとダメ。そのために出世しないとダメ。

男は金と権力を求めて生きろ!!

そんな訳の分からない、不要なルールにがんじがらめにされているのでしょう。

自分が求めるべきものまで、社会から押し付けられて。

女の私には想像つかないけれど、想像しようとしても、

私のサラリーマン人生と似てるのかなぁ?どうかなぁ?くらいだけれど、

絶対、相当しんどいはずなんですよ。

特に、仕事も家事も育児も完璧なスーパーウーマン的女性が出てくれば

(そんな女性の測り知れない努力と労力には申し訳ないけれど)、

もう男性も女性も、息継ぎもできぬほど、あっぷあっぷですね。

マジでこの男性優位社会、誰得????

 

 

ということを、代弁してくれたのが本作です。

本ブログで紹介した、「さよなら、男社会」や「男らしさの終焉」も

ぜひ読んでいただきたいですが、山内氏のキレッキレながら、時に軽妙、

時に美しく描かれている物語で、フィクションならではの重くなりすぎない

気持ちで読める本作、おすすめです。

これフィクションですよね?と、あるある男子、あるある会話が多すぎて、

思わず疑いたくなるくらい、物によってはコラムやエッセイを読んでいる

ような気分で読めるのに、男性優位社会へメスを入れてくれている本作、

秀逸です。

<The 53rd Book> ほろよい読書

ほろ苦かったり、甘酸っぱかったり、お酒を飲める人たちの

ちょっとした日常と青春が詰まった短編集です。

 

「ほろよい読書双葉文庫

著:織守 きょうや・坂井 希久子・額賀 澪・原田 ひ香・柚木 麻子

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www.futabasha.co.jp

 

お酒が主役(?)の複数作家による短編集です。

お酒を使ったお菓子に託した、積年の友人への密かな想い。

四十路になって、果実酒と恋には、酸いも甘いもあると実感するとか。

実家の酒造の味をわからぬまま、敷かれたレールを走りかける大学生の青春。

食事やお酒のたしなみ方が違いすぎた夫に出ていかれて、居酒屋兼定食屋でバイト。

保育園クラスのパパママ友相手にオンライン飲み会のバーテンしたり。

そんなお酒にまつわるお話が、5つ収録されています。

 

 

本ブログにも多数作品出ている、柚木麻子氏が私の最近のお気に入りで、

柚木氏の名前が表紙にあったから手に取った作品ですが。

柚木氏の、保育園クラス仲間のオンライン飲み会とバーテンダーのお話は、

お話自体でいえば、私自身が出産も育児も経験していないから、あまり

個人的に響くものではなかったのだけど...

でも、さすが!!って思える設定と、柚木氏の強い意志と主張が、

最後の5ページくらいに凝縮されている感じで、にんまりしてしまった。笑

コロナ禍の話だから、本当に最近、執筆されたものなのでしょう。

今の情勢への、親、子ども、子どもや老齢者のケアが職業の人々、

そんな人たちの切実な想いが、政治へ社会へぶつけられていて、

最初は、「え?冷蔵庫にあるもので作るカクテルのレシピ系作品?」と

思いきや、最後にぶわーっと、社会問題にメス入れるの、さすがすぎる。笑

 

 

個人的には、本書では原田ひ香氏の作品が好きだったかな。

厳選した調味料で作ったお料理の食後に、美味しいお酒を少し楽しみたい沙也加。

ご飯を食べながら、だらだらとお酒を飲んで、仕事のストレスを癒したい夫。

好みの食べ方、飲み方のすれ違いで、夫は出て行ってしまった。

出ていく前に、夫が密かに通っていた「雑」という小汚い定食屋・居酒屋で、

沙也加はバイトを始めることになる。

沙也加の頑なで、精神的にも成熟していない感じが、作品として魅力的。

あまり私は好きになれない主人公なのだけど、意外と、何も面白く感じない

主人公とかよりは、好感持てない主人公のほうが、作品としては面白いと

感じたりするのかも。

 

 

お酒にまつわる思い出、色々と思い返されてしまいますが、

楽しいお酒の思い出って意外とないものですね。笑

いや、楽しい会はたくさんあったはずなのに、思い浮かんでこない。笑

幼い頃は、基本的に、家族親族の酒癖で嫌な思いをすることが非常に多かった。

酒癖が良くない人が、家族にいると、結構トラウマです。

電車の中での酔っ払い(特に吐きそうな人)察知能力が異様に高くなって、

逆に嫌なものが目に入ることも増えるし。

仕事を始めると、「ああ、あれ嫌な酒の席だったな~」というのはいくらか

思い出されたり...

嫌な会社の酒の席で、ほとんど飲んでないのに悪酔いして、帰り道に足首骨折とか。

労災おりないよ~みたいな。笑

 

 

思い入れのある(?)お酒は、

赤ワインの「Zinfandel」もしくは「Primitivo」

ヤシの実酒「Toddy」

ジンの「MONKEY 47」

です。

 

 

「Zinfandel」は米カリフォルニア産、「Primitivo」はイタリア産、

ぶどうの品種自体は一緒らしい。

なんの会で、誰がいたかもしっかり覚えてはいないのだけど、

会社の人たちとイタリアンのお店に飲みに行ったときに、勧められて、

とても美味しくて、仲良くしてくれていた人と一緒に感激した品種。

今も、ご飯を食べに行くと、ワインリストで探してしまう。

やっぱり当たり外れあるから、必ずしもこの品種を買えば美味しいわけでは

ないこともわかったし、全くワイン詳しくないけど、ひとつだけ、

お気に入りとして覚えているもの。

赤ワイン自体は、軽いものより、重厚なほうが美味しいと感じる。

唇に滓が翌日まで残っちゃうようなやつ。

 

 

「Toddy」は、マレーシアで、会社のインド系のおじさんたちに教えてもらった。

Palm Wineとも言うらしいけど、その中の種類のひとつなのかな。

超ローカルすぎて、自分だけじゃ行けない遠いところにあった店。

二回くらい連れて行ってもらったかしら。

ヤシの実の花の液を発酵させて作っているとか。

新鮮なうちじゃないと、酸味が増すから、お店で土瓶から飲まないと

美味しくない、とか言っていました。

甘酒とカルピスを足して二で割ったような、甘酸っぱい味。

私は好きだったけど、人によって好き嫌いはあるようです。

飲みやすいから、グイグイ飲んで、結構酔っぱらった記憶はあります。

経験として、珍しいものを飲めた感じ。

 

 

「MONKEY 47」は仕事で知ってから、飲んでみたくて、でも当時、意外と

置いてあるお店が少なくて、ようやく見つけて飲んだら、ハーブ感満載で、

とても美味しくて気に入ったのでした。

ホテルのバーには絶対ある感じのようです。

大人になって、初めて入れたボトルが、このジンだったから、感慨深くはある。

それもマレーシアのBanyan Tree HotelのルーフトップバーVertigoで。笑

KLで一番ホットなルーフトップバーが、Vertigoだったから、誰かが

日本や他国から来る度に、行っていました。

その度に、このジントニックを頼んでいたら、知らぬ間に、給仕のお兄さんに

顔を覚えられていたようで、「ボトル入れたほうが安いよ!」と言われるがまま

入れてしまった。笑

会社の先輩たちと一緒に行ったとき飲み干しちゃって、追加で私の名前で

入れてくれたりもして、優しかったな。

我ながら、豪勢でバブリーなことをしているな、と思ったけれど、

これはお酒にまつわるいい思い出です。

 

 

さて、大して内容もなければ、とりとめもない感想になってしまった。

バンコクのバーホッピング、いつできるようになるかなぁ、とか思いながら

読んでいました。

けど、そんな感じで、心をほぐしてくれる一冊になっています。

せっかくだから、お気に入りのお酒と読めばよかったかもしれない。

張り詰めた一日を過ごした後に、一杯と一話、いかがでしょうか。

<The 52.5th Book (番外編)> 痩せてる女以外生きてる価値ないと思ってた。

番外編です。珍しく漫画です。

 

「痩せてる女以外生きてる価値ないと思ってた。」  

ぶんか社著:ざくざくろ

f:id:kanaebookjournal:20211012204306j:plain

www.bunkasha.co.jp

 

SNSで見つけて、思わず衝動買いしてみたら、漫画でした。

 

 

私は過食嘔吐はなかったし、ADHDでもないけれど...

でも人生で”やせ型”はおろか、”普通体型”ですら経験したことがない私は、

この著者の経験談、すごくデジャヴなところあります。

 

 

もちろん、本人のメタ認知能力含め、自己肯定感とかセルフコンパッションとか

そういう問題もあることは否定できません。

でも、私も海外生活で、結果的に、何気に相当なキロ数の減量となりました。

(とはいえ、全くもって”やせ型”ではないし、”普通体型”より太いはず。)

自分自身が前より体が軽くて心地いいから、今をキープするか、

今よりもう少し減量してもいいかな、という感じですが、それでも周囲の反応、

特に男性の反応は、明らかに違うのは感じる。

 

 

痩せたらモテるし、人生変わる!!

みたいなテレビ番組とかCMとか、昔からあるし、ああいう番組を見た後

「明日から私、絶対ダイエットがんばる。だって意外に簡単そうだし、

きっと気付いたら痩せているはず♪」

って決意して、結局やらないでいたんだけど、ある程度痩せてみて

気付いたことがある。

別に、太っていた時も、それはそれで私は自分に満足していたんですよね。

自分の見た目以外のところにある程度は価値を既に見出していたし、

(少なくとも、そうしようとしていたし)

見た目よりも、外見以外の自分らしさのほうが、私にとっては、

ずっとずっと大事で、自分の根幹でした。今もそうです。

 

 

だけど、やっぱり異性関係になると、なぜか、見た目が最重要事項になる。

もう三十路も過ぎましたし、もうそういう段階は超えたかな、とも思うけど

色々なトラウマを乗り越えられた、というほど、私の傷も浅くない。

今でこそ、自分の見た目はそれなりに好きになって(好きではなくても)

こんなもんか、という気持ちでいられるようになりました。

それは、今より少し太っていた時も、それより多少痩せた今でも、です。

だけど、学生の頃、若い間はあまりに自分の外見にコンプレックスが強くて、

(見た目ありきの)恋愛をするなんて、恐れ多すぎて、

「デブスな私から好きになられる人は、かわいそう。私に恋愛する価値はない」

と本気で思っていました。

恋愛以外のことでは、経験を積み重ねて、少しずつ培っていた自信も、

片や異性関係や恋愛のことになると、ネガティブドリルで穴掘ったら

ブラジルまで届いちゃうんじゃないかレベルで自信が無かった。

 

 

まだ外見に関しての考察は、自己分析中なのですが、やはり結構、

他者からの批判というのが、自身のトラウマになっている気がします。

私自身は、他人が太ろうが痩せようがどうでもいいし、気付かないこともある。

気付いても言わないようにしていますしね。

他人の外見はどうでもいいけど、自分の外見には時にすごく拘泥するんです。

自分が自分で「太っていて可愛くない」と実感して、問題意識を

持つことよりも、

他人の言葉、言動で「お前は太っているし可愛くない」と想起されて、

さらに言えば指摘されていると感じることのほうが明らかに多かった。

小さい頃からの親族の、身内だからこその無神経な言葉。

思春期ならではの、冷笑じみたコメントや、聞こえよがしの悪口。

「ああ、私は太っているんだ。可愛くないんだ。

それは受け入れられないこと、いけないことなんだ」

と、刷り込みが、日々、何重にも為されていきました。

(若さが寄与していたのは大きいけど)当時は健康体だったのに。

 

 

それなりに自分に満足していたのに、

満足させまいと、強い力で引っ張られていたように感じるんですよね。

 

 

外見以外では、自分なりに成長を実感できて、自信を構築していったのに、

片や外見や、それが大きく寄与する事象となると、自信喪失もいいところ、

卑屈になって、その事象自体を無視する始末。

落差が激しすぎて、未だにそのギャップを埋めるのが大変です。

ただ、外見以外の部分で身に付けた自信とプライドが、

私に外見の自虐をさせなかったことだけは、まだよかったのかもしれません。

 

 

だから、前回の作品でも似たようなことを書きましたが、

ルッキズムに加担しない

それには常に神経をはらうようにしています。

すっごく難しいのだけど。

だって、日系企業のサラリーマンやっていたらさ、ホモソ文化にも

それなりに精通していないと、やりにくいわけだし。

でも、そんな文化が無くたって、やりやすい会社、社会であるべきです。

思わず(大体が褒め言葉として捉えられるものでも)他人の体型や見た目に

対して、言及してしまったときは、苦虫を嚙み潰したような気分になったり、

もしくは「今、自分から外見について言い出されたけど、それに対して

私のコメントは適切?」とか、自問自答が頭の中で鳴りやまない。

そもそも、私が他人と関わる上で、もしくは、他人と親しくなっていく中で、

外見をそこまで重視しないので、パッと見て気付きにくいのは幸いですが。

日々、葛藤だらけです。

(外見に関するジャッジと、自分の感情的な好みはまた別ですしね...)

本当難しいぃ...

けど、声に出さない、言葉に出さない、がマナーなのだろうと、心に刻んで

日々練習していくしかありませんね。

 

 

もう私みたいないびつな人間とか、ざくざくろ氏のように心身削りまくる

人生を送る人とか、そんな必要ないなら、その選択をしないで済む人生を

人々(特に私より若い世代)には送ってほしいじゃないですか。

世の中、外見よりも大事なことは山ほどあるし、それに囚われる必要がない、

と実感できることで、すごく人生が楽になり得たりすると思うのです。

こんなことを思う必要すらない社会が早く来るよう、願ってやみません。